消えた灯
これほど距離があるにもかかわらず、樹の陰からカワセミが足を踏み出した瞬間、カラスを包む空気がガラリと変わったのが見て取れた。
少し前から様子を窺っていたカワセミの存在など、カラスはとうに気づいていたに違いない。彼女が近づく気配を見せずにいたから、放置されていたに過ぎないのだろう。
カラスはほんの少し横に動いただけだったけれども、それだけで、カワセミと標的との間に万全の壁を作り上げていた。彼の意識の全てがちっぽけな小娘を守ることに注がれている。
その様に、カワセミの胃の底がチリリと焼けた。
何で、そんなガキに。
何で、あたしじゃないの。
喉元まで込み上げてきた罵りをグッと呑み下し、カワセミは笑みを浮かべる。数多の男たちを蕩けさせてきた笑みを。
「久しぶりだね、カラス」
偽りの和やかさをまとった挨拶にも、応えはない。
カラスは微動だにしないが、その研ぎ澄まされた刃のような眼差しはヒタとカワセミに据えられていた。
うかつに距離を詰めれば、そうと気づく前に、カワセミの命は失われているだろう。
カワセミはゆっくりと足を進め、いったん、たっぷり二十歩分ほどの距離を取って立ち止まった。
「依頼が変わったよ。その子を無傷で連れ帰れってことになったんだ」
「それ、本当?」
押し黙ったままのカラスに代わって声を上げたのは、トビだ。彼を無視してカワセミは再び近づく。一歩一歩、薄氷を踏むように、慎重に。
「今帰れば、八咫様だって、赦してくれる。また、全部元通りだ」
言いながら、カワセミはカラスに手を伸ばす。手袋を嵌めたままでいることで、彼女に戦う意思がないことは伝わる筈だ。
カラスの中で動きがあるのは視線だけで、その様は、相手の出方を窺う猛獣を思わせる。ほんの少しでも害意を感じれば、即座にカワセミの喉は掻き切られてしまうのだろう。
微笑みながら、カワセミはスルリとカラスの腕に己の腕を絡ませた。
「もう充分でしょう? いくら八咫様のお気に入りでも、これ以上勝手をしたら、本気で怒らせてしまうわ」
そんな台詞と共に、彼女は豊かな胸の柔らかさを味わわせるように、カラスの腕に押し付ける。
他の男なら鼻の下を伸ばして頬を緩ませるところだが、カラスは眉一つ動かさない。
それはカワセミが唯一使える武器だというのに、いつだって、カラスにはこれっぽっちも役に立たないのだ。
「放せ」
その一言と冷ややかな眼差しで、カラスはカワセミの腕を振り払った。そんな彼の冷淡さはいつもと同じものなのに、いつもよりも、胸が痛む。
カワセミの目の隅に、固唾を呑んで二人の遣り取りを見つめていた少女の姿が映り込んだ。
(この子のことは、守るのに)
カワセミは、グッと奥歯を食いしばった。
「そんなガキのために、八咫様を――『伏せ籠』を敵に回すの? それでいいの? 逃げ切れると思って?」
彼女の言葉に反応したのは、カラスに庇われている少女の方だ。彼女はビクリと肩を震わせて、小さな両手を握り合わせた。
ただ怯えるだけの非力な小娘。
「逃げるにしたって、こんな役立たず。足手まといなだけじゃない」
嘲笑に、少女の瞳が揺れる。
そんな彼女をカワセミの眼から隠すように、カラスが動いた。彼が少女を庇うたび、カワセミの中に苦いものが積もっていく。
「確かに何の役にも立たんがな、俺はこいつがいいんだよ。殺しよりもよほど面白い。あそこは、もう飽きた」
カラスは、肩に付いた埃を払うようにそう言い放った。
彼にとって、『伏せ籠』は――カワセミは、本当に、取るに足らないものなのだ。
カワセミは唇を噛み締め、低い声で囁く。
「何で、その子なの」
「さあな」
にべもなく返された一言に、カワセミは固く両手を握り締める。手のひらに爪が食い込む痛みなど、小さなものだった。
(あたし以上に、あんたを必要としている人間はいないはずなのに)
何故、彼に守られるのがカワセミではないのか。
何故、カワセミは選ばれなかったのか。
カラスが選んでくれたなら、カワセミは違う道を歩けるようになるはずだったのに。
「そんなガキの、どこがいいのよ!?」
甲高い声で喚いたカワセミに、トビが嗤う。
「少なくともあんたよりはいいだろ」
「うるさいわね!」
「うぅわ、怖い」
眉を逆立ててトビを睨むと、彼はこれ見よがしに身を震わせた。
カワセミは再びカラスに眼を戻す。
「少し考える時間をあげるわ。気が変わったら――」
「さっさと失せろ。邪魔だ」
皆まで言わせずうっとうしげに顎を振ったカラスに、カワセミの中で、何かがひっくり返ったような気がした。
邪魔。
カラスにとって、カワセミはその一言で終わるもの。
いつか、カラスにとって特別な存在になれたなら、カワセミはこの泥沼から抜け出せると思っていた。そうなることを、願っていた。
――けれど、そうはならない。
カラスは、絶対に、カワセミを見もしないのだから。
(あたしには、もう、何もない)
心の奥に微かにくすぶっていた灯も、今、消え失せた。
スッと冷えた頭で、カワセミは踵を返す。
歩き始めた彼女の背中を、カラスの視線が追いかけてくるのが感じられた。
かつては、彼の眼を自分に向けさせたくて、彼の関心をほんの少しでも向けさせたくて、たまらなかった。
けれど、もう、要らない。
何もかも、もう、どうでも良かった。




