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暖かな寝床と超熟睡

「…今夜も,眠れないわ。」

 アルテミスはむくんだ表情で,がばりとベッドから起き上がった。

(このベッドが,無駄に大きすぎるのよね。)

 と,豪奢な分厚い掛布団を忌々し気に右足で蹴りめくる。

(大体,子供一人が眠るために,わざわざキングサイズのベッドを用意するなんて。どうかしているわ。お陰で,ベッドの中がいつまでたっても冷たいまま。前世の私は庶民で,どちらかというと,こぢんまりとした狭い空間が好きだった。こんなに広々としていると,何だか居心地が悪くて,そわそわしてしまう。)

それに,と室内に置かれた数々の高価な調度品に,ちらりと目をむける。

(金持ちはなぜこうも,子供の玩具に至るまで,お金をかけてまで大きく豪華なものを揃えないと気が済まないのだろう。)


一つひとつを,舐めるように鑑定する。

(なによ,あのマイセンみたいなデザインの大きな花瓶は。それにあの,バカラ製並みに透き通ったガラスでできたテディベアの置物は,なにか意味があるわけ?割りたくないから,絶対に近づかないでおきましょう。この木馬の装飾に使われている金色の部分って,ただの塗料じゃなくて本物の地金じゃなくて?うげえ,金持ちか。)


 本来なら誰もが憧れる筈の貴族の環境に,幼女は「もう沢山」といった様子で手元の布団を見詰め始めた。


(この布団にしろ,使うのはまだ年端もいかない子供よ?大体,子供用の寝具にお金をかけるとか,アホなのかしら。五歳なんて,まだ幼児よ。おねしょなんてうっかりしてみなさいな。洗濯してくれるメイドの手間が増えるだけなのに。こんな大きな敷布団のシーツを,洗って干さねばならないのよ?)


 子供に似つかわしくない程の深い溜息をついて,彼女は暗闇の中ひょいとベッドから降り,豪華な刺繍の入ったふかふかのスリッパを履いた。そのまま,椅子にひっかけていた赤地に大ぶりの百合が金糸でデザインされた高級羊毛のブランケットを手探りで肩にかけて,さっきまで使っていたまだ温かみのある枕を両手で抱えて部屋の外を出る。


 この行為は、すでに幼女の,毎夜の習慣になってしまった。

母が亡くなり記憶が戻った日から,夜よく眠れない状態が続いていたのだ。心は三十台手前の立派な大人だが,親を亡くしたショックと今の体の小ささが,彼女自身をひどく不安にさせた。

(今の私にとって,こんな夜は、誰かに添い寝してもらうのが一番なのだけれど。)


 だが,今夜も父の寝室まで枕を抱えてやって来たものの,いざドアをノックしようとするとやはり気が引けた。娘が入ると,眠りの妨げになってしまうかもしれないと毎回悩むのだ。

(前世の記憶が戻る前の記憶もやはり存在しているが,どうも私は小さいころからずっと,眠るまで母に添い寝してもらっていたらしい。そしてそのまま,母も一緒に眠っていた気がする。)


 そこまで思い出して,心が大人である幼女は,今度は両親の夜の心配をし始めた。

(そういえば,父と母の寝室は一緒だったわ。私の物よりも大きなベッドに,父はずっと一人で眠っていたのねえ。大人になった今なら分かる。多分私は父と母の,夜二人きりの生活を邪魔してしまっていたようだわ。もしかして,子供が私一人しかいないのはそのせいかしら。)


 公爵家の跡を継ぐかもしれない子供が,これまで自分一人しかいなかった原因は自分のせいだろうかと幼女はどきどきしてしていた。


(やめよう。これ以上,あれこれ考えてしまうのは。)

 そして,ふとこんなことをアルテは考える。添い寝は,前世で彼女が小さい頃によくしてもらっていたものだ。当時小学生だった彼女は,卒業するまで父を除いた弟と母と親子三人で川の字になって眠っていたのである。

 だがこの世界では特に身分の高い貴族ほど,幼少期の子と親は別々の部屋で眠る。その理由は,先ほどアルテミスが考えたことが当たっていた。幼女は,不思議な感覚に身を包まれていた。

(この世界に無い習慣を,私は記憶が戻る前からねだっていた。何故だかは知らないけれど,前世で行っていた習慣が,記憶を取り戻す前から既に行動に影響していた気がする。)


