穢多の女童
つき丸が源五郎の元に来てから数日が経ったある日・・・
源五郎は鍛錬のため時折持ち歩いている木刀を手に、つき丸を共に城の周りを散策していた。
つき丸は仔犬の足でなんとか源五郎に追いつこうと、一生懸命ついてくる。
その愛らしい姿を振り返り確認しながら、気ままに歩を進めた。
先日降った雨が路面に泥濘と水たまりをところどころ作り、青空に浮かぶ雲がその水たまりに映し出されている。
そんな水たまりに水澄し(あめんぼ)が波紋を生み出し、時折吹く心地良い風が蒲の穂を揺らす、まだ暑くなる前の初夏であった。
源五郎は足元を歩く”つき丸”に当たらないよう、気を付けながら木刀を振り
「つき丸、今日はよい日和だな・・・」などと話しかけた。
そんな源五郎をつき丸は見上げ、不思議そうな顔をしている。
荒川(元荒川)の渡しを通り過ぎ、こんもりとした林を左手に見ながら川沿いを歩いて行き、荒川が大きく取り囲む様に蛇行する佐枝という地まで来た時、河原の中ほどでなにやら童たちが騒いでいるのに気が付いた。
何事か?と近づいていくと
「ゑ(え)た」とも「ゑとり」とも言う蔑みの声が聞こえる。
数人の童が、一人の着古した衣を纏った童に石礫を投げつけていた。
投げつけられている童は足を引きずり、手で守る頭から血を流しながら、必死に逃げようとしている。
それへ浴びせかける様に
「穢多はこのあたりをうろつくんでねぇ!うせやがれ!」
「穢多は臭ぇんだ!」などと罵声を浴びせながら石礫を投げつけている。
源五郎は
「やめろ!なにをしているか?!」と後ろから駆け寄った。
振り返った童たちは
「なんだお前は?お前も穢多か?」と逆に問い詰めてきた。
「多勢によってたかって一人をなぶるは卑怯者のする事ぞ」
「お前も穢多だ!穢多にちがいねぇ!」と源五郎にも石礫を投げつけてきた。
投げつけられた石礫を木刀で叩き落としながら、悠然と童たちに近づいていくと、その迫力に恐れをなした童たちは
「うわ~逃げろ!」と我先に逃げ出した。
そんな様子を静かに見送った源五郎は、頭の傷を手で押さえ、踝ほどの川の流れの中で蹲り濡れている童を見た。
うちひしがれている様に見えるその姿は、よく見れば源五郎と年の頃は同じくらいの女童であった。
着古してはいるが、清潔そうに見える衣は血と川水に濡れそぼり、川底に手をつきうなだれている。
「大事ないか?」と源五郎が声をかけると
その女童は黙って頷いたが、立ち上がろうとして足の痛みに耐えかね、再び川の中に尻餅をついた。
源五郎は川の中に入り歩み寄ると
「歩けそうか?」と問うた。
「大事ありませぬ」と応えた女童の言葉の抑揚が、地元の者と違う事に気付き
「おぬし他国の者か?」と聞いた。
「祖父母は西国の者です・・・」と再び立ち上がろうしたが、やはり足の痛みで立ち上がれない。
「無理をしては余計ひどくしてしまうぞ、俺が背負って家まで送ってやろう」
女童はひどく驚いた様子で
「私は穢多でございます・・・」
「穢多だろうが非人であろうが、人である事に変わりあるまい」と言って、背を向けしゃがみ込んだ。
女童は恐る恐る源五郎の肩に手をかけおぶさる。
その手に櫛が握られているのを見て、源五郎は
恐らくこの櫛を川に流してしまい、それを追いかけてここまで来てしまったのだろう・・・と察しがついた。
「名はなんと申す?」
「まゆ、と申します・・・」
「源五郎と申す。お前の住いはこのまま行けばよいのか?」
「はい・・申し訳ありませぬ・・・」と言った”まゆ”を、膝を屈め伸ばす事で自らの背の上の方に押し上げ歩き出した。
戦国時代、武士、貴族などには「官位」という肩書により、身分の上下や権利、立場などに格差があったが、武士以外の百姓、商人、漁民などの一般民衆に対しては、後の江戸時代の様な職業による身分制度は定められておらず、職業による貴賤差別はなかったと言っていい。
しかし「穢多」「非人」という言葉や、「かわた」といった名で呼ばれている人達が存在していた。
”穢れ”が”多い”と書いて「穢多」と呼ばれた人々は、その人々だけに許されている特殊な職業を生業として生活していた。
