便利道具と空中散歩
兄は、延々と泣き続ける妹をどうしたものかと頭を悩ませていた。元々は感極まった自分が、彼女の額に接吻してしまったことが原因だし、それに拒絶された時の傷も十分埋まってしまっている。
「アルテ。ねえ、アルテミス大丈夫だよ。兄さんはもう気にしていないから、泣き止んで。ねえ、お願いだから。」
子供は、一度泣き出すと、ちょっとやそっとじゃ止まらない。気付けばアルテミスは、兄のシャツの前を涙でべしょべしょにしていた。彼の透明感ある白い肌がうっすら透けて見える程に。
「ぎゃあ!兄さま!ごめんなさい!どうしましょう、せっかくの一張羅が!」
(この子、「一張羅」なんてどこでそんな言葉を覚えたんだろう。いや、それよりも。)
レオナルドはこの数日間の内に会話する中で、幼児とは思えない語彙力を発揮する妹に内心驚いていた。
(僕が5歳の頃って、こんなんだったっけ。)
「自信」という強くて強固な地盤は、一度崩れ始めるともう止まらない。
(もっと「しっかり」しないと。僕は、アルテの兄さんなんだから。)
「兄」は、そう固く心に誓ったのだった。
「アルテ、心配ないよ。シャツはすぐ乾くから。ほらね。」
そう言うと、爽やかなそよ風が周囲から集まり、見る見るうちに色が変わった部分が元に戻っていく。
(魔法って、こうしてみるとすごく便利よね。日常生活にこんなに役立つなんて、想像以上だわ。)
アルテミスはつい先ほどまで、魔法など不確実で使うに値しないと断定していた。
しかしこれに、「簡単・便利・すぐ使える」の3点が加わるならば話は別だった。幼く非力なアルテにとって、魔法陣無しですぐに行為に及ぶことのできる元素を用いた魔法は、非常に魅力的だった。
「兄さま、私も魔法を覚えたい。兄さまみたいになるにはどうしたら良いの?」
「そうだね、」と兄は自分のこれまでの経験を顧みた。
(気付けば己の魔力が開花し、「とある目的」のために色々と工夫を凝らしていたら今の状態になっていた、とはとても言えないな。)
はて、どうしたものかとあれこれ考えながら、そうだと兄は頷いた。
(今日は、雲一つない晴天だ。ちょっと登ってみるか。)
「アルテ、高いところは苦手かい?今から少しだけ、上の方で話がしたいんだけれども。」
幼女は思った。(もしかして何かのアニメみたいに、今から屋根の上まで一緒に風で上がって、そこから徐に物憂げな表情をされながら「魔法とはね~」と、意味あり気に語られるのかしら、私は。)
この兄も、センチな側面があったものだ。だが、大切な家族の気持ちは最大限に尊重したい。
妹は、大きく頷いた。
「大丈夫よ、お兄さま。私、しっかりと捕まっているから、心配しないで。」
それを聞いた兄は、そうかいと微笑むとアルテを風でふわりと浮かせて両腕でしっかりと抱え込みながら宙に浮いた。そのまま、すーっと流れるようにエレベーター並みの速度で空の果てまで上昇していく。
(あれえ、おかしいなあ。まだ上がる。え、もう屋根より十分高くなってるわよ、お兄ちゃん。鯉のぼりよりあがっちゃってるわよ。もう高層ビル20階分は上がってるんじゃない?)
兄は、アルテを怯えさせないように最小限の揺れで動いていた。しっかりと風の魔法でホールドされた腕も、十分に逞しかった。
だが、目に映る視界のことまでは考慮してくれなかったようだ。
「兄さん。兄さま。レオナルドお兄さま!どうしてこんなに高く飛ぶの?」
(もう高度1キロメートルを遥かに超えている気がする。あかん。おしっこ漏れそう。)
レオナルドは、恐怖のあまり歯をがちがちならす妹を見て、首を傾げた。
(あれ、おかしいな。寒くならないように、僕達の周囲だけ気温20度になるように気圧調整しているのに。もちろん、十分な空気が吸えるようにもしているはずだが。)
「もしかしてアルテ、寒いの?ならもう少し気温を上げようか。それとも、耳鳴りがするのかい?動機や息切れがしたりはしないかい?吐き気や頭痛は?」
兄の空中浮遊に対する一般常識と、私のものは随分と違ったようだ。
「高すぎます。お兄さま。私、もう。」
(私の理性が、限界値を突破したようだ。)
そのままふっと、アルテの意識はブラックアウトした。