意志
ヤツがこちらの様子を窺っているのは、明らかだった。それがどこから注がれているのかは判らないが、カラスは確かにトビの視線をヒシヒシと感じていた。
「お前はこっちを歩け」
彼に続いて宿から出てきた巴を建物の側に押しやる。ピタリと彼女に寄り添い、自分の身体と建物の壁とで彼女を挟むようにして、どこからか向けられているトビの目から隠した。
いつものトビのやり方なら、遠く離れた場所で、決して姿を見せることなく密やかに獲物を仕留める。『伏せ籠』にいた時は取るに足りない男だと思っていたが、こうなると意外に厄介な相手だった。
いつ銃弾が放たれるか。
カラスは全身の感覚を研ぎ澄ませてそれに備える。
だが――
何も起こらない。
一町(一町=一〇九メートル)進み、五町進んでも、感じるのは執拗に付きまとう視線だけで、一向に銃声は鳴り響かなかった。
基本的にトビはどこか一ヵ所に留まり、そこから獲物を狙う。このままカラスたちが歩き続ければ、やがてその射程範囲内から外れるだろう。だが、まさか、見逃すことはあるまい。『伏せ籠』の鳥はそんなに甘くない。巴を仕留めるまでは、どこまでも追いかけてくる筈だ。
万一にも巴に傷がつくことを回避したくて宿に留まっていたが、元々、カラスは防御など頭の片隅にも置いたことがない。座っているだけなのはもううんざりだし、いつ狙われるかと警戒し続けるのにも限度がある。
今すぐにでも決着をつけてしまった方がいい――そう方針転換したのだが。
戦うには、あちらから出てきてもらわないとならない。
(あのグズ、何をグズグズしてやがるんだよ?)
一歩毎にカラスの感覚は鋭敏になって、柔らかなそよ風でも鋭い刃物で切り付けられたように感じられる。
自分が狙われているならいい。
だが、標的は巴なのだ。
どうにも神経がささくれ立つのを抑えられない。
「クソッ」
撃ってくるなら、宿を出てすぐだと思っていた。しかし、さっぱりその気配がないことにカラスは苛立つ。
と、その時、躊躇いがちにカラスの外套の裾が引かれた。チラリとそちらに目を走らせると、微かに揺れる琥珀の瞳と目が合う。
心配するなと言ってやりたかった。
そう告げてこの腕に抱え上げてやりたかったが、今はできない。
こうやって彼女が脅かされている状況に甘んじていなければならないことが、カラスには腹立たしかった。
ゆっくりと、着実に、巴が彼の陰から出てしまうことのないように、カラスは足を運ぶ。
次第に周囲の人の姿は疎らになっていき、いつしか完全に消え失せた。
人気のない場所を目指したのは、カラスの目論見だ。ヒトが少ない方が気配を探り易いし、騒ぎにもならずに済む。
足を止めずに歩き続け、辿り着いたのは、町外れに打ち捨てられた堂だった。半分枯れたような木々が周囲に生えている。
堂の前まで巴を連れて行き、その扉を開け放って中に自分の荷物を投げ入れた。次いでカラスは巴の薙刀を彼女に押し付け、顎をしゃくる。
「ここに入っとけ」
彼女はキョトンと彼を見上げてくる。
「え?」
「ここに入って、床に伏せとけよ。座るのも立っておくのもダメだ。できるだけ床にへばりついておけ」
「カラスは?」
小さな声で彼女が問うてくる。そこに潜む不安げな響きには気付いていた。だが、一定の距離を保って付きまとっていたトビの気配に気もそぞろなカラスは、彼女を見ることもせずおざなりに答える。
「俺のことはどうでもいい」
言うなり彼女の服を掴んで堂の中へ放り込もうとした。が、目的を達せぬうちに彼のその手はピシャリと振り払われる。
「おい?」
苛立ちを含んだ眼差しを向ければ、同じように怒りで爛々と輝く金色の目が睨み付けてきた。
