歩んできた道
翡翠色の髪をした美しい人がもたらした報せは、巴たちのこれからを大きく変えてしまうものだった。
巴は、彼女が消えた先を今も鋭い眼差しで見据えているカラスをそっと見上げる。
(わたくしは、もう小早川の屋敷に戻っても大丈夫、ということ……?)
巴の命は安全で、カラスやトビも、元の場所に帰れるのだと、あの人は言っていた。つまり、彼女たちの旅は、ここでおしまいになる。
刹那。
嫌だ、と、巴は思った。
いずれ己の責務を果たす道へ戻らなければならないという思いは心の中にあったはずだというのに、いざそれが現実になったら溢れ出した本心が全てを塗り替えた。
巴は、カラスといたいと思う。
叶う限り、この先もずっと、彼と一緒に歩んでいきたい。
けれど、カラスはどうだろう。
あの女性の誘いには帰らないと答えていたけれど、彼の本当の気持ちは、どうなのだろう。
巴はキュッと唇を噛み締める。
あのひとは、カラスのことが好きなのだ。
少なくとも巴にはそう見えた。
彼女へのカラスの態度は素っ気ないことこの上ないものだったけれど、あんなにきれいな人に想われて、ずっと一緒にいて、何も思わずにいられたのだろうか。
もしかしたら、巴のために居場所も大事なひとも置き去りにさせてしまったのではないだろうか。
カラスは、本当は、あの人のこと――と思った瞬間、巴の胸がチクリと痛んだ。そのまま、もやもやとしたものが腹の底にわだかまる。
と、ふいにカラスが巴を振り返る。
「あいつには近づくな」
唐突な台詞に彼女は目をしばたたかせた。
「え?」
「近いうちにまた現れる。俺が傍にいない時を狙ってくるだろうが、あいつの身体能力は高くない。手が届く距離に入らなければ問題ない。あいつが視界に入ったらとにかく距離を取れ」
いつもと変わらぬ口調でそう言ったカラスを、巴はまじまじと見つめる。
それはつまり、戻る気はないということでいいのだろうか。
「帰らない、の、ですか?」
思わず問い返した巴に、カラスがムッと不機嫌そうな顔になる。
「帰りたいのか」
「あ、いえ、わたくしは――」
できることなら、カラスと旅を続けたい。けれど、それが正しいことなのかが、判らない。
思わずうつむいた巴の顎に手がかかり、グイと持ち上げられる。
「はっきりしろ」
深い緑の瞳に射抜かれて、巴は息を呑む。その中にちらつく苛立ちは、煮え切らない彼女に対するものなのだろうか。
「カラス、は、帰りたいと思わないのですか……?」
ためらいながらの問いに返ってきたのは、呆れたような眼差しだ。
「はぁ? なんで俺が」
「だって――……」
カラスが属していた組織を――古巣を飛び出したのは、命を狙われ小早川の屋敷にいられなくなった巴を守るためだ。その危険が無くなったのならば巴は家に帰るべきだし、そうなれば、カラスは彼女の傍にいる必要がなくなる。
口ごもる巴にカラスの苛立ちが増すのが伝わってきたが、彼女は自分の中にある気持ちをどう伝えていいのかが判らなかった。伝えて、彼の答えを聞くのが、怖かった。
膠着状態になったその場に割って入ったのは、トビだ。
「ムリだよ、カラス。そのお嬢さんに僕らのことは理解できないって」
巴とカラスは、同時にトビに眼を向ける。彼は藤色の目に薄い嗤いを浮かべて巴を見ていた。
「どうせ、『伏せ籠』のことをあったか家族か何かだと思ってるんでしょ?」
その声にあるのは、明らかに揶揄する響き。
いつも朗らかな態度で巴に接するトビだけれども、時々、こんなふうに彼女のことを嗤うような素振りを見せることがあった。だから、一緒にいて打ち解けた様子でいるけれど、巴に対して良い感情を抱いているわけではないのだと、何となく感じていた。
それでも、いつもはこれほど露骨ではなかったのだ。
トビは唇を笑みの形に歪めたまま、続ける。
「『伏せ籠』にはね、年の初めに子どもが十人集められるんだ。それが、一年かけて淘汰される。男だったらその子に応じた殺しの技を仕込まれて、その過程の中で死ぬやつもいるし、何人か生き残ったとしても、最後には一人になるんだ。〆に残った連中で殺し合いになるからね。籠の鳥は蟲毒の中の生き残った蟲だよ。食い合った生き残りだ。場合に依っちゃ、一人も残らない時もあるし、残ったとしてもその後の訓練で死ぬのも珍しくない。まあ、確かに食いっぱぐれることはないけどね」
言葉もない巴に、トビは目を細める。
「女だったらね、また別の使い道になるんだ。いわゆる色仕掛けってやつだよ。依頼の対象は男が圧倒的に多いからね、面と向かって殺るよりもそっちの方がいいってことも多々あってね。さっきの奴はカワセミというんだけど、あいつの身体には毒が滲み込んでいるんだ。『伏せ籠』特製の毒を何年もかけて食らわせてね。僕たちは多少耐性をつけさせられているけどね、普通の奴ならあいつの肌に触れるだけで命を落とす。だから、カラスは触るなって言ったんだよ」
トビの顔には、いつもの笑みの仮面はついていない。
「僕らはそんなふうに育てられてきた。あれを『育てる』というならばね。あそこで安穏と守られていたわけじゃない。『帰りたい場所』なんかじゃないんだ。君とは違うんだよ」
冷ややかな声で投げつけられた最後の一言に、巴はビクリと肩を震わせる。
確かに、巴とは違う。幼い頃は両親に、彼らを喪ったら祖父母に、そして今はカラスに守られている巴とは。彼女には、いつだって守ってくれる人が、大事にしてくれる人がいたのだから。
不幸があっても、巴は幸せだった。惜しみなく、幸せを与えてもらってきた。
カラスたちが歩んできた道と、巴が歩んできた道は、あまりに違い過ぎる。
そんな自分に、何が言えるというのだろう。
力なく地面に眼を落した彼女の隣を、何かが通り過ぎた。と思ったら、ガツッと鈍い音が響く。
いったい何が、と顔を上げると、カラスの背中とその向こうに仰向けに倒れたトビの姿があった――さっきまで立っていた場所とは、ずいぶんと離れた場所に。
「ひどいなぁ、カラス。黙って欲しいなら口でそう言ってよ」
ぼやきながら身体を起こしたトビの頬が腫れている。
「甘ちゃんのお嬢さんにホントのことを教えてやっただけじゃないか」
トビのその台詞に、カラスの拳に再び力がこもる。それを見て、トビが肩を竦めた。
「はいはい、解かったよ。もう言わないよ」
トビは立ち上がり、数歩後ずさりながらパンパンとこれ見よがしに服についた砂埃を払う。
カラスはそんなトビを一瞥し、クルリと踵を返した。緑柱石の輝きが巴を見下ろしてくる。
「あ、あの――」
巴は、まだ、「帰りたいのか」というカラスの問いに答えていない。まだ、答えられないのだ。
カラスは口ごもるばかりの巴の腕をつかむ。
「カラス?」
有無を言わさず彼が歩き出したのは、天都から遠ざかる、西へと向かう道だった。




