邪魔者
長旅の疲れも重いのか、巴は布団に潜り込むと同時に寝息を立て始めた。夜も更けた今は、深い眠りの淵に沈みこんでいる。
カラスは窓辺に座り、欄干に肩をもたれさせてすぐ傍にある小さな布団のふくらみを見るともなしに眺める。いや、その表現は、少し違う。毎夜、巴が眠りに落ちるたび、ふと気づくと、彼の目はそちらに向いてしまっているのだ。
もっと部屋の真ん中で寝ればいいものを、巴は窓際に陣取ったカラスの傍に布団を広げた。道中の野宿でついてしまった癖なのかもしれない。
子どもの呼吸に合わせてそれが微かに上下する様に、カラスは何故かいつも見入ってしまう。あまりに静かすぎてふと不安になり、頭を彼女に寄せて耳を澄ませることも、幾度かあった。
巴はこれまで大事に守られて生きてきたせいか、緊張感の欠片もない。
赤の他人もいいところのカラスの傍だというのに、ちょっと突いたくらいでは起きないくらい、熟睡する。
その無防備さに、カラスは、苛立ちめいたものと同時に、それとは全く正反対の、苦しいような、温いような、奇妙で不可解な感覚に見舞われる。前者はトビが同行するようになってから増強し、後者は、巴がピタリとカラスに身を寄せてくると強くなる。
苛立ちはともかく、もう一つの方は、意味不明だ。
だが、不快なものではない。むしろ、その逆に思う。少なくとも、いやだとは感じない。
カラスは手を伸ばし、巴の気性さながらに真っ直ぐな黒髪をひと筋すくい取る。こんな旅暮らしだというのに全く艶やかさを失っていないそれは、するりと彼の指から滑り落ちた。もう一度つまんで、もてあそぶ。
カラスに引き続き、トビも任務を果たせなかった。しかし、『伏せ籠』がそれで諦めるはずがない。
巴の足に合わせた旅路は、カラスにしてみればカタツムリの歩みよりも遅い。そろそろ、次の刺客が追いついてくる頃だろう。
カラス一人であれば、『伏せ籠』の追手などたかる蠅より簡単に追い払える。だが、巴を連れての逃避行となると、そうもいかなかった。
もちろん、現れた追手を蹴散らすことなど造作もない。何人来ようが、カラスの敵ではないだろう。しかし、それもこれも、巴を常に手が届くところに置いておければ、の話だ。彼女は排泄や風呂などの時は一人になりたがるから、どうしたって狙われる隙が生まれる。そこに付け込まれれば、殺されはしないまでも、彼女に傷をつけられることはあるかもしれない。
それが、カラスには許容し難かった。
それに何よりも、奴らの相手をしなければならないということが煩わしい。カラスはモズのような戦闘狂ではないのだ。蠅を叩き潰したところで面白くもなんともないし、余計な手間はかけたくない。
取り敢えず、天都から遠ざかるに越したことはないから西を目指してはいるが、西の先、この国の南の果てまで行ってしまったその後は、どうすべきか。
依頼主が撤回しない限りは、『伏せ籠』は巴を狙い続けるだろう。そして、そうなる可能性は極めて低い。
カラスはムッと眉間にしわを刻む。
巴と過ごすようになって、カラスは『懸念』というものを覚えた。
彼女と逢うまでは、何も考えず、ただすべきとされたことをするだけだった。
今も、自分の身についてであれば、何ら案じるものはない。
だが、巴に何かが起きるかもしれないと思うと、腹の底がジリジリする。
「いっそ、アレを潰すか」
カラスがそう呟いたときだった。
「また、物騒なことを。まあ、君なら可能なんだろうけど」
窓の外からそんな声が届く。
トビだ。
彼は渋々隣の部屋に宿を取ったが、カラスと同様、窓辺にいたのだろう。
カラスは無視を決め込んだが、そんな彼には構わず声が続く。
「しかし、こんなに人目についちゃって、いいのかい? もしかしたら、もうここにも誰か来ているかもよ? その子、目立つしね。天都くらい広くて人が多けりゃともかく、ここならすぐに見つかっちゃうだろうね」
そこに、巴の身を案じる響きは微塵もない。むしろ、そうなることを望んでいるような節もある。
まあ、当然だろう。トビはカラスの反応を引き出したいだけなのだ。しかし、それに乗ってやる義理はない。
彼が言う通り、確かに人の中に出れば追手に見つかることになり得るが、巴は野宿には向かない身体だ。やむを得ない時は仕方がないが、可能な限り屋根と布団のあるところで寝かせないと、もたないだろう。
追手と対峙しなければならない危険と、巴の身体が壊れる危険。
それを天秤にかけて、重い方を取ったまでのこと。
カラスは巴の寝息に耳を澄ませた。そこに乱れはない。トビの声で彼女の眠りが妨げられる気配はないようだ。であれば、やめさせる手間をかける必要もなかろう。
引き続き聞き流していると、少しばかりトビの声から弾みが褪せた。
「さっさとその子、捨てちゃえば? お荷物にしかならないじゃないか。何なら僕が――」
その台詞は、皆まで言わせなかった。
迸らせた殺気で、うるさいトビの舌を凍り付かせる。
「……解かったよ。怖いなぁ」
言葉ではそう言いながらも、声に滲むのは、まぎれもない喜びの色だ。
まったく、気色の悪い男だ。
この男は視界から消える方が厄介だから同行を許しているが、けっして信用しているわけではない。たとえ昼間巴にいい顔をしていても、所詮は『伏せ籠』の『鳥』なのだ。
――捨てられるものなら、トビの方こそ肥え溜めにでも埋めてやりたい。
胸の内でそう罵りながら、カラスは、寝返りと共に巴の細い肩からずり落ちた布団をそっと引き上げた。