 そして幼女は,枕を強く抱きしめて寂しそうに俯いた。

(でもやっぱり、色々周りが見えてしまうと,遠慮してしまうものね。親に添い寝をせがむことは,もうできないの。一緒に眠ってくれる母は,私にはもういないのよ。大切な父も,母を失ってまだ三カ月と少ししか経っていない。喪失感による心労もあるだろうし,日中は多忙な業務もある。せめて夜くらい,一人でゆっくり休みたいでしょう。)


 だが,幼女が一人で過ごすには,彼女の部屋はあまりに寂しく,そしてベッドはあまりにも広くて冷たすぎた。

(きっと、これが「一人ぽっちで辛い」という気持ちなんだろうなあ。)

アルテは,幼い体でひしひしと感じてしまう。母の葬儀があった夜から彼女は,父親の寝室の前をこっそり通り過ぎ,そのまま一階と二階の間をつなぐ大きな中央階段の隅に座り込み,枕を抱えながらぼんやりと物思いにふけるようになった。

(夜は,前世のことを特に思い出してしまうから,嫌だ。残してしまった家族や,友人のことを考えるたびに胸が痛む。)


 胸奥からだんだんと込みあがる負の感情を,何度も瞬きして無理やりに心の底に押し込めた。

(あの泥酔野郎に巻き込まれたせいだとはいえ,電車事故の対応はひどく大変だっただろうな。幸い,しっかりものの弟がいるから,対応はあの子がやってくれたかもしれない。ぼろぼろになった私の遺体を見て,みなきっと,悲しんだろうな。部屋で育てていたサボテンは,今頃どうなったのだろう。どうせなら,私もっと親孝行していれば良かった。死んでしまった後だからこそ,分かることがある。死は,老若男女問わず不幸な出来事だ。でも,残された家族は,もっと辛い思いをする。)


 虚ろな目で,歯の隙間から細い息を吐いた。

(私を庇って死んでしまった可哀そうな母。今の私の外見は,母のものとよく似ている。綺麗な深みのある赤毛に,金色の光彩が混じる翡翠色の瞳が,まさにそうだわ。)

 自分の顔を鏡で見るたび,娘は亡き母を懐かしんでしまった。彼女にとって母と過ごした記憶はたった五年と少しだが,それでもかけがえのない沢山の思い出があった。

(母が,恋しい。今の世界の母親が,そして前世でお世話になっていた母親が,私は恋しいの。)

 幼女は,不眠による疲れた顔で,自嘲するように何もない空間に一人笑った。

「どうせなら,私があのまま死んでいればよかったのに。鬱陶しい「あいつ」のお告げが当たるならば,私はそもそも十八歳になるまで生きられるか分からないんだし。」


(記憶を取り戻した直後に出会った,「あいつ」の言葉が耳に残って仕方ない。自分は、「あいつ」が適当に参考にした乙女ゲームの話のせいで,非常につまらない設定を押し付けられてしまっている。ゲームの中身は知らなかった。でも,乙女十八で死ぬような,悲惨なバッドエンドを迎えるような設定のキャラクターだわ。きっと,ろくでもない設定の人物に違いない。ネット小説でよくある,「転生したら悪役令嬢でした~」のような嫌な展開を想像してしまうの。

くだらない。非常にくだらないわ。私の魂を本人の都合を全く無視して勝手に引き抜き,このよく分からない世界に喜んで放り込んだ忌々しい「あいつ」め。今度出会ったら,絶対にその首を締めあげてくれる。

問題は,「あいつ」の参考にしたゲームの中身が,さっぱり分からないことだわ。例えば,ネット小説に出てくるような「転生悪役令嬢」達は全員が元プレイヤーで,ゲームの展開や自分の運命を変えるような重要人物が分かっている。私には,そのアドバンテージが存在しない。最悪な結末だけ「自称創造主」に伝えられただけ。どんな死亡宣告だ,まったく。せめて,死因くらい教えてくれても良いものを。そうすれば,私は全力でそれを回避できるよう,今から計画して行動しているのに。本当に「あいつ」は、一度締めあげなければ気が済まない。)


 アルテの,深く沈んだ物思いは,いつまでも止まらない。


 そもそも彼女は,広い空間は苦手だった。

 だが,同じ一人でいるにしても,無駄に豪奢な彼女の部屋にいるよりもがらんとした廊下にいた方が,なんだか解放された気分がして,何故か彼女は落ち着いたのだ。

 屋敷真正面上にある光取りの窓から,白い月光が一階の大広間に伸びている。この,高い窓から届けられる冷たい光を眺めるのが,彼女は好きだった。こうして幼女は,しんとした広い空間の隅にじっと潜み一人悶々としながら,極限まで眠くなると部屋に戻り倒れこむようにベッドに倒れこむのだ。この習慣は今後も,当分続くのだろう。


