決着
轟いた銃声。
一発目は走る巴のそのすぐ後ろで木の幹が砕けるのよりも銃声の方が早かったから、トビは思ったよりもカラスの近くにいる筈だ。
続く二発目で、転がるように走る巴から目を引きはがして音の出所を探ったが、銃声は木々に反響して、まだはっきりしない。
トビが狙えるのは十町(約一キロメートル)ほどだ。奴はたいてい八町程度の距離で獲物を狙う。音と着弾の乖離具合からすると、今はそれよりも少し短いかもしれない。あるいは、巴とトビの間に彼が立っているのか。
いずれにせよ巴の走りは遅く、銃の射程範囲外にはまだ出ていないだろう。
そして響いた三発目。
――そこか!
カラスの目が茂みの一つに吸い寄せられる。と同時に、彼の足は地面を蹴っていた。その視界の隅を、つんのめるようにして倒れ込んだ巴の姿がよぎる。
「クソッ」
彼女の元に走るのは、無駄だ。意味がない。
とにかく今は、巴からトビの気を逸らさなければ。
「トビ!」
カラスがその名を呼ばわると、間髪容れずに茂みの中から彼目がけて鉛玉が放たれた。だが、充分に狙いを付けていなかったらしいそれは、彼の頬をかすめて行き過ぎる。
三歩で距離を詰め、二発目が来る前にカラスは茂みの中に手を突っ込んだ。そして触れたものを引きずり出す。
目が合い、トビは薄く笑った――嬉しそうに。
「やあ、カラス」
柔らかな声で彼の名を口にしたトビの頬を、カラスは無言で殴り飛ばした。
その一発で意識を手放したトビの身体を引きずって、カラスは地面に倒れたままの巴の元へと走る。
見える場所にトビを放り出すと、カラスはうつ伏せた巴の傍らにひざまずいた。
「おい……」
地面に血は、流れていない。弾が当たった筈はなかった。
首筋に触れて、鼓動を確かめればいい。そう思っても、カラスの手は動かなかった。
――これは、何だ?
口の中が乾き、ドクドクと自分の心の臓が脈打つ音がやけに大きく聞こえる。
今自分の身体を支配しているモノが何なのか、カラスには理解できない――自分で自分の身体を制御できないなど、初めての事だった。
唯一動くのは舌だけで、彼は彼女の名前を囁く。
「……巴?」
彼女の身体がピクリと震えた。
ゆっくりと起き上がった巴は、カラスを見上げて瞬きをする。
「カラス――怪我は?」
彼女の第一声に、一瞬呆気に取られた。
「それは、こっちの台詞だ。弾は当たってないな? 何で倒れたんだ?」
呻くように言ったカラスに、巴はきまり悪げに視線を落とす。
「……転びました。石に気付かなくて……」
その返事に、彼の口からは思わずため息が漏れた。巴は益々顔を伏せる。
その頭を見下ろしながら、カラスは彼女をどうしてやろうかと歯噛みした。ジリジリと腹の底を炎で炙られるようなこの気持ちは、怒りに近い気がする。だが、そのものではない。
自分でも理解できないモヤモヤとしたものを巴にぶつけるわけにはいかないのは、判った。
カラスは立ち上がり、それを解消するべく正しい相手の元に向かう。
「トビ」
胸倉を掴んで揺さぶると、彼の眉根が寄った。
もう少し強く揺する。
「う……」
呻き声と共に、トビの目が開く。ぼやけていた焦点がカラスに合い、頬を腫らした顔が笑みの形になった。
場にそぐわないその表情に、カラス掴んでいた胸倉を締め付ける。
「何笑ってんだよ?」
彼のその言葉に、トビは苦しそうに顔を歪めながらも笑みを更に深めた。
「君が僕を見ているから」
「ああ?」
「今、君は僕を見ているだろう? 僕を殺してやりたいと思ってる?」
「当たり前だろう」
トビが何を言いたいのかが解からないまま、カラスは答える。殺してやりたいというよりも、殺してやるつもりだった。
ちょっと首を捻れば、簡単に殺せる。爪楊枝を折るようなものだ。
明確なカラスの殺意に、トビが気付かない筈はなかった。薄い笑顔のまま、微かにそれが引きつる。
「君が僕を見たのは――僕を僕としてちゃんと見てくれたのは初めてだね」
首に手をかけられ、顔を強張らせているというのに、トビの唇は笑みを崩さない。何となく薄気味悪く感じられて、危うくカラスは彼を突き放しそうになった。
