令嬢、再び夜会に出席する3
「お兄様、お待たせいたしましたわ。」
婚約式の当日、玄関ホールで待っていたアルバートの前に、ミハイルから贈られた深緑色のイブニングドレスに身を包んだアイリーシャが現れた。
「うん、よく似合ってる。綺麗だよアイリーシャ。」
妹の出立ちを上から下まで眺めて、アルバートは顔を綻ばせた。
「しかし深緑色のドレスとは。自分の瞳の色のドレスを贈るなんて、中々ミハイル様も情熱的だね。」
この国の風習では、男性はパートナーの女性に自分の髪の色や瞳の色と同じ色の装飾品を贈る慣習があるのだ。
「きっと偶々ですわ!私にこの色が似合うと思ったから贈られたんであって、多分深い意味は無いですわ!」
顔を真っ赤にする妹を見て、クスリと笑った。それから腕を差し出して促す。
「では、王城へと参ろうか。」
*****
婚約式は滞りなく終わり、今宵の主役二人はホールの真ん中で参列者の惜しみない祝福を受けている。
(不思議なものだわ……)
二ヶ月前と全く同じ光景なのに、二ヶ月前と全く違う景色に見える。
アイリーシャは今、二ヶ月前の負の感情がまるで嘘の様に、主役の二人を心の底から祝福していた。
しかし、彼女の心が穏やかであるかと言えばそれは違った。
中央の二人へ惜しみなく祝福の拍手を送ってはいるものの、彼女の関心はそこには無く、このホールの何処かに居るであろう人物に向かっていたのだ。
「なんだか、落ち着かないようだね。」
「そ、そんなことないですわ。」
慌てて否定するも、隣で一緒に拍手を送っていた兄には、全て見透かされているようだった。
「これだけ人が多いと、ミハイル様見つからないねぇ。ご挨拶したかったんだけどな。」
アルバートは手に持ったシャンパンを一口飲むと辺りを見回して言った。
「そう……ですわね……」
兄の口からミハイルの名前が出てドキリとしたが、別に本人が居たわけでは無いと分かり落胆してしまった。
(お話しするのは無理でも、せめて一目お目にかかれればと思っていましたが……)
アイリーシャは改めて会場のホールを見渡す。王城だけあってかなりの広さを有している。
この広い会場で、自分はミハイルを見つけられるだろうかと、弱気になっていた。
「さて、僕は挨拶回りに行くけどもお前はどうする?ついてくるかい?」
婚約式でのお披露目が終わり、夜会は参列者達の歓談の場に移り変わっていた。
こういった夜会での社交は兄の得意とする所である事をアイリーシャは心得ていた。
しかし、アイリーシャ自身は人見知りをする方なので、自分がそばに居て兄の邪魔をしてはならないと、彼の申し出を断る事にしたのだった。
「いいえ、お兄様の交流の場を邪魔はしませんわ。私は隅の方で少し休んでおりますわ。」
実際、人の多さになんだか気疲れを起こしていたので、少し休息したいと思っていた所だったのだ。
「そうか。お前を一人にするのもいささか心配だけども、それならば端の方で余り目立たないようにしてるんだよ。」
「はい。そうしますわ。」
兄と別れ、アイリーシャは一人壁際に用意されている椅子に腰を掛け、この広いパーティー会場を見渡した。
(ミハイル様は、このドレスを身に纏った私のことを、どこかで見ていてくださってるのでしょうか……)
そんな事を考えながら、アイリーシャは黒髪の男性ばかりに目を向けていた。
そんな時だった。
「マイヨール侯爵家御令嬢のアイリーシャ様ですよね。」
アイリーシャが壁際の椅子に座って休んでいると、不意に目の前に男性が現れて声をかけてきたのだ。
「はい。そうですが……」
呼びかけられたので返答をし、男性の顔を見上げて見ても、アイリーシャにはその顔に全く覚えがない。初めて見る顔だった。
「自分は、ルドガー伯爵家のリヒトと申します。どうか、自分と一曲ダンスを踊ってくれませんか。」
正直、見ず知らずの男性からの申し込みなんて気乗りしなかったが、夜会の場でダンスを申し込まれたらどんなに嫌な相手であっても一曲相手をするという慣例がある為に、余程のことがないと断れない状況となってしまった。
(変なルールだと思うけども、そのかわり一曲踊れば次からは断れるからね。仕方がないわ。)
「はい、お受け致しますわ。」
アイリーシャは仕方なく王太子の婚約者候補の教育で培った完璧な淑女の笑みを浮かべて憂鬱な内心を隠し答えた。
アイリーシャの返事に気を良くした男性は、嬉々として彼女の手を引きダンスホールへと誘導する。
やむを得ず彼についていくアイリーシャであったが、
ふと此処で、自分は兄と王太子殿下以外の男性と踊るのはこれが初めてであると気づいてしまった。
そう気づくと、えもいわれぬ不快感が込み上げてきたのだった。
「あの……申し訳ございません。急に気分が悪くなってしまって、このまま踊ると倒れてしまいそうですの。ですから、折角のダンスのお誘いですが本当に申し訳ないのですが辞退させて下さい。」
一般的にダンスの誘いを断るのは非常識とされているが、体調が悪い場合は別である。
事実、先程から込み上げてくる嫌悪感でアイリーシャは酷い気分になってしまった為、申し訳ないと思いながらも、ダンスの辞退を伝えた。
これで、この男性も諦めてくれるだろうと思っていたが、事態は思うようにはいかなかった。
「それは、気付かずに申し訳なかった。どこか休める場所に行きましょう。」
男は食い下がってきたのだった。
「いいえ、初対面の方にそこまでお手間をかけさせる訳にはいきません。一人で大丈夫ですわ。」
アイリーシャはやんわりと断りを入れるも、男は引き下がらない。
「そうはいきません。男として体調が優れないと分かっている令嬢を1人には出来ませんよ。」
男は自分に寄りかかると良いと言い、アイリーシャの腰に手を回し身体を密着させた。
不快でしかなかった。
アイリーシャは声を上げて拒絶したかったが、そんな事をすれば、たちまち注目を集めてしまい夜会の雰囲気に水をさしてしまう事になるので我慢をした。
この状況に助けを求めようとアルバートの姿を探してみても、周囲には見当たらない。
(どうしましょう。このままだと人の少ないホールの外へ連れ出されてしまうわ……)
男にがっしりと掴まれてしまい、逃げる事が出来なくなったアイリーシャは歩きながらも、この状況からの打開の道を思案していた。
(ホールから出た後なら、大きな声を出して拒絶しても注目を集めないわよね?えぇ、そうしましょう!!)
そう決意すると、覚悟を決めた。こうなったら一刻も早くホールから出てしまおうと足を早めた。
男は何やらずっと話しかけてくるが、早くこの状況から解放されたい一心のアイリーシャにはその声は全く届いていなかった。その集中力は凄まじく、男の声だけでなく、周りの声も全く聞こえなくなっていた。
だからアイリーシャは、周囲の令嬢達の嬌声を振り切ってこちらに向かって歩いてくる男性が居る事にも、全く気がついていなかったのだった。




