令嬢、自覚する3
ミハイルが最後にマイヨール家を訪れてから5日が経っていた。この間、アイリーシャの筆は驚くほど全く進んでいなかった。
勿論、サボっていたわけではない。毎日物語を書き進めようと机に向かって筆を取るのだが、今まで一緒に過ごして来たミハイルとの思い出が頭をよぎり、アイリーシャを大いに戸惑わせた為、彼女の筆は思うように進まなかったのだ。
(お会いできなくなる事で、こんなにも寂しいと思うとは思いませんでしたわ……)
ふぅ……と一人溜息を吐き、持っていたペンを机の上に置き、小さく伸びをした。
目の前の紙は白いままである。
どうしたものかと途方に暮れて、気分転換に庭でも散歩しようかと考えていたところに、彼女の侍女のエレノアが来客の知らせを告げに来たのだった。
*****
「リーシャ久しぶりね。貴女ったらちっとも家から出てこないのだもの心配したわ。」
「マグリット、いらっしゃい。本当に久しぶりね。」
来客者はアイリーシャの従姉妹であり、共に王太子殿下の婚約者候補であったマグリットだった。
挨拶もそこそこに、マグリットは出迎えてくれたアイリーシャを上から下まで眺めて、彼女が健康そのものである事を確認し安堵した。
「貴女は特に王太子殿下をお慕いしていたから、婚約者が正式にレスティア様に決定して気落ちして引きこもっているのかと思ったけども、案外元気そうね?」
「確かに発表直後はそれはもう酷い気分だったわ。手紙でしたためて下さった私への気遣いが全部まやかしだった事が分かり、それはもう、泣き腫らしましたの。」
でもそれは過去の話。アイリーシャは笑顔で話し続ける。
「ですが、王太子殿下の婚約者候補という事で今まで自由に動けなかった事が、制約が外れて色々と出来る様になったので、今はとても忙しくしていて傷心に浸っている時間もありませんわ。」
そう話すアイリーシャは、とても凛としていて美しく、今が非常に充実しているということが、彼女の出立から滲み出ていた。
「まって、リーシャ。貴女王太子殿下から手紙なんて送られていたの?」
マグリットは、アイリーシャの発言の中のある部分について困惑気味に尋ねた。
「えぇ。署名こそありませんでしたが、いつも王太子殿下との交流の後に届けられて、あの場に居ないと知り得ない内容で私をお気遣いくださってました。けれどもこれって令嬢みんなに送っていたのでしょう?私は自分だけ特別だと勘違いしてしまって恥ずかしいわ。」
自嘲気味に述べてみると、どうもマグリットの様子がおかしい。何やら頭を抱えているようだった。
「待ってリーシャ、少なくとも私はその様な手紙は一切受け取っていないわ。」
一瞬、アイリーシャはマグリットが何を言っているのか理解できなかった。
マグリットは手紙を貰っていないと言うのだ。
そんな、まさか。
「えぇ?……そんな……では何故……あの手紙は一体……」
状況が飲み込めず、アイリーシャは酷く困惑していた。そんな彼女の様子を見て、マグリットは、呆れた口調で指摘した。
「そもそも、貴女の前提がおかしいわよ。署名が無いのでしょう?ならば別の可能性を考えるべきだわ。それは本当に王太子殿下からの手紙だったのかしら?」
「そんな事、考えもしなかったわ……」
マグリットの指摘は、アイリーシャにとって衝撃だった。本当に王太子殿下以外の人が書いた手紙という可能性を全く考えていなかったからだ。
アイリーシャの反応を見て、本当にその可能性に全く気づかなかったのかと驚き、半端呆れ気味にマグリットは言葉を続けた。
「貴女は純粋だから幼い頃から王太子殿下の婚約者候補として育てられて、盲目になっていたのよ。いわば呪いのようなものよね。ま、私もだけど。」
要は幼少期から長年受けて来た教育によって、自分たちはどこか世間離れしてたり、視野が狭くなっているのだとマグリットは言う。
「婚約者候補のお役目が終わった今、私たちはもっと他に目を向けるべきなのよ。リーシャは、その手紙の主を突き止めるべきだわ。」
そうマグリットがアイリーシャに檄を飛ばしたのだが、この時既にアイリーシャは何かとっかかりを感じていた。
そして、早急に自覚する。
「ああぁぁぁぁぁぁ!!」
赤くなった顔を両手で覆いながら、アイリーシャは驚きと恥ずかしさのあまり思わず大きな声を上げてしまった。
「手紙の主に心当たりがあるのね!!」
マグリットが嬉々として身を乗り出して来た。
「なんでもない、何でもないですわ!」
明らかにアイリーシャは狼狽しているのに、何でもないと言い張ってやり過ごそうとしている。
心当たりはあるが、アイリーシャの勘違いかもしれないし、まだ人に言える段階では無いからだ。
「わ……私のことよりマグリットはどうなのよ?婚約者候補のお役目が終わって、何か変化はないの?」
とても強引な話題の展開だったが、マグリットは乗っかってくれた。
「お陰様で、王太子殿下元婚約者候補っていう肩書きは大変魅力的なのか、今や優秀なお家の令息達からお誘いが絶えなくって選び放題だわ。」
話題が逸れてくれて、アイリーシャはホッとした。それから新たな話題について、自分の近況についてもマグリットに報告する。
「確かに、我が家にもそういった類のお誘いが沢山届いていると聞いているわ。お兄様が大分選別してから私のところへ持ってくるので、正確な数までは分からないけれども、正直、怖いわ。」
「えっ、怖い?」
マグリットは、自身に無い感情をアイリーシャが吐露したので、思わず聞き返した。
「ええ、なんだか怖いの。そもそも、お兄様と王太子殿下以外の男性とは殆ど喋ったこともないし、交流の無い私に何故執心するのかが分からなくて……それが怖いの。」
「成程……まぁその気持ちはわからなくもないけどね。でもリーシャ、私たちはいずれはどなたかと結婚しなくてはならないのよ?自分達の価値が高いうちに優良物件を見つけるために色んな方と交流を深めておくのも悪くないわよ?」
「お兄様は焦らなくて良いと言ってくれているのよ。だから暫くはこの熱狂を静観しようと思ってるわ。勿論、侯爵家の娘としていずれは相手を見つけないといけない事を分かってるけれども、今はまだ落ち着かないの。だから、もっと落ち着いた頃に、きちんと考えますわ。」
マグリットが、心の底からの親切心で、アイリーシャに忠告をしてくれているのは分かっているが、アイリーシャは今、物語の作成に一番に集中したいので、やんわりとその忠告を受け流したのだった。
「まぁ、リーシャには手紙の主が居るもんね。」
しかし、上手く受け流せたと思ったのに、話題がまた元に戻ってしまったのだ。
マグリットは、どうやら隙あらば手紙の主について斬り込んでくるようだ。
「そんなことより、マグリットのお話を聞かせて?何か話したい事があって訪ねてきたんでしょう?貴女にお誘いして下さった方の中に素敵な出会いがあったのではなくて?」
いささか強引な話題転換は本日2回目だったので、上手く乗ってくれるかと不安だったが、どうやらこの話題は彼女にとって聞いてもらいたい話題だった模様で、今自分が仲良くしているお気に入りの男性について、嬉々として語り始めたのだった。
嬉しそうに相手の男性について語るマグリットを、アイリーシャは温かい目で見ていた。
自分もいつかこのように一人の男性について嬉しそうに語る日がくるのかしらと考えながら。