こうなったらさっさと殺ってしまうに限るか。
カラスの手に力がこもり、トビの顔が苦悶に歪む。
と、彼の腕に躊躇いがちに何かが触れた。続いて、名を呼ぶ細い声。
「カラス」
トビを捉えたままカラスは振り返ると、彼を見上げる巴の琥珀色の目があった。
「何だよ」
「その人……お仲間でしょう?」
「今は違う」
「でも――」
「こいつはお前を殺そうとしたんだ」
「そうですが……何も命まで奪わなくても。幼い頃から一緒に過ごしてきたなら、ご兄弟のようなものではないですか」
「はあ? コレが?」
カラスは思わず間の抜けた声を上げる。名前を貰うまでの雛たちは、言うなれば敵同士だ。切磋琢磨を通り越し、互いに潰し合って生き残ったものだけが鳥の名を与えられる。愛着なんて微塵も抱いてはいなかった。ましてや、いつも陰に隠れてろくに姿を見せることのなかったトビのことなど、顔すらまともに覚えていなかったのだ。
「今殺しといたら後が楽だろ」
「そんな――」
繰り返されるカラスと巴の押し問答に水を差したのは、完全に無視された形になったトビだった。彼は苛立ちに満ちた声を上げる。
「ああ……もう!」
彼はその眼差しだけで刺し殺せそうな目で、巴を睨み付ける――この上なく憎々しげに。
「何そんな小娘と乳繰り合っているんだい? 変だよカラス、全然君らしくないじゃないか。邪魔だと思ったら誰の言葉も気にせず排除する、そうだろ? それが君だろ? 君は強いんだよ、君は君だけでいられるのに、何でそんなガキと一緒にいようとする? 僕を見ようとしないのは耐えられるけど、その小娘しか見えていない君には我慢できないよ」
カラスに胸倉を掴まれぶら下げられたまま、トビは一気にそう言い切った。剥き出しの悪意を向けられた巴は困惑して彼を見つめ返している。
「お前……本気で気色悪ぃな」
思わずカラスは呟いた。確かに以前から妙に視線を感じていたが、まともに言葉に出して執着を露わにされると、引く。
トビは眉間に皺を寄せたカラスに目を戻すと、胸元を掴んでいる彼の拳にそっと自分の手を添えた。ひんやりとした指先にカラスの背筋を悪寒が走り抜け、思わず彼はトビを振り捨てる。
地面に転がり落ちたトビは両手をついて上半身を起こし、カラスを見上げてきた。
「ねえ、今からでも遅くないから、ソレを仕留めて『伏せ籠』に戻ろう。カラスを殺せという指示は出ていないんだ。八咫様だってカラスに戻って来て欲しいと思っている。カラスの事を次期頭領に望んでいるんだから」
トビのその目が絡み付いてくるようで、カラスは心持ち後ずさった。
「あの……カラス……?」
どうするのかと問うてくるその琥珀色の眼差しにげんなりした緑の目を返し、カラスはトビの傍らに膝をついた。
曇天のような藤色の目が、パッと期待に輝いた。
「カラス」
トビのその眼差しは無視して、カラスは彼の右手を取る。そうしてその人差し指と中指を握ると、思い切り手背側に捻じ曲げた。
ゴギ、という鈍い音と同時にトビの口から呻き声が漏れる。
「お前、結構厄介なんだよな。それでしばらく引き金は引けないだろ」
そう告げると放り投げるようにトビの手を放し、巴に向き直る。彼女は目を丸くして息を詰めていた。
「何だよ? 殺さなきゃいいんだろ?」
譲歩、というものをしてやったのだ。もう少し、ホッとするとか喜ぶとかして見せたらどうなのか。
複雑な面持ちの巴に向けて、彼自身もムッツリと片手を差し出すと、彼女はその手を見て、折れたトビの指を見て、またカラスの手を見て、それから小さく首を振った。そうして、彼の手に彼女の細い指先をのせる。
「『伏せ籠』を敵に回して、本当に逃げ切れると思っているのかい?」
折られた指を元の位置に戻しながらつながった二人の手を睨むように見つめ、トビが軋む声で言った。カラスはそんな彼を鼻で嗤う。
「当たり前だろう。俺がいるんだからな」
自信に満ちたカラスを、トビが悔しさと――羨望が入り混じった目で見上げる。
やはり、気色が悪い。
「行くぞ」
カラスは巴の手を引き、まだ地面に座り込んだままのトビをそのままにさっさとその場を後にした。
 




