理解不能
『帰りたいのか』
カラスの脳裏に昼間の遣り取りが蘇るのは、これで何度目か。
何故、自分はあんなことを言ったのだろう。
記憶の反芻と共に浮かんでくるのは、そんな疑問だ。
カラスは焚火に小枝を投げ込みながら、傍らに座する巴を横目で窺った。
カワセミと遭遇してから半日が過ぎ、ぼちぼち日も暮れる。今夜は小川のほとりで野宿となったのだが、夕餉の支度をしている間も、夕餉の間も、終えた今も、巴は終始上の空だった。そんな彼女が、やけに神経に障って仕方がない。正確には、彼女の小さな面に貼り付いたままの、浮かぬ表情が。
巴にそんな顔をさせた元凶であるトビは、カワセミが去った後にふいと姿を消して、それきりだ。気配はあるから、離れるつもりはないらしい。
トビが巴に投げつけた言葉は、殆ど八つ当たりのようなものだ。あの男も、あんなふうに感情を露わにするつもりはなかったに違いない。
『伏せ籠』の者は、当然のことながら他者に頭の中を悟られることを厭う。だから、感情も見せない。感情の表出のように見えても、それは見せようと思って作った仮面に過ぎないのだ。
だが、昼間トビが巴にぶつけたものは、彼の本心であり感情だった。
トビに『伏せ籠』の者の生い立ちを聞かされ、巴は怯えていた。怯えではなかったかもしれないが、彼女の顔にあったものは、限りなくそれに近いものに思えた。だからカラスは、拳でトビを黙らせた。あれ以上、巴にあの顔をさせていたくなかった。
らしくない自分を巴に見せてしまったことに、トビは気まずさを覚えているのだろう。今は姿を消していても、己を取り戻せば、どうせ何事もなかったかのようにふらりと戻ってくるに違いない。カラスとしては、別に戻らなくても一向に構わないのだが、巴は気になるらしい。そうでなければ、こんなふうに沈み込んではおるまい。
らしくないと言えば、カラスもだ。
『帰りたいのか』
それは、巴に選択させる台詞だ。
そんなものが己の口を突いて出たことが、カラスには信じられなかった。こぼれた瞬間、ハッとした。
かつて、巴を連れてあの屋敷を出たとき、彼女にどうしたいかと訊いたことはある。
あの時は、巴がカラスと共に行くことは決定事項で、どこに行きたいかを訊いただけだ。
今回の彼女への問いかけは、それとは違った。
巴を連れていくというカラスの意思と反した行為について、彼女に意向を問うたのだ。
いや、問いかけではなかったのかもしれない。カラスは、巴が自分と別の道を歩くことなど、頭の片隅でも考えていなかった。彼女の中に、帰るという選択肢があるとは、夢にも思っていなかったのだ。巴が帰りたいと思っている可能性を、あの瞬間まで欠片も考えていなかった。
だから、多分、あの時、カラスは愕然としたのだ。恐らく、ほんの一瞬、思考が停止した。
巴からの答えがないまま、こうやって、天都から遠ざかる道を進んではいるのだが。
結局、こいつはどうしたいのか。
そんなことが頭をよぎり、カラスは、また渋面になる。
ごく自然に、息をするように、巴の思いを慮っている自分に気づいて。
生まれてこの方、カラスは自分以外の誰かがどうしたいと思っているかなど、気にしたことがなかった。今まで、彼の行動の理由は、任務か、自分のやりたいことかの二つしかなかった。
それが、カラスだった。
なのに。
もしも巴が「帰りたい」と答えていたなら、自分はどうしていただろう。
巴が小早川の屋敷に戻るということは、カラスとは別れるということだ。だが、彼には巴を手放すつもりなど毛頭ない――少なくとも、今のところは、まだ。
巴と共にいるというカラスの意思と相反する、帰りたいという巴の希望。
その、どちらを叶えるのか。
そんなことで迷う己がカラスには理解できない。
理解できないし、答えも出ない。
カラスは苛々と舌打ちをする。と、巴が彼に振り向いた。
「カラス?」
焚火を映して赤みが混じった蒲公英色の瞳が、カラスに真っ直ぐ向けられている。鼈甲飴のようなそれを、いつ見ても、彼は舐めたら甘そうだと思う。
カラスは目を細めて巴を見遣った。
今更ながら、思う。
どうして、こんな小娘の動向を気にしなくてはならないのか。彼女は役立たずで、足手まといで、時々カラスの胸をざわつかせ、彼を彼らしくなくさせる。
捨ててしまえば、どんなに身軽に気軽になることか。
現に、一人であれば陽が沈む前に次の宿場町まで辿り着けるところを倍も時間がかかってこんなところで野宿をする羽目になっているではないか。
「あの、カラス……?」
凝視したままのカラスに、巴がコトンと小首をかしげた。
カラスは再び舌打ちをし、荷袋を漁る。
取り出したのは手のひらに収まるほどの小瓶だ。しっかりと栓をされた蓋をねじ開け、巴に渡す。
中身を覗き込んだ巴は、パッと顔を上げた。
「これは……蜜柑の砂糖漬けですか? わたくしに?」
それは峠の通りに並んだ露店の一つで買ったものだ。甘いものを食べれば疲れが取れるという呼び込みの台詞で、気づいたときには手にしていた。
巴は瓶の中から橙色をした一切れを取り出すと、口へと運んだ。とたん、ふわりと顔を綻ばせる。
「甘い。美味しいです」
彼女の満面の笑みで見上げられると同時に、カラスのみぞおちの辺りが温もった。焚火の勢いが強くなったわけでもないのだが。
彼は眉根を寄せてそこを撫でた。
特に何もない。
何なんだと訝しむカラスの前に、そっと小瓶が差し出される。
「カラスもいかがですか?」
「俺はいい。全部食え」
「わたくしだけで食べてしまってはもったいないです」
そう言って、巴は小瓶の口をカラスに向けた。
ムッと眉間にしわを刻んだまま、カラスはそこに指を突っ込む。
巴は、反応を窺うようにジッと彼を見つめていた。
「……甘いな」
それが美味いのかどうかは判らない。だが、甘いのは確かだ。
カラスのその一言に、巴がパッと破顔する。
彼女は、嬉しそうに見えた。
だが、何がそんなに嬉しいのかが、カラスには理解不能だ。
理解はできないが、巴がこういう顔をしている方が良いとは、思った。この顔は見ていたいと、思った。
 