 レオナルドは,自室前の廊下の遠くの方で発している,小さな足音に気が付いた。風属性の強い力を持つ者の特徴に,鋭敏な聴覚があった。遠く空気を揺らす些細な音にも敏感になり,これを生かして著名な音楽家が風属性の者から輩出されたりする。

「またあの子か。毎夜毎夜,一体どこに行っているのだろう。」

 初めて妹になる彼女に挨拶したのは,つい先週のことだ。アーデロイド家の一人娘。両親に溺愛されて育ったと周りの噂で聞いていた。三カ月前に母を目の前で,悲惨な事故で亡くしてから塞ぎ込んでしまい,ずっと日がな一日書斎に閉じこもっているらしい。

 レオナルドが屋敷に初めて住む日,彼女は一度挨拶に顔を出したがすぐにまた書斎にこもってしまった。

 兄は,自分に課せられた役目を果たそうと,その後すぐに妹の様子を伺いに行ったが,

「お兄さまとのお出かけは,あと七日待ってほしいの。お願い。」

 と,妹に取り乱した様子でそっけなく返されてしまい二の句が告げなかった。

 養子としてここに来た以上,家族である妹とも仲良くしなければいけない,という責務のような感情はあるが,それを除けば別段,自分から特に近づきたいわけでもなかった。

 彼は、自分の身の上を冷静に判断できる聡明な少年だった。

 十三歳と若かったがすでに世間のことに明るく,自分が母を亡くしたばかりの不憫な妹の遊び相手にあてがわれたということ,ゆくゆくは息子のいないこの家の後継者として育てられるであろうことも知っていた。

 血縁関係は,僅かにだがあった。彼の父が,アーデロイド家当主の遠い親戚だったからだ。

 地方領主で伯爵貴族だった父は,潤沢に得られる税収を湯水のように自分の享楽に使っていた。彼は,とにかく女遊びと酒癖がひどかった。四十八歳の良い年こいた大人であるはずの父は,去年の春に孕ませた娼婦の一人に逆恨みされ泥酔中あっけなく刺殺された。貴族を殺した角で,その娼婦は父殺害後すぐ死刑になった。彼は,ゴミのような男を殺したせいで死ぬ羽目になった哀れな娼婦に,僅かならぬ感謝を抱いてしまった。


(女遊びのことと言い,なんという汚名を家族に残したことか。あいつの死後,「父」の子供だと名乗りを上げた,自分と同じ年頃の私生児が五人も出てきた。全くもって信じられない。死後になって,「子供」に子育てを押し付けようとする親などとは。あいつは,本当にまったくの屑だった。勿論,周りの大人たちに協力を求めて,「想定外の異母兄弟たち」は全員血縁関係を確認の上,まともで固い親族の家へ,迷惑料含めた多額の養育費と共に押し付けてある。あの領地にある,芳醇な土地で育つ小麦で得られる潤沢な税収が無ければ,我が家は破産宣告ものだったんだぞ。本当に,あの父親は。くそったれが,恥を知れ。)

 と,心の底から忌々し気に思った。


 若くして十八の年で,当時三十三歳の父に後妻として嫁いだ母は,若い身空で父の酷い女癖に心を病んでしまった。一人息子が七歳の時に,母は精神から来る病で月が次第に細っていくように衰弱死してしまった。息子は,自分の愛しい母は父によって殺されたも同然だと思い,実の親をひどく憎み蔑んでいた。

 レオナルドは,実は二人兄弟の弟だった。父の家名など,十歳以上年の離れたほとんど会話をしたこともない先妻の異母兄にでも,くれてやると思っていた。


(あの,父親譲りの女たらしの兄に,我が家名はふさわしい。)

 と一人笑った。幸いレオナルドには,母譲りの強い風の力を持っていた。この力を生かして,将来は王国の学園で研究生として独り立ちしようと十一歳の時に既に決心していた。

そんな時,娘一人ばかりで跡継ぎのいないアーデロイド家の養子にならないか,との素晴らしい声がかかったのだった。

(アーデロイド家当主は,あの娘を本当に溺愛しているらしい。ただの遠い血縁関係にある自分を,一公爵家の養子にするのも,自分がたまたま彼女と似たような年頃の子供であっただけの理由な気がする。自分の他に,「妹」の面倒をみてくれそうな年配の子は,恐らく親族中自分くらいだからだ。まあ,この機会を生かし,公爵家お抱えの優秀な家庭教師による教育を受けられて,後に寄宿学校に優位な状態で入学でき,ついでに公爵の位を手に入れられるならば,小さな子供のお世話をすることなど安いものである。)


