兄の魔法と告白宣言
六月中旬の,よく晴れた朝だった。アルテミスの,三カ月と五日の長きにわたる引きこもり生活に,ようやく幕を下ろす日が来た。
(外の景色を窓から眺めるだけの生活も、今日で終わりよ。必要な情報の不足は否めないが、周りが心配するからいつまでも屋敷の殻に閉じこもっているわけにもいかないし。)
それに、体と心がもう限界だった。ガラス越しの味気ない日光には飽き飽きしていた。自分が、この世界のことをまだちっとも知らない未成年者であることは重々承知している。だが、この世界を知る兄が付添人なのだから、問題はないと判断した。
(だが、それでもしかし。やっぱりいくつか確認するべきことはあるわ。)
幼女は、下ろしたばかりの薄緑色をしたドレスに身を包み、緊張した面持ちで屋敷の正面玄関内側に立っていた。ぎゅっ、と隣にいる兄のブラウスの右裾を軽くくいと掴んで不安げに尋ねる。
「兄さま、兄さま、この辺りに地雷や不発弾はどれくらいあるのかしら?うっかり踏んで、足を飛ばされてしまわないかしら?」
レオナルドはぎょっとして、妹の頭に視線を落とした。
「アルテ…?」
(もしかして君は、それで今まで外に出なかったのかい?)
「近づけば人を食べてしまうお花や、猛獣は潜んでいるのかしら?トロールのいる橋は、どこに設置されているのかしら?凶暴なゴブリンの村が隣近所にあったりしない?」
「アルテミス!」
兄はしゃがみこんで目線を同じくし、妹の肩に両手を置いて念押しした。
「ここはね、お父様が管理する安全な領地内だから、心配しなくて良い。この辺りでそんな危険が潜んでいる場所は無いんだよ。」
そのまま、ギュッと抱きしめて耳元で囁く。
「それに、アルテに何か有れば僕が守るから。こうみえて、結構鍛えているんだよ。」
兄には確固たる自信があった。風元素を自在に操る腕はもちろんのこと、5年以上鍛錬している剣の技術だけでもそこらの魔物や暴漢と渡り合える程の腕っぷしはあるからだ。
「一緒に外に出ようか。ね、アルテ。ほら見てごらん、外は今花盛りだ。きっと楽しいから。大丈夫だから。」
優しくなだめながら、ふわふわの頭を撫にすらりとした指を通す。細くて柔らかな、猫っ毛のある妹の髪に触れるのが楽しくて嬉しい。そのまま顔を埋めながら兄は屋敷内の使用人達、それにここを出入りする行商人の人となりを確認していた。
(どこの誰だろう。妹を不安にさせるような法螺をふいた愚か者は。舌を根元から切り落としてやりたい。)
するとアルテは、胸元にしがみついていた腕を離し、きっぱりと頷いた。
「それを聞いて、安心したの。それにね、」
目線を合わせたままの兄に、真剣な目で伝えた。
「私、自分の身は、自分で守れるようにしたいの。」
こう言い放つが早いか、そのままたたたっと外に駆け出して行った。
「僕は、そんなに頼り気の無い兄に見えたのだろうか・・・。」
精神年齢が30歳手前の妹は、思わぬところでしっかりした発言を垣間見せていた。
そんな妹の事情なぞ、ついぞ知らない兄のこれまでの自信は、少しづつ瓦解し始めているのであった。
(外だ…久しぶりのシャバだ!)
幼女は、からりとした新鮮な空気を思い切り吸い込み、そのまま両腕を空に伸ばして何度も深呼吸した。
(なんの味もしない空気が、こんなに美味しいなんて。やっぱり屋敷の中とは違うわあ!こんなことなら、もっと早く外に出ていれば良かった。考えてみればそうよねえ。屋敷の周辺に危険なものなんてあるはずないわよねえ。色々と考えすぎて、杞憂に終わったわ。今日は私の、初外出日。色んな場所を探検してやるんだから!)
そして,がばりと後ろを振り向くと、うきうきした様子で叫んだ。
「良いお天気!ねえ兄さま、あっちにある花壇に行っても良いかしら?」
(お外大好き!運動大好き!)