それは牛馬の解体、毛皮の加工、葬送、土木工事、清掃、廃棄物処理である。
そういった仕事が”穢れ多い”人達に託された背景には、当時の人々が現在の我々以上に「死」というもの、「人知の及ばぬもの」に対して、畏れや畏敬の念を抱いていた事による。
どこかの家で誰かが死ねば、それはその家に「死の穢れ」がつき、逆に出産で新しい命が生まれれば、出産の際に大量の出血が伴うため、「家族が増えた」という大きな変化があった事に対して「穢れがついた」とされた。
一旦穢れがつくと、「きよめ」「物忌み」といって、家に引き籠り一切の活動を一定期間自粛しなければならない。
そういった神道の風習が、令和の現代でも残っている。
いわゆる「喪に服す」や「喪中はがき」「清めの塩」などである。
「死の穢れ」は伝染すると考えられていたので、外からもうかつに人を出入りさせる訳にもいかず、その穢れを家から持ち去ってくれたり、払ったりしてくれる人が必要であった。
その儀式を行うのが「穢多」と呼ばれる人々の役目の一つでもあった。
その他にも、胎児と共に母体から排出される胎盤などを「胞衣」といい、きちんと手順を踏んで処理しなければならなかった。
その風習を「胞衣納め」と言う。
それを怠れば出産の際の穢れが払えず、災難が降りかかると本当に信じられていた時代である。
その「胞衣」を処分する際にも「穢多」の人々が必要とされた。
民衆から「穢れを払い、清めてくれる力を持つ専門家」として、なくてはならない存在として必要とされる一方、その職制や皮革生成の際に発する匂いなどで、江戸時代以後の苛烈な差別はまだなかったものの、この時代は差別と畏怖が混同する微妙な環境に、穢多の人々はおかれていたのである。
暫く”まゆ”を背負い歩いて来た源五郎は、河原から一段上がった場所にある集落を見つけた。
「あれか?」と源五郎
「はい・・」
と・・源五郎たちの姿を見つけた、両親と思われる二人が小屋の一つから駆け出してきた。
不思議そうな顔で源五郎に黙礼すると、頭から血を流していた娘に
「まゆ、大丈夫かぇ?」と聞いた。
まゆは頷くと
「このお人が助けてくれました」と言った。
父親が源五郎のいでたちを見て、どこぞの武家の小童と察し
「これは、これは、娘が難儀なところをお助けいただき、ありがとうございました。父の善右衛門でございます」と丁重に礼を言った。
「いや、礼には及ばぬ」と言いながらまゆを背から降ろす源五郎と、その足元の源五郎になついている”つき丸”を見て、源五郎の人となりを想像できた母親が
「みすぼらしい家なれど、どうぞ礼の一つでも差し上げたく存じます。お立ち寄り下さいませぬか?」
「よいのか?」源五郎は初めて見た「穢多」の家に興味を持ち立ち寄る事に決めた。
父親の方も、娘を助けてもらった事をたいそう感謝している様子で
「えぇ、是非ともお寄りになってくだせぇまし」と言った。
家の前の一画には稲木(穀物等を刈り取った後に束ねて天日に干せる様、木材や竹などで柱を作り、横木を数本掛け作った物)を大きくしたようなものがあり、獣から剥いだであろう毛皮が干されていた。
小屋の中は、ほとんどが土間で、気持ちばかりの板間とその真ん中に囲炉裏があった。
板間の囲炉裏横に源五郎を招きいれると、吊るされた鍋から野菜汁らしき物をよそい、
「つまらないものですが、よろしかったら・・・」とすまなそうに差し出した。
それは大根や菜っ葉、肉をいれ煮たものだった。
なんの躊躇もなく、源五郎は一口すすると
「うまい、これは猪の肉か?」と聞いた。
「へぇ、お口にあいますかどうか・・」
「あぁ、うまい」と屈託なく言う源五郎に安心したものか、源五郎の人柄に好意をもったものか
「我らこのように革作りを生業として生きております」と語りだした。
「あなた様はもしやすると・・太田様所縁のお方でございますか?」
「あぁ、弟だ」とだけ源五郎は言った。
善右衛門は妻の”よし”と顔を見合わせると、
「これは・・知らぬ事とはいえとんだご無礼を致しました」と”まゆ”ともども土間に平伏した。
「やめてくれ、俺は太田の家では厄介者よ。その様にするに及ばぬ」
「へぇ・・・」