 そう思いながらも,彼は親に気遣われる年の離れた妹が,少し羨ましくなった。

(それにしても,こんな夜更けにあの子は,一体どこに行くのだろうか。)


 彼は,ここに来てから毎晩この時間帯になると,小さな足音が通り過ぎるのが聞こえていた。見上げた寝室の壁時計は,十一時をとうに過ぎている。兄は,明かりを片手に妹の去った方向へ向かった。

 妹は,すぐに見つかった。階段の隅でうずくまる姿が見え,レオナルドは体調でも悪いのかとびっくりした。

「アルテ,こんなところで,一体何をしているんだい。ここにいては風邪をひいてしまうよ。」

季節は六月でからりとしているが時折に雨も降るし,なにより夜は冷え込むことが多かった。

 兄に声をかけられて,ぴくり,とアルテがこちらを振り返った。燭台の炎に照らされて,彼女の深みがかった赤毛が透き通りきらめく。

(なんだか,ふわふわしていて柔らかそうだ。)

 と,兄はふとそんなことを思った。彼に声をかけられて,翡翠色の少し吊り上がった瞳が不安そうに見上げている。

「兄さま。私,どうしても眠れないの。眠くなったら,ちゃんとお部屋に戻るわ。だから,大丈夫よ。心配しないで頂戴。」

「そうは言っても,ここにずっといるのかい。ここは夜冷えるから、早く自分の部屋に戻りなさい。」

 アルテは白いふかふかした枕をぎゅっと両手で抱きしめながら,その細首をきゅっとすくめ子猫の様に体を丸くした。

「私,自分の部屋にどうしても居たくないの。あのお部屋は,とっても広くて寒いんですもの。どうせ,同じ寒いところなら,ここの方がずっとまし。」

 レオナルドは,視線を妹からずらして細くため息をついた。

(「大切な」妹に、風邪でもひかれたら困る。どうやら夜に,部屋の外で彼女がこう過ごしていることは,自分以外誰も気づいていないらしい。「知っていたくせになぜ何もしなかったのか」と,後で周囲に問い詰められても困る。)

「それなら,僕の部屋においでよ。調度良いソファがあるから、そこでゆっくりするといい。階段よりも座り心地は良いはずだから。」

 白い顔で,妹はじっと兄の顔を見つめた後軽く頷き,そのまま彼の蝋燭の炎で揺れる影の跡をとぼとぼとついていった。レオナルドの部屋に一緒に向かったアルテは,勧められたソファにおずおずと腰を掛ける。

 先週から兄になった人の部屋は最低限の家具以外何もなく、どこか殺風景だった。彼が持って来たものらしい魔法に関する書籍が,壁際の棚にびっしりと並べられていた。

 小さな妹は、ソファに腰かけた後も、じっと黙りこくったまま俯き続けていた。レオナルドは少し離れた自分のベッドの端に腰かけながら,これからどうしたものかと思っていた。

(きっと彼女は、母を亡くして寂しい思いをしているのだろう。)

彼は,自分のことを引き合いにだして慰めてみようと思った。あわよくば妹の信頼も得られるし,それに今とても眠たかった。彼女に,早く自室に戻ってもらいたかったのである。

「僕もね,七歳の時病気で母を無くしている。だから,分かるよ。アルテの悲しい気持ちが。お母さまを無くしてから,今までずっと一人で寂しかったんだね。可愛そうに。同じ身の上同士,なにかあったら相談に乗るよ。」


 真剣に妹に向き合っている風を見せながら,彼はこう言った。

「そうだ,僕にできることがあるのなら,何でも言ってごらんよ。聞いてあげるから。」

 こう言えば、小さな少女はきっとなにか言い出すだろうと思いながら。

 アルテは兄の方を向き,放心したような顔でぽつりと懺悔した。

「お母さまは,私のせいで死んでしまったの。」

 抱え込んだ枕をぎゅっと抱きしめる。心の器にひたひたと満ちてしまった暗い気持ちは,一度吐き出すともう止まらない。

「私が代わりに,死んでいたら良かったのに。お母さまが,私を暴れ馬から庇ったせいで。お母さまは。」

 ひくりと,喉を詰まらせる。

「わた,わたしのせいで、母さまが。お母さまが。」

 アルテは突然,しゃくりあげるように泣き始めた。

 アルテは,不思議だった。

(なぜ、今の今になって私は泣いているのだろう。お葬式の時には,ちっとも涙は出なかったのに。)