「あの噴水にいる魚に餌をあげても?」
(魚類全てがピラニア並みに恐ろしいなんてこと、ある訳ないじゃない!本当に私ったら、考え過ぎだったんだわ。)
左右をきょろきょろとしキャッキャと一人騒ぐ。大人と違って低い子供の目線には、すべてが興味深く映る。
「今日は本当に素敵な青空ね。どこまでも走っていけそう。そうだわ兄さま、あの木のある丘まで競争よ!」
兄はやれやれと苦笑して、今にも興奮でかけ出そうとするアルテに近づいた。
「ずっと体を動かしていなかったんだから、急に走ると転んでしまう。」
「ほら、捕まって。」
すっと差し出された右手に妹は戸惑った。
(私の手の大きさが足りないから、手首ごと持って行かれそうだわ。)
おずおずと、兄の大きな右手のうち、中指と人差し指の二本を優しく握る。
そのまま、兄妹は屋敷前の広い庭を散策した。
(見覚えのある花が多いけど、いくつかは知らない種類もあるわね。興味本位でうっかり、マンドラゴラの根でも抜いたら大変。あれって本当に叫び声を上げるのかしら。叫び声を聞くと発狂するらしいじゃない。試したくはないけれど、気にはなるわね。)
兄の指をしっかりと掴んだまま、花弁の様子をしげしげと眺める。ひとつの花を見つめる妹に、レオナルドはそうだと思いつき、アルテから手を離すよう伝えるとすっと二歩離れた。
「アルテ、兄さんはね、風が使えるんだよ。アルテが外に出れたご褒美に、良いものを見せてあげよう。」
そしてにっこりと微笑んだ瞬間、アルテの体が宙に浮いた。
「ひゃっ!」
兄の身長よりも高さのある状態で、花咲き乱れる花壇の上にふわりと移動した。不思議と足元がしっかりしており、地面に触れていないのに空中を踏みしめることができる。遠くの方まで、落ち着いて良く見ることができた。
(高い!でも全然怖くない!)
足元から、兄の温かい風の力を感じられる。まるで、目に見えない手で「高い高い」をされているようだった。
「そのまま、見ててごらん。」
四方にある花壇に咲いた花から、少しずつ花びらが取れ、ゆっくりふわふわと宙に舞い始めた。一箇所の花が無くならないように、さりげなく注意が払われている。集まった色とりどりの花弁一枚一枚が、まるで意思を持ったかのようにアルテの周りで円を描き踊る。優しい風がもたらす美しい花吹雪が、二人を包み込むように乱舞した。
「…うわあ,綺麗。花びらが、くるくる踊ってる!」
小さな両手を合わせて、幼女は心から感動しつつ叫んだ。
(魔法がこんなに素敵なものだなんて!知らなかったわ!お兄ちゃんすごい!恰好良い!)
何もない空間の中を全く懼れることなく足を踏み出し、花びらの群れの端を掴むように、はしゃぎながら宙をかけ出した。
実はこの一連の魔法は、大変に高等技術であった。
まず、予測不能な動きをする妹が重力で落下しないほどの強力な風圧を、周囲の花々が散ってしまわないように最低限必要な個所に連続で生み出す行為は、風の元素と特に親和性が高い者でないと不可能な芸当であった。加えて、軽く掴みどころのない形状をした異なる種類の花弁を大量に意のままに操る行為は、繊細な技術が必要だった。
どれ一つとっても、単純な「行為」しか為せない魔法陣では、決して成しえないことだった。レオナルドは、風属性を持つ者の中でも天賦の才を持っていると言える。
花びらを追いかけていたアルテは、兄に向って力強く駆け込んでいった。
(この興奮を、近くにいる人に伝えたい!)
兄は、両手を上げてこちらにタックルしてきた妹をふわりと風で包み押しとどめ、そのまま横向きに抱きかかえた。
「兄さま!」
嬌声を上げながら、兄の首にだきついた。そして、大声でけらけらと笑った。
「兄さますごい!本当にすごいわ!大魔法使いみたい!」
(今まで恐れてばかりいた自分が馬鹿みたい!魔力って、人の夢を叶えるとっても素敵なものだったのね。なあんだ、意味不明で不確実なものと勝手に思っていて損したわ!)
