意志と選択
いつの間にかそこにいた人物に、巴は足元の薙刀を手に取った。モズの襲撃から常に手が届く場所に置くようにしておいたのだ。
侵入者は、両こめかみに白髪が混じる鈍色の髪をした三十がらみの男だった。室内の灯りに映える瞳の色は、赤みの強い黄金か。切れ長の目に通った鼻筋をした面立ちは、怜悧に整っているにもかかわらず、奇妙なほどに印象が薄い。後日道端ですれ違っても気づかないのではないかと、何故か思わせた。
愛刀を中段に構えた巴の横で、しかし、絢嗣が呟く。
「君は……」
「ご存じの方ですか?」
構えは解かず、男に眼を据えたまま、巴は絢嗣に問いかけた。が、それに応じたのは、彼ではなくカワセミだ。衣擦れの音もたてずに巴の傍に来ていた彼女が、教えてくれる。
「フクロウ、よ。『伏せ籠』の長である八咫様の輔佐。諜報に長けてて、その分、獲物の前に姿を現すことは、ないはずなんだけど……まさか、モズの代わりがあなたってことはないですよね? それに、モズがやられたってことが『伏せ籠』に伝わったにしては、来られるのがちょっと早過ぎな気もしますけど」
カワセミの後半の問いは庭の男に向けたものだ。
男は――フクロウは、軽く首をかしげて答える。
「こんな事態、今までありませんでしたからね。三永氏の依頼を受けた後、私も都に詰めていたのですよ。その方が、状況に素早く対応できますから」
そう告げ、彼は警戒を続けている巴に向けて肩を竦める。
「先ほどそこのカワセミが申し上げたように、私は荒事には不向きです。話をしに来ただけですよ。戦う意思はありません。トビも銃を下ろしてください」
フクロウの言葉と共に、庭の奥からトビが姿を現した。いるとは思っていなかったから、巴は目をしばたたかせる。
「本当に何もしないですよね? その子にかすり傷一つでもついた日には、僕が彼に半殺しにされちゃいますから、勘弁してくださいよ?」
小銃を肩に担いだトビが、言いながら巴の隣に立った。
巴を囲む絢嗣、カワセミ、トビをしげしげと眺め、フクロウは言う。
「本当に、話だけですよ」
フクロウは、ヒタと巴に眼を向けた。
「さて、お嬢さん。我々があなたの命を狙うのは依頼があった為ですが、カラスが追われているのは殺すべきあなたを助け、あまつさえ、あなたを連れて逃げ続けている為です。あなたのせいで、彼も追われる身となりました。それは、理解されていますか?」
「それは……」
事実だ。
関節が白くなるほど、巴は薙刀の柄をきつく握り締めた。
元はカラスの気まぐれからのものであったとしても、今の彼は、巴のせいで居場所を失いかつての仲間から追われる身となっている。
頭では解かっていて、ずっと胸の奥のしこりとなっていたが、はっきりと言葉にして伝えられると苦さが増した。その事実を噛み締める巴を、フクロウが更に追い詰める。
「我らが長は、今、彼が戻るならば、全てを不問にするとおっしゃっています。元々、彼は次の長にと望まれていました。彼にはあらゆる意味で彼に相応しい未来があったのです。今なら、彼をそのあるべき道に帰せるのですよ」
フクロウが言う『あるべき』道は、陽の下を大手を振って歩けるようなものではない。けれど、カラスにとっては『正しい』道なのだろう。
それでも。
巴は奥歯を食いしばって顔を上げ、フクロウを真っ直ぐに見据える。
「カラスは、自分自身で道を選ぶことができる人です。わたくしを助けることも、あなた方に追われることも、彼自身が選んだことです。『わたくしのせい』ではありません」
カラスが、他者の為に自らの道を違えることなど、意に沿わぬ道を歩くことを強いられるなど、有り得ない。巴の為にしたくもないことをしているのだなどということを受け入れたら、むしろ彼に対する侮辱になる。
力を込めてただした背を、カワセミがポンと叩く。まるで、その通りだと言わんばかりに。
「確かにね、追われることやら長の地位やら、そんなの、あいつはちっとも気にしやしないよ。『伏せ籠』に留まっていたのも、出て行く理由がなかっただけのことさ。この子のことがあろうがなかろうが、出て行きたいと思っていれば、あっさり飛び出してたよ。これまでそうしなかったのは、ただ、そうするだけの理由がなかっただけよね」
「そうそう。長の座とか、ホント心底どうでも良さそうだよね。ていうか、そもそも組織まとめるとか、向いてなくない?」
カラスが長になったら三日と持たずに『伏せ籠』が崩壊しそうだよ、と、トビが笑った。
カワセミは、巴を顎でしゃくる。
「この子は、カラスにとって初めてできた『意味のあるもの』なんだ。……あたしと同じように」
最後は小さな囁き声だった。
「カワセミさん」
名を呼ぶと、彼女は微笑んだ。それは、いつもの、作られたようなものではなくて、巴は思わず見惚れてしまう。
「その娘にカラスを飼い慣らすことができるとでも? 彼にはまっとうに生きていくことなどできませんよ。そういう生き物ではありません」
そう言ったフクロウの声には、それまでは感じられなかった不機嫌さが滲んでいた。彼に向けて、巴は静かにかぶりを振る。
「飼い慣らすとか……わたくしのために変わって欲しいとか、思っていません。ただ――ただ、カラスに彼が思うように生きて欲しいと、そうする彼の隣にいたいと願っているだけです」
揺るぎのない眼差しをフクロウに向ける巴を、彼は微かに目を細めて見返してきた。
「……交渉決裂、という訳ですか。わかりました。後悔することがないことを祈っていますよ」
身を翻して去っていくフクロウの背を見送りながら、カワセミが巴を見下ろしてくる。
「カラスを連れ戻しに行く? 多分、『伏せ籠』に行ったんでしょ。あっちでも引き留め作戦に入ってるかもよ?」
巴は少し考えてからかぶりを振った。
「いいえ。カラスは帰ってきてくれますから」
そう残していったのだから、それを信じる。
「ふぅん。ま、あんたがそう言うならそれでいいけど」
カワセミは、肩を竦めて部屋の中へと踵を返す。自分の提案に巴が頷くとは、はなから思っていなかったような風情だった。
縁側に残った巴は、月が見えなくなった夜空を見上げる。
「彼のことが心配かい?」
帰れないような状況になっていたり、自らの意思で帰らないという選択をしたり。
試すような響きを持たせた絢嗣の問いに、巴は微かに笑んでかぶりを振る。
「少しだけ。でも、彼はきっと大丈夫です」
あと一日か二日もすればシレッと帰ってきて、彼のことが心配で眠ることもできなかったこちらのことなど我関せずで、「何でそんな顔をしているんだ」とでも言うのだろう。
そう言われないために。
「もう寝ます」
ご飯を食べて、朝起きて。
そして、澄ました顔で帰ってくるカラスのことを、何事もなかったかのように「おかえりなさい」と迎えるのだ。




