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闇に飛ぶ鳥  作者: トウリン


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彼を救ったもの

 カラスがいなくなってから、一日が過ぎた。

 縁側に立ち猫の爪のような三日月を見上げてまんじりともしない巴に、部屋の奥からカワセミが声をかける。

「追いかけないの?」

「……」

「追いかけたいの?」

 少し言葉を変えて尋ねられても、やはり、巴は答えることができない。


 どうしたいかと問われれば、もちろん、追いかけたい。けれど、そうすべきではないことも、判っている。

 共に過ごしたのは、たった二ヶ月足らずのことだというのに、彼が傍にいないということがこんなにも落ち着かない気分にさせるものだとは。

 巴はフルリと身を震わせる。それは、陽が沈んで急に下がってきた気温のせいなのか、それとも、また別の理由からなのか。


 うつむいた巴の肩に、そっと羽織が着せかけられる。一瞬、彼が帰ってきたのかと思ってしまったが、そこにいたのは絢嗣だった。

「まだ夜は冷える。その恰好では風邪をひいてしまうよ」

「ありがとうございます」

 絢嗣は、巴の頬に指の背で触れる。冷えた頬に彼の温もりが滲みた。

「そんなに彼が心配かい?」

 問われて、巴はしばし考えた。この胸の内のざわつきは、ソレ、なのだろうか。

「……心配、とは、少し違う気がします」

 かぶりを振って答えたものの、やはり名前を付けることができない思いだった。

「彼が帰ってきたとして、君は彼と一緒にいきたいのかい? これからは私が傍にいるよと言っても?」

「え?」

「彼について行ってしまったのは、おじいさまが亡くなって寂しかったからではないのかい? それなら、傍にいるのは私では駄目かな。元々、君が一人になってしまったら一緒に来ないかと誘うつもりだったんだ。君は根っからの箱入り娘だ。彼との生活は色々と不自由だろう? 私といる方が安全だし、幸せなのではないかな?」

 絢嗣の言葉を、巴は顔を伏せて考える。


(幸せ、とは、どういうことを言うのだろう)


 幼い頃、両親と共にいた日々は、まごうことなき幸福に満ちたものだったと思う。もう、はっきりとした記憶は残っていなくても、ふわりと温かな感覚は巴の中に確かに残っている。

 祖父母との生活もまた、静かで、平穏で、両親とのものとは違うけれども、やはり幸せな日々だった。


(では、カラスとは――?)


「……最初は、一方的に連れ出されて、訳も解からぬまま歩き出しました。でも、彼と過ごすようになって、わたくしは――世界に色があることを思い出したような心持ちになったのです」

「色が、か」

 そう呟いた絢嗣は、しばし口を噤んでから再び語り出す。


「私と初めて会った時のことを、君はもう忘れてしまっているだろうな」

「絢嗣兄さまと、ですか?」

 確か、巴が祖父母の許に引き取られたばかりの頃のことだったと思う。庭で話をして、それから一緒に暮らすようになった。何を話したかは、全然覚えていない。

「君は、私が恩を感じているのはおじい様に対してだと思っているだろう? だから、君を守ろうとしているのだと」

 今一緒にいてくれる理由がそれだけではないことは、巴にもわかっている。しかし、『恩』ということについては、絢嗣が言う通りではないだろうか。今の絢嗣の成功があるのは、祖父が三永の家との養子縁組を手配したためだ。

 疑問が顔に出ていたのだろう。巴を見た絢嗣が、ふと笑う。


「本当はね、私にとって一番の恩人は、巴、君なんだよ」

「え? でも、わたくしは、何も……」

 戸惑う巴の頭を、絢嗣が撫でる。彼の触れ方は、カラスが時々する、ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き混ぜるようなものとは違う。そっと、壊れ易いものを扱うように、触れるのだ。巴がまだ小さな頃から、ずっとそうだった。

 その手を下ろし、絢嗣は続ける。


「実の親が私につけた名前はね、余太郎なんだ。余分な男児という意味でね」

「余分、ですか?」

 よく意味が解らず、巴は繰り返した。

「そう。子どもは跡継ぎとその予備がいれば充分だったのだよ、彼らにとっては」

「そんなこと」

「あるんだよ。住む家もなく、飢えに苦しむ子らからすれば幸福だっただろう。服も食事も与えられていたしね。だが、私はあの家にいて満たされたことがなかった。自分が余太郎という名前だということは知っていたが、その名を呼ばれたことはなかったんだ」

