嵐の予兆
ごろごろと雷が鳴り響き、初夏の日中にどこか涼しく感じる湿った風が吹いている。
空に敷き詰められた雲により、三丈(約9m)の高さから見下す荒川(元荒川)も岩付の湖沼群も、本丸の居館も木々も薄暗く感じさせた。
立働く下男下女達も、嵐の予兆にどこか忙しなく感じられる。
源五郎は本丸、居館内にある自室に面した中庭に、つき丸を連れ込み放し遊ばせてやっていた。
つき丸は腹が満たされたせいか元気に中庭を走り回り、端から端へ、ぴょんぴょんと飛び跳ねるかの様に走っては止まり、走っては止まりを繰り返している。
そんな様子を縁(縁側)に座り、源五郎は笑顔で見守っていた。
そのうち”つき丸”は落ちた木の枝を拾ってきて、源五郎の前で尻尾をふりながら後ろ足を立たせ、前足は伏せて枝を咥え首を振っている。
「なんだ?俺と勝負しようてか?」笑いながらその枝を取ろうとすると、つき丸はその枝を咥えたまま引っ張った。
「ぬっ、やるな」と言って、笑顔の源五郎は四つん這いになり、つき丸の力に合わせ拮抗する様に引っ張って遊んでやる。
つき丸は飽く事なく繰り返し、源五郎はそれに付き合ってやった。
そこにたまたま古河足利幕下の大石石見守が配下の者を連れ通りかかった。
石見守は武州葛西城主であり、太田資頼の娘が嫁いでおり縁戚にあたる。
その正室は現当主資顕にとっては妹に、源五郎には姉にあたるが、長い患いから快方し床払いが出来たと、所要かねがね報告に訪れていた。
資顕に報告後、御対面所(応接間)から下がる途中、源五郎の姿を見かけたのだ。
大石石見守は、
弟君が御乱心なされた・・・とぎょっとして足を止め配下の者に、
「なんだあれは?・・あれではまるで、うつけではないか?」とあきれ果てた様子で言ったものだ。
そんな事を言われているとは知ってか知らずか、源五郎おかまいなしに”つき丸”に付き合ってやっていた。
その日の夕刻、つき丸は突如として体調を崩した。
激しい下痢と嘔吐に襲われたのだ。
食べた物も全て吐き出してしまい、みるみる衰弱していく。
ぶるぶると震え続け、立ち上がる事も出来ず蹲っている。
そんなつき丸が心配でならず、激しく雨が降り出した軒下で、源五郎はつきっきりで看病していた。
病で倒れた父に代わり、源五郎の守役代わりを務めていた太田下野守道叶が後ろから声をかけた。
「どうですか?」
「よくないな・・もうなにも受け付けない・・・」
胃に優しそうなものを選んで口元に近づけてやるのだが、目を瞑ったまま震えるのみで、なにも口にしようとしないのだ。
「食いつけない物をいきなり食べたせいか・・・」
仮の犬小屋とした桶の中に布を敷き詰め、つき丸を寝かせ寒くない様に手布(手ぬぐい)をかけてやった。
その中でつき丸はぶるぶると震えている。
「死んでしまったとしても、それはこの犬の運命です・・しょうがありませぬ」と道叶は立ち去って行った。
心配でならない源五郎は、くまが用意してくれた食事をいつも通り一人寂しくさっさと済まし、つき丸の元に戻る。
震えるつき丸に、まだ生きている事を安堵しながら
「つき丸・・頑張るのだ・・つき丸・・」と背をさすり何度も声をかけてやった。
そんなつき丸を看病する源五郎に、殿である兄資顕から呼び出しがかかった。
源五郎がしかたなく居室に赴くと、厳しい顔をした資顕が座している。
源五郎が資顕の前に座すか座さぬかのうちに
「源五郎、なにやら拾って来たようだな。いかにするつもりじゃ?
また、我室(妻の事)に対する無礼は、わしへの無礼も同じじゃ!
