思い出
底の厚い下駄で歩きにくいのか、若干のおぼつかなさがある足運びで近寄ってきた少女は、絢嗣の隣まで来るとストンと腰を下ろした。
「こんにちは。はじめまして。こばやかわともえです」
ほんの少し舌足らずな、そらんじるような挨拶は、そう言えと言われているものなのだろう。
見ず知らずの相手に対して微塵も物怖じしないのは、大事に大事に慈しまれてきたからか。声をかけても無視されるなど、想像すらしたことが無いに違いない――きらきらと目を輝かせて絢嗣を見つめてくる様は、そう思わせた。
「……今日は」
戸惑いながらも、彼は応えた。応えはしたが、その先は続かない。毎日毎日蔵の中で本を読むことしかしておらず、会話と言えば、問われて「はい」か「いいえ」を答える程度だ。学校にでも通っていたらもう少し社会性も育ったのだろうが、将来に向けての投資に怠りがなかった兄二人に対し、三男の絢嗣は必要最低限の読み書きを教えられてからは金の無駄だと放置されていた。
束の間、静寂が漂う。
ややして、隣に座った少女は、肩の下あたりで切り揃えられた艶やかな黒髪をサラリとこぼして絢嗣を覗き込んできた。
「おにいちゃんは、わらわないのね」
まじまじと彼を見てからの唐突な彼女の言葉に、絢嗣は困惑する。
「笑って欲しいか」
笑った記憶がないから、どう顔の筋肉を動かしたらよいのかわからない。してくれと言われれば努力はしてみるが、うまくいく自信がなかった。
だが、絢嗣にそう問われ、少女は反対側に首をかしげてしばし考えこんでから、フルフルとかぶりを振る。
「ううん。いいの。わらわなくて、いいの。ここのおうちのひとは、わらうの、あんまりおじょうずじゃないみたいだから」
「え?」
笑うのに、上手い下手などあるものなのか。
いぶかしんだ絢嗣に、少女が口を尖らせる。
「だってね、みんなね、にこにこしてるのに、なんでかこわいの」
しかめ面でそう言ったあと、少女はまた絢嗣を見上げて、「だから笑ってくれなくて良い」と彼女自身は花が咲くように笑ったのだ。
「あのね、おそばにいていい?」
そう言って、絢嗣が返事をする前に少女はぴったりとくっついてきた。彼は思わずびくりと身を離しかけ、寸でのところで思いとどまる。そんなことをすればこの無邪気な子どもを傷つけてしまうだろうという頭は、かろうじて働いたから。
(ヒトの身体は、こんなにも熱を持っているものなのか)
湯たんぽさながらの子どもの温度に、絢嗣は肩を強張らせながらそんなことを思う。
絢嗣とて、赤子の頃は、きっと抱き締められたこともあっただろう。だが、彼は、物心つく頃には、そうされることが無くなっていた。抱き締められるどころか頭を撫でられることも、誰かと手をつなぐこともなく、十になる頃には、人の温度というものをすっかり忘れ去っていた。
触れ合ったところから伝わってくる温もりに、絢嗣は、ふっと、自分はここにいるのだと実感した。実感すると同時に、ジワリと視界がにじむ。
と、彼を見つめていた少女の眉が八の字になった。
「だいじょうぶ?」
「? 何が?」
「おにいちゃん、ないてるのよ?」
「僕が?」
触れたら、確かに頬が濡れていた。
「なんで、こんな……」
涙が出るなど、五歳かそこらの頃に書棚の上の方の本を取ろうとして梯子から落ちたときくらいだ。あの時は腕の骨が折れて、痛みのあまりに反射的に涙がこぼれた。
だが今はどこも痛くはない。いや、みぞおちの辺りがキリキリと締め付けられているような感じはするが、これは涙が出るような苦痛ではない。怪我をしたわけでもないのに泣くなんて、一体どういうことなのか。
困惑する絢嗣だったが、目から溢れる温かな液体は、止まる気配を見せない。
少女は八の字眉のままで絢嗣を見つめていたが、ふいに立ち上がり、彼の頭に触れてきた。ひと撫でふた撫でしたかと思ったら、そのままギュッとしがみついてくる。
「何をしているんだ」
「ないてる子には、いい子いい子するの。もうだいじょうぶって、ぎゅってするの。ともえは、それでげんきになるの。お父さまとお母さまに、おしえてもらったのよ」
十六の男は『子』ではないと思ったが、どうしてか、絢嗣はその小さな手を振り払う気にはなれなかった。
日が暮れて、使用人が少女を探しに来るまで、絢嗣と彼女は殆ど言葉を交わすこともなく、ただ、寄り添っていた。
――それから絢嗣は、巴をきっかけにして彼が置かれている境遇を当主に知られて、小早川家で過ごすことになったのだ。
当主からは気づかずに済まなかったと謝られたが、数ある分家の一つの家庭内の事情など些末なことだ。彼が責任を感じる必要などないと思ったが、そのお陰で今の絢嗣があるのは事実だ。
絢嗣は二年間を小早川家で過ごし、当主の口利きで今の商家に養子に入った。
成功した絢嗣に、「育ててやった恩」とやらを臆面もなく突き出して、実親は悪びれることなく金を無心してくる。十六歳になるまでの餌代程度はとうに払い切っているが、未だに要求は止まらない。
だが、彼らのことなどどうでも良かった。絢嗣の成すことは全て小早川の――巴のためにしていることだ。求められるままに金を渡すのも、渡さなければ何をしでかすか判らないからだ。借金でも作られて巴に火の粉が飛ぶようなことがあってはならない。
(あの子がいなければこんな家のことなどどうでもいいというのに)
その彼女を、害そうとは。
事態を掘り下げるにつれ明らかになってきたことに、絢嗣のはらわたは煮えくり返るを通り越して危うく蒸発するところだった。
浅はかな彼らにはもう怒りすら抱かない。そんな感情は対等な生物に対して抱くものだ。不快なゴミムシなどさっさと踏みつぶしてしまうに限るのだが、『伏せ籠』の長からは待ったがかかってしまった。もう、今回巴の命を狙ったこととは関係なく、刺客を送りこんでしまいたい。彼女の安否不明の日々が重なるにつれ、その思いは強まっていく。
(いっそ、別の手で――)
そんな不穏な考えが頭をよぎったときだった。
「絢嗣兄さま?」
その、声は。
期待、そして安堵と共に、絢嗣は振り返る。
そこには、求めていた姿が、あった。
「巴……」
名を呟くと同時に足を踏み出し、数歩で彼女のもとに辿り着く。
ふっくらとした頬には、傷一つない。幻ではない証に、触れても失われることはなく、それを包み込んだ手のひらに確かな温もりも伝わってきた。
夢では、ない。
絢嗣は、詰めていた息を緩々と吐き出す。
絹糸のような漆黒の髪に、鼈甲色の瞳。
損なわれたものは、ないように見えるが。
「怪我は、ないのか」
どうにかそれだけ絞り出すと、巴はこくりと頷く。
「はい、何も。申し訳ありません、ご心配をおかけしました」
いつの頃からか身につけた生真面目な物言いで、彼女は言った。
「君が無事なら、それでいい」
そう答えて、彼女を引き寄せ、抱き締めた。
取り戻せた、小さな小さな至上の宝物。もう二度と、この腕の中から放すまい。
そう心に誓った絢嗣だったが、突き刺さるような視線を感じて顔を上げる。今の今まで気づかなかったが、巴の背後には、黒く見えるほど深い紅の髪と緑柱石さながらの瞳をした男が立っていて、心底忌々しそうな面持ちで彼を睨み据えていた。