「狙われているのはわたくしです。一人だけ隠れているわけには――」
「うるさい黙れ。お前がいたら邪魔だ」
仔犬のように吠える巴の口を、カラスは反論を許さぬ口調で封じた。こうして話をしている間も、彼のうなじの毛はザワザワと不快に逆立っているのだ。
確実に、トビは近くに来ている。悠長に彼女に構っている場合ではなかった。
巴に目もくれず、もう一度彼女を堂の中へと追いやろうとした。が、彼のその手は再び叩き落とされる。カラスは思わず周囲に向けていた視線を巴に下ろす。
彼女は不機嫌そうに細められたカラスの緑の目を見返すと、キッと顎を上げた。
「わたくしは自分の意志を持ってあなたと共にいるのです。わたくしは手足を動かし、物を言う人間です。あなたの着替えや何かのようにただ運ばれるだけのものではありません」
そうまくし立て、巴は顎を上げてカラスを睨み付けてくる。その様子は、自分が狙われていることに怯えているようには見えない。
カラスは眉をひそめてしげしげと彼女を見る。
(そう言えば、こいつは家の為に死んでもいいとほざく奴だった)
命を狙われて、今更おののくこともないだろう。
では、先ほど彼女の目の中にちらついていた恐れは、何に対するものだったのだろう。
巴の思考が読めないカラスは、首をかしげつつ、取り敢えず先ほどの彼女の台詞に応じた問いを返す。
「……俺がいつお前をふんどし扱いしたんだよ?」
詰まるところ、巴が言わんとしたことは、そういう意味だった筈だ。
だが、彼女は一層眉を逆立てる。
「ふんどしならまだあなたの役に立つでしょう。けれど、今のわたくしはふんどし以下です。共にいるというのに、わたくしは何もできていない。あなたがわたくしの為に戦うというのなら、わたくしはあなたの為の弾除けくらいにはなれます」
(こいつを弾除けに?)
カラスはまじまじと巴を見つめながら自問する。
そんなことは有り得なかった。
トビの放った銃弾が彼女をかすめることを考えるだけでもゾッとするというのに。
「いいから、お前は隠れとけ」
「カラス!」
押しやろうとするカラスに、巴が食い下がる。その必死の形相に、不意に彼は、ああ、これかと納得した。
いつも淡々とした彼女が、彼の前では崩れる。人形のような彼女に、唐突に命が宿る――彼故に。それが、いいのだ。
「お前は無傷で俺の隣にいたらそれでいいんだよ」
そうして、些細なことで彼に食ってかかったり、躊躇いがちに笑いかけてくれたりしてくれれば、それでいい。
カラスは、それが欲しいのだ。
彼は片手を上げ、巴の滑らかな頬に伸ばす。丸めた彼の手のひらに、彼女の頬はすっぽりと納まった。
巴は一歩も譲らない、といった風情でカラスを見上げている。
きつく一文字に引き結ばれた唇と、黄金のように輝くその目。怒っている時の彼女が、一番生き生きする。その変わりようが、彼には面白く感じられる。
熟れた桃のように丸い頬を染めて彼女が微笑むと、冷えたカラスの胸は温石を抱いたような心持ちになる。それが彼には心地良い。
カラスはフッと口元を緩ませた。途端、巴が微かに目を見開いた。ほんのりとその頬が薄紅色に染まり、熱を帯びる。
と、不意に、カラスの肌を刺す感覚が増した。それは殆ど物理的な感触を伴っているほどに、明確なものになった。その強さに、それが発せられている一点が目に見えるように感じ取れる。
カラスは振り返り様、巴の身体に片腕を回して自分の後ろへと追いやった。
彼女の身体を抑え込む腕に力を込めて、彼はその方向を見据える。
そこに、その書生姿にそぐわぬ得物を手にした、トビがいた。