兄の頬に自分の頬を摺り寄せる。彼は第二次性徴期中であるはずだが、吹き出物など全くない、白く艶やかな顔をしていた。ヒゲも無いので、思い切り肌を合わせてもひりひりする心配も無い。
「兄さま素敵、本当にありがとう。」
(ありがとうお兄ちゃん、私から魔法の恐怖を取り除いてくれて。)
興奮に頬をバラ色に染めながらアルテは兄を見つめ上げた。
(こんなことくらいで、こんなに喜んでくれるなんて。)
兄は、自分の腕の中にいる妹の輝く笑顔に心躍った。自分の魔法でこんなにも喜んだ姿を見せ、楽しんでくれる人は彼女が初めてだった。可愛らしい妹が、桃色に染め上げた柔らかな頬をこちらに摺り寄せ、キラキラした目でこちらを見上げている。
(こちらこそ、ありがとう。アルテ。愛しているよ。)
レオナルドは、自分が表現できる限りの愛情を以て、アルテの額についばむようにキスをした。
(あれ。何故だろう。私はこの、柔らかい感触を知っている。)
いつだったかしらと思い出した瞬間、兄の腕に可愛らしく収まっていた妹は、心の底から叫び声をあげた。
「ほっぎゃああああああ!!!」
そのままもがくように兄の腕を振りほどき、しゃがみこんで両手で額を抑えながら叫び続けた。
「うわああああ!!嫌あああああ!!!!」
「あいつ」は最後の瞬間に私に近づき、視界が消えつつある私に向かって何かを囁き始めていたことまで覚えている。
そしてその後すぐ、額に柔らかくて暖かな何かが押し当てられて。初めての感触だったから、あれは一体何だったのだろうと気にしていたのだが。
(おんのれえええ「あいつ」め!!!わた、私の初デコキスを別れ際に奪っていきよった!!!まじて許さん!もう許さん!殺してやる!!)
叫びながら、自分につっこみをいれる。
(というか、どうして私はこっちに来てから叫ぶことが多くなったの?何なの?毎日自分は絶叫マシーンに乗って生活してんのかい?)
そして、はたりと今自分が置かれている状況に気が付いた。恐る恐る兄の方を振り向くと、大変に傷ついた表情をしていた。動揺しているのか、眉根を寄せ、唇を軽く噛んでいる。
(ごめん。本当にごめん。お兄ちゃん。違うの、全部「あいつ」が悪いの。お兄ちゃんの西洋風の愛情表現は喜んで受け入れるから。ただ単に、「あいつ」のことが生理的にゴキブリレベルで嫌すぎて、思い出しただけでも絶叫マシーン急降下レベルで理性ふっとんでしまうだけだから。)
「ええと…その…。」
沈黙が、非常に気まずい。こんなことが出会い頭にもあった。当たり前だが、それよりも明らかに気まずい。
「ごめんなさい。ちょっと嫌なことを思い出してしまって。」
(ちょっとどころではないくらいの雄たけびを上げてしまった自分が、よう言うわ。)
兄はそのまま数秒間、氷の彫像の如く硬直していたが、声をかけられたことにようやく気付き長いまつ毛をパチパチさせた。
「いや…。ごめんね、自分でもどうかしていたよ。そうだよね。アルテとはまだ家族になったばかりだ。不快な思いをさせてしまって申し訳ない。」
(止めてくださいよ、そんな泣きそうな目で見るのは。罪悪感いや増しじゃん。)
アルテは、突っ立ったままの兄をひしりと抱きしめ、おろおろと謝罪した。
「違うの。本当に違うの。兄さまのことは大好きなの。兄さんの魔法も、とってもすごいと思ったの。感動したの。今まで魔法のこと、ずっと怖いと思っていたから。叫んでしまったのは、違う理由なの。」
(私は思春期真っただ中の少年の、純粋なガラスのハートを深く傷つけてしまったのだろうか。)
心臓が、ぎゅっと掴まれたようだった。
(「子供に対する後ろ向きな発言は、その子の将来の感性に悪影響を及ぼす」と教育の本で読んだことがあるわ。私はなんてことを、してしまったのだろう。)
不安のあまり、ぼろぼろと泣き始める。子供の涙腺は、非常に脆かった。
「兄さんのこと、大好きなのに。あっ、愛しているのに。大切な家族として、ずっと一緒にいたいのに。大切にしたいのに。どうして上手くいかないのかしら。」
普段は少し吊り上がっているはずのまなじりが、最大級に下がっている。
「お願いだから私のことを、嫌いにならないで。」
そう妹は心の底から懇願して、しゃくりあげながらめそめそと泣き始めた。
(大声で笑っていたかと思ったら、急に叫んだり泣き始めたり。)
自分を抱きしめながら、服を涙で濡らす妹を、レオナルドは不思議な気持ちでぼんやりと眺めていた。
(人といることで、いちいちこんなにも心乱されるなんて。僕らしくもない。)
今まで孤独に生きてきた少年の心が、初めての出来事の連続で揺れ動いていた。
文字通り、人形のような生き方をしてきた。感情など動かしても良い行動を産まないし、動かせば動かすほど、今までが辛すぎて。
(でも、この子に揺さぶられるのは、悪くない。)
自分の心に欲しい言葉を、淀みなく伝えてくれるこの子なら、悪くない。