「さぁ、みな上がってくれ」と板間に上がる様うながした。
すると善右衛門、恐る恐る板間に上がりながら、殿の弟君である源五郎の飼い犬である”つき丸”も板間に上げたものだ。
その”つき丸”を”まゆ”が愛おしそうに抱いた。可愛くてたまらない、といった感じだ。
つき丸も嬉しそうに尻尾を振りながら、まゆの顔を舐めようとしている。
その時、初めて源五郎はまゆの笑顔を見たのであった。
「先日・・非人の者がこの村に立ち寄った時・・妙な事を言っておりました」と善右衛門は言い出した。
「甲斐の武田信虎公が、革を買い集めておると・・」それは源五郎の父資頼が十一年前、北条氏綱に後援を頼み岩付城を落とした後、扇谷上杉氏の後援で岩付城を攻めた武田信虎に耐えかね、扇谷上杉家へ帰参した。という経緯を知っていて、太田家の源五郎の少しでも役に立つのではないかとの、肩入れの思いからの言葉だった。
革は戦で必要な武具や馬具になくてはならない物で、鞣す前の物を”皮”、鞣した後を”革”という。
ちなみに”鞣し”という処理は、高温多湿の環境では腐るという欠点がある”皮”を腐らなくする加工法である。
原皮を川で洗いバクテリアの働きで鞣す方法「油脂鞣し」や
煙であぶり煙に含まれるアルデヒド類の鞣作用を利用する「熏べ革」などがあり、どちらも強烈な”匂い”を発する。
その”革”を買い漁っているという事は、武田信虎軍備を整えどこぞに攻め入るつもりか・・・と源五郎は
「しかしその様な情報が、岩付の地におりながらも入ってくるものなのか?」と聞いた。
「はい、実は今、関八州の穢多は二つに割れております」
「ほぅ・・」
「源頼朝公に長吏頭(自らはそう名乗った。穢多頭とも言う)とお認め頂き世襲される我らが頭領、「弾左衛門」と、北条が伊豆より連れ込んだ「太郎左衛門」なる人との争いにございまする」
新興勢力である北条が領土を広げる度に、その地の穢多は弾左衛門から太郎左衛門に支配が変わるという事実に源五郎は
「我ら武家もおぬしらも、まったく変わらぬのだな・・」と呟く様に言った。
「弾左衛門様もこのままでは力(勢力)を失ってしまいまする故、お味方の力となりえる様、非人などを使い情報を集めておりまする」
非人とは領主に年貢を納められずに逃げた農民や、病気で働けなくなって生きる為の糧を得られなくなった人、捨て子などで物乞いで生計をたてる者達もあれば、特定職能民、芸能民の呼称で呼ばれる者達もいた。
後の世には被差別民の呼称となるが、戦国時代の非人は職業の制約を受ける事がなく、身分制度が定まった江戸時代よりも遥かに自由に生きる事ができた。
「非人」の身柄は誰の所有物にもならず、どこへ行くにも自由である。
非人は関八州では穢多頭、弾左衛門と各地の長吏小頭の支配下にあるとされ、その非人を各地の穢多村との連絡に使ったり、情報を集めさせていた。
甲賀や伊賀、伊那忍びなどの本職の忍びを雇い入れ、間諜網を整備した戦国大名もあったが、その派生は異なるものの、この非人を使った「風魔者」と呼ばれる組織を使い間諜網を整備したのが、北条氏であったといえよう。
「風魔者」は他の忍びの組織を抜けた「抜忍」や牢人なども抱え込み、その恐るべき術技を高めていったものと思われる。
「今川氏輝様(今川義元の兄)も寿桂尼様の名で、かわた彦八という長吏小頭に皮革を調達せよとの命が下った様でございます」
「と言う事は、武田は今川と一戦交える気か」
「おそらくは・・・」
物流という物の流れをを見るだけで、国の狙いや動きが垣間見える、という事を源五郎は学んだ様な気がした。
後に、海道一の弓取りと名を馳せる今川義元の兄氏輝と、戦国最強の虎と恐れられた武田信玄の父信虎が、駿河を舞台に戦を始めようとしていたのである。
太田道灌の流れをくむ戦国の武士の血が熱くなるのを感じ、それを冷まそうとするかの如く、
「邪魔をしたな。またなにか新しい情報があれば知りたい。またここに来てもよいか?」と源五郎は聞いた。
「え~え~、いつでもお越しくださりませ」と嬉しそうに善右衛門は応えた。
血で血を洗う戦乱の波音が、元服前の源五郎の耳に否応なしに聞こえ始めていた。