「名前を、呼ばれたことがない……」

 それは、巴にとっては想像もできないことだった。


 絢嗣は、愕然としている巴の髪をひと房すくい取る。

「私の胸には、ポカリと空虚な場所があった。その虚を満たしてくれたのは、君なんだよ。初めて会った日、君は私に話しかけ、笑いかけ、隣に座ってくれた。私にとっては、どれも初めてのことだった。とても胸が温かく、心地良くなったのだけれど、あの時の私にはそれが何なのか判らなかった。今なら、『嬉しい』という気持ちなのだと知っているけれどもね」

 いつも穏やかで優しい絢嗣にそんな過去があろうとは、巴は夢にも思っていなかった。ただ、優れた素質を持つ彼を祖父が見出して、その才能を生かせるように商家に養子縁組したものだと思っていたのだ。

「君が私を見つけてくれた。傍にいて、人の温度を教えてくれた。今の道に進むことができたのも、君がいたからこそ、だよ。私の今は、全て君から始まっている。君こそが、私の恩人なのだよ」


 何も言えずにいる巴に、絢嗣が微笑む。

「幼い頃の君は屈託なくよく笑う子だった。それこそ、箸が転がっても笑いだしそうなくらいだった」

 けれど、と、彼が微笑みを曇らせる。

「おじい様のためにと頑張るうちに、君からあの笑顔が消えていってしまった。そのことを、私も――おじい様も、とても気にされていたんだよ」

 言われて巴は目をしばたたかせる。

「でも、わたくしは、別に、楽しくないとかつらいとか、そういうことは全然なくて」

 ただ、いずれは祖父の跡を継いで小早川家を背負って立つのだと、そう自負し自己研磨に励んできただけだ。祖父の姿を見て育つうち、そう決めただけ。けれど、言われて思い返してみれば、確かに、声を上げて笑ったことは、もう何年もないかもしれない。


「わたくしは、おじいさまにご心配をおかけしてしまっていたのですか」

 申し訳ない、という思いでうなだれた巴の頬を絢嗣が両手で挟み、顔を上げさせた。彼女の眼を覗き込み、たしなめるような顔で言う。

「君にそういう顔をさせたくて話したわけではないよ。気負い過ぎなのが唯一君の悪いところだ」

 絢嗣は手を離し、ポンと頭を叩いて続ける。

「私の『絢嗣』という名は、生家を――小川家を出たときにおじい様が下さったものだ。多分、あの頃から小早川家の後継に私を据えることを考えていたのではないかと思う。ほら、おじい様は勝嗣、君のお父上は崇嗣、だろう? 改名させるにしても、普通はもっと無難な名前にするだろう」

 小早川の家で暮らすようになり、絢『嗣』の名前をもらったことで、親戚中からやっかまれたものだよ、と、彼はなんでもないことのように笑った。そして、巴を見つめる。


「私もおじい様も、君の幸せを、ただそれだけを願っているよ。この家を守るという責務を理解し、自ら望んで負うのならば構わない。けれど、おじい様の為に、『しなければならない』と思っているのならば、それはおじい様が望んでいることとは違う。君は、それとは真逆のことをしようとしているんだ」

「では、わたくしはどうすれば良いのですか?」

 巴は両手を固く握り合わせて問うた。

 小早川の家を継ぐことが、長い間、巴の目標だった。カラスとも、いずれは道を分かち、この家に戻ってくるのだと、ずっと、思っていた。そう決まっているのだと、決意の中に諦めと安堵の念を含ませながら。

 ここ数日のことで、己に主としての適性がないことは感じ始めていたものの、課せられた義務ではあると、思っていたのだ。祖父は、巴に小早川の当主となることを望んでいたのだと。


 けれど、そもそも、それが不要なものであったと――祖父でさえも求めていなかったというのなら。


「わたくしは、おじいさまの想いを読み違えてしまっていたのですか」

 祖父は、彼女のことを案じながらこの世を旅立っていったのか。

 唇を噛んだ巴の頭を、絢嗣が撫でた。彼女の後悔を聞き取ったかのように、言う。

「君のことは私に任せてくださったよ。だから、心を残すことなくおばあ様のもとへ逝かれたはずだ」

 さあ、もう寝なさいと絢嗣が巴の背に手を添え部屋の中へと促した時だった。


「少しばかりお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

 慇懃な声が二人の足を引き留めた。


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