序
滅茶苦茶時間があいてしまってすみません。
最終章の始まりです。
「では、私はこれで。――もしも彼女が戻らなければ、依頼を変えますので」
出て行きしなに告げられた台詞で、その場の空気がヒヤリと温度を落とす。この国の者の体型にはあまり合わない三つ揃いの洋装を寸分の違和感なく着こなしたその男は、八咫の答えを待つことなく、部屋から出て行った。
「……あのような依頼を受けても良かったのですか?」
廊下を遠ざかっていく足音が消えるのを待って、フクロウが眉をひそめて問うてきた。
八咫は彼を横目で見遣り、口の端に嗤いを刻む。
「尻軽女のようで気に入らんか?」
八咫の揶揄にフクロウは何かを言いかけ、結局唇を引き結んだ。彼は八咫のすることに異を唱えるなど、考えることすらできない男だ。この『伏せ籠』の中で、最も従順な鳥だと言っても過言ではない。
――だが、そんなフクロウでさえ、この状況に釈然としないものを抱いているのだ。
(当然だろうな)
そう腹の内で呟きながら、八咫はフクロウに肩を竦めてみせる。
「公平に、両方受けただけの話だろう?」
前者を翻したのであれば不義理だろうが、そうでないのだから、単に新たな仕事を請け負ったに過ぎない。
うそぶく八咫に、フクロウは眉根を寄せた。
「まあ、それはそうですが……」
「あの男が相手では仕方が無かろう。あれが唯一の妥協案だ」
言外にこれで終わりだと含ませ八咫が告げると、フクロウは眉間に不満を表すしわを残しながらもその口をつぐんだ。
八咫を妄信するフクロウでさえも納得がいかないのは、当たり前のことだ。実際、契約違反ギリギリのことをしようとしているのだから。
八咫は傍らに置いた杖を指先でトンと叩いた。三本足のカラスを象った錫杖は、八咫の――『伏せ籠』の長である証だ。八咫がそれを受け継いでから十年と少しの時が流れたが、一人の獲物に対して相反する依頼を受けたことも、『伏せ籠』から鳥が逃げ出したことも、どちらも初めての事態だった。恐らく、およそ二百年に及ぶ『伏せ籠』の歴史の中でもなかったことだろう。
この異例の状況の始まりは、名家の当主の座についた少女の暗殺だった。
これは、珍しくもないことだ。欲しいものを持っている相手を消して、己の望みを叶えようとする者など、山ほどいる。まあ、その対象が、十をいくつか越したばかりの子どもだというのは、そうそうあることではないが。
そして今回舞い込んだ依頼は、その少女の死を望んだ者の、暗殺。
依頼者を殺す依頼を受けるなど、この生業のないに等しい倫理にさえも抵触するものだ。普通は、一蹴する。後者を持ち込んだ者が、普通の相手であれば。
洋装を見事に着こなしたあの男――三永絢嗣は、元はくだんの小早川の分家の三男だったが、十代の頃に商家に養子に入ったのだという。彼は、あれよあれよという間に国内外で成功を収めていき、今では国をも揺るがすほどの財を持つと囁かれていた。実際、今回も、少女の命を奪うために出された百倍の金を、トンと無造作に八咫の目の前に積んでみせたのだ、あの男は。
当主の座欲しさに子どもを殺そうとするようなゴミならどうとでもなるが、三永絢嗣という男は決して敵にすべきではない。味方にすることさえも、ためらわれる。それは、彼が莫大な財力を持つからではない。それほどの財を築くだけの才知と気概を持つからだ。
身分などさして役に立たないこのご時世、士族華族が見る見る力を失っていく中、小早川家だけが陰りを見せていないのは、ひとえに、三永の支援があるからに過ぎない。三永絢嗣がそうするのは、商家への養子縁組を整えた先代当主に恩を感じているからだと思っていたが、先ほどの彼の様子を見るに、その孫娘にもかなり深い想いがあるようだ。
対して、娘の暗殺を依頼してきたのは三永絢嗣の実の親ということだが、三永の中に彼らに対する情は全く感じられなかった。
(仮に我らが手を下さずとも、奴らはあまり長生きできそうにないな)
八咫はわずかな憐れみの情も覚えることなく胸の内でそう呟いた。
あの男の怒りは、青い炎のようだった。静かだが、触れれば全てを焼き尽くすだろう。
三永絢嗣は、今回の依頼に条件を一つ付け加えた。それは、彼の親を殺すのは、少女の行方が知れてから、というものだ。
カラスがついている限り、彼女は無事でいる。だが、もしも彼が飽きて放り出してしまっていれば、世間知らずの十二の少女など、どこかで野垂れ死んでいるか、売春宿に取り込まれているかのどちらかだ。
三永がその条件を加えたのは、少女の状況いかんで両親への報復を変えるつもりでいるからでもあるのだろう。亡くなっていたら諦める、ではなく、もしもそうなっていたならば、実の親に対して死ぬより惨い目に遭わせる心積もりでいるに違いない。
(まあ、それも奴らに相応しい道ではあるのだろうな)
己の欲を満たすために年端も行かない子どもを殺そうとするような輩なのだから。
独り言ちた八咫は、そんな己の偽善を嗤う。
結局、彼女を殺す依頼を受けた自分は同じ穴の狢なのだ。
八咫は再び錫杖に触れた。
この『伏せ籠』の成り立ちを知るのは、長――八咫の称号を継ぐ者だけだ。八咫となる者だけに、錫杖と共に口伝で引き継がれる。
先代からその話を聞かされた時、八咫は愕然とした。
――世の闇を一手に引き受けたようなこの『伏せ籠』が、元は、純粋な善意から始まったものだと聞かされた時には。
それは、一人の旅の僧侶が、身寄りを失った子どもを保護したことから始まったのだという。
ポツリポツリと拾ううち、子どもは一人が二人になり、二人が三人になり、十人になり……
やがて成長した孤児が働きに出るようになったが、増え続ける子どもの数に対して、得る糧は乏しかった。
どうにも立ち行かなくなり、ついに子どもらが飢え始めたとき、一人が違法なことに手を貸した。実入りが良かった。子どもらは、その金で食いつないだ。
初めは恐る恐る、次第に裏稼業が主流となった。『伏せ籠』を存続させるために、子どもを集めるようになった。
いたいけな雛鳥を守るための巣は、いつしか猛禽を収めるための檻になっていたのだ。
この組織は、『悪』ではない――では、なかった。
その自負、あるいは自己満足は、噛み締めればいつだって八咫の中に微かな苦みを残す。
いっそ知らなければ、この奇妙な胸のしこりを持たずに済むものだろうに。だが、それが判っていても、きっと八咫も、次の八咫に伝えることになるのだろう。
これを捨てることができないのは、いったい、何に対する未練なのか。
口元に微かな嗤いを刻みながら、八咫は、長の証である錫杖を握り締めた。