いかなる存念か?申し開きしてみよ!!」
早くも怒りの色を見せる兄の前で、源五郎は動じる事無く返答した。
「仔犬の事でしょうか?城外を散策していたおり見つけました。おそらく母を失い痩せおとろえ、放っておけば死んでしまうと思い、面倒をみております。兄上」
「畜生の事など知らぬ!どこぞの道端で朽ち果てればよいのだ!!」
「姉上もそのような存念とお見受けした」
「どこぞに早く捨てて参れ!そして我室に謝りに行くのだ!!」
激昂する”殿”である兄に対し、あくまでも静かに
「道、之を生じ、徳、之を畜い、物、形づくり、器、之をなす。是を以て万物、道を尊びて徳を尊ばざるは莫し、道の尊きと徳の貴きは、夫れ之を命ずる莫くして、常に自ら然り」
「なっ、なにぃ?」
源五郎は一呼吸おいて
「という言をご存じなきや?」
すらりと荘子を諳んじる弟に、辟易し吐き捨てるかのごとく
「だからなんだと申すか?!」と言った。
「万物は道や徳を自然に尊んでいる。慈愛こそその道標たりえよう」
資顕の顔は真っ赤になり、
「貴様、愚弄するか!?」と太刀を掴み源五郎に詰め寄った。
座している源五郎は涼し気な目で兄を見上げながら、
「道理を説かれて言い返す事もできず、意のままに身内を討ちなさるか?」
「貴様!」と太刀を抜こうとした刹那、源五郎が目にもとまらぬ速さで立ち上がり、太刀の鵐目を押さえつけた。
小童が押さえる太刀が抜けぬ驚きに、資顕は目を見開いた。
源五郎は資顕の目を覗き込むように
「お辞めなされ、それでは当主としての道理が立ち申さぬ。後世に愚名を残しますぞ」
こういった時の源五郎の気魄は凄まじい。
十五も年下の弟の迫力に呑まれた資顕は後ずさり、腰を落とした。
そんな兄に一瞥を与え
「ごめん」と言って居室を出て行った。
兄との確執など、源五郎にとって何ほどの事もなかったのである。
それよりも”つき丸”の事が心配でならなかった。
陽が落ちると途端に暗くなった。
照明がともる現代とは違い、月明りが無ければ夜は漆黒の闇に覆われる。
先ほどから降り出した雨音が響く中、軒下の桶の中でぶるぶると震える”つき丸”を外において、戻る気にはなれなかった。
源五郎はつき丸を入れた桶を抱え寝所に戻ると、自分の臥所の中につき丸を入れ、自らもその中に横になった。
源五郎は脇に抱える様につき丸に上掛けをかけてやり、右手で囲む様につき丸を温めてやる。
「どうだ?暖かかろう?」と声をかけてやる。
しばらくすると、つき丸の震えは止まったようだった。
雨音を聞きながら、資顕はその妻椚田姫に酌をしてもらいながら酒を呑んでいる。
椚田姫が絡みつくような眼差しで夫を見ながら
「私は気味が悪うてしかたありませぬ・・・」とささやいた。
「源五郎の事か?まったく十四の小童とも思えぬわ・・・」
「はい・・なにを考えているのやら、あの目を見ると背筋が寒うなりまする・・・」
資顕はにがにがしく酒を口に運ぶと
「言うな、あれでも太田の男子ぞ、この戦乱の折、今のところ我が跡目を継げるのは奴しかおらぬ」
酌をしながら
「御嫡子は必ず私が生みまする。ご安心めされ・・・なれど・・私は源五郎どのが近くにおるだけで安心できませぬ・・」
「わしとて同じじゃ・・安心せよ。父と談議の上、ある事を運んでおる」
「ある事?・・」
「じき分る。それまでは我慢するのじゃ」と言った資顕の口元は笑っている。
軒下に一定の間隔で垂れる雫の音が、どこか憂鬱に響いていた。
翌朝、夜半に止んだ雨の雫が軒下に落ちている。
腰付障子(下部を板張りにした障子)から朝の光が臥所を照らしていた。
顎をぺろぺろと舐められる感触で源五郎は目を覚ました。
つき丸が布団の中から源五郎の顎を舐めている。
「おぉ!よくなった様だな、本当に良かった!」
つき丸はよたよたしながらも自分の足で歩き臥所から這い出てきた。
起き上がり胡坐をかいて座る源五郎の太腿に寄り添い、足を投げ出す様に座った。
その後ろ姿はどこか朦朧としていながらも、辺りを見渡している。
「精が付く様に、粥へきざんだ韮を入れてやろう」と源五郎はつき丸を抱きかかえ、厨へと向かった。
「あれ、元気になりましたけ?ようございましたな」と、くまが声をかける。
「あぁ、これなれば大丈夫だろう。粥に韮を細かく刻み入れてやってくれ、まだ本調子では無い故、あまり入れぬ様にな」
「へぇへぇ、分っております」
支度を整え与えた粥を、のろのろと少しづつ口に運ぶつき丸を見ながら、それでも食欲の出た事に安心した源五郎は優しく微笑み見守っていた。
参考文献
日本城郭事典 秋田書店
太田下野守道叶について
道叶という号は後年名乗ったものと思われますが、太田下野守に関する名前の記述がいろいろ調べてみましたが、みつかりませんでした。
その為、この小説の中では”道叶”で通させて頂きます。