「私が,代わってあげられたらよかったのに。」


 だが,溢れる気持ちの高ぶりが止められず,大粒の涙がぼろぼろとこぼれて,枕に次々と染みていった。

 レオナルドは,妹からの余りにも想定外な答えにぎょっとした。

(この子は、そんなことを思っていたのか。こんなに幼いのに。)

 「あの時」,彼が何度もつぶやいた言葉があった。

「ぼくが,もっとしっかりしていたら,お母さまはきっとよくなったのに。」

(…まるで,昔の自分を、見ているようだ。この子は,あの頃の僕と,一緒だ。)


 普段は冷静沈着な彼が,こんなに狼狽したのは久しぶりだった。

 自分でも思いがけないその反応にためらいながら,兄は妹の右隣に座り,頭をそっと抱えて撫でた。自分と同じような境遇に遭っているはずの少年による,その労わるような優しい手つきに幼女はなぜだかより泣けてしまい,そのまま寄りかかってわんわんと泣き出した。

 ずっと心の奥底に貯めこんでいたものが,堰を切って溶け出てしまったように,熱い涙が溢れて止められなかった。妹はそのまま,兄の細く逞しい腕の中で,気が済むまで泣き続けていた。


 夜明け前にアルテは,ふと目を覚ました。泣きすぎて腫れた瞼が重たい。そのままぼんやりと天井を見上げ,自室ではないことに次第に気が付いた。

(どうも私は兄の部屋で泣きじゃくりながら,そのまま眠ってしまったようだ。そして今,私は兄のベッドの中に一緒にいるらしい。)

彼女の視界の両端の隅が,シーツで真っ白だった。右隣を向くと,仰向けですやすや眠る兄の姿があった。夜明け前の薄暗い部屋の中で,彼の整った横顔がぼんやりと見える。

(あの後,一緒に眠ってくれたのね。会ってからほとんど会話もしていないのに。余り知らない人だけれど,兄さんはとても親切な性格のようね。)

 まだ少ししか知らない兄に親しみを感じつつも,彼女は喉がカラカラに渇いていることに気が付いた。

(泣いた後は,特にひどく喉が渇くわ。体中の必要な水分が,泣くことで目から全て零れ落ちてしまうのだろうか。)


 ふと窓際に目を向けると,窓際とベッドの間にある台に水差しがあった。調度,兄が眠る向こう側に置かれていた。生のハーブが数種類入った水が並々と入っており,すごく美味しそうだった。水を目にして,乾いた喉が反応するようにひりつき疼く。

 アルテは,伺うように再び兄の方を覗く。兄は,どうやらぐっすり寝ているようだ。

(こっそり動いたら,起きないかしら。うん。大丈夫。)


 彼女は,ものぐさである。極限まで無駄を省こうとする根性は,こんな些細な行動にも現れる。わざわざベッドから降りて台まで歩いて取りに行こうなど,微塵も考えていなかった。ゆっくりと兄の腹の上を足でまたぎ,そのまま膝立ちしながら台にある水差しを左手に取った。足の尺が足りないため,実はちゃっかりと兄の腹に座っている。

 スペアミントとレモングラスのハーブがたっぷり入った爽やかな香りのする水は,台に備えられた魔法陣の上に置くことで,調度飲みごろの温度で保たれていた。水差しを触ると,ほど良い冷たさだった。そのまま,コップに爽やかな香りのする水を入れる。それを小さな両手で持ち上げ,ごくごくと一気に飲み干す。口の右端から水が細く垂れて,寝巻の膝にぱたぱたとシミができた。

 フレッシュな植物の,爽やかな香り溢れる水をがぶ飲みしながら,幼女は窓の外に目を向けた。

(どうやら日は,まだ昇っていないようね。このまま,私こっそり帰らないといけないわ。)

 妹は,これ以上兄に心配をかけさせたくなかったのである。そうして美味しい水をたっぷりと飲み,ふうと一息ついて右手の甲でついと口を拭いつつ,コップを台に戻した時である。アルテの両脇に,ついと白い手が差し伸べられた。


 レオナルドは,自分の腹の上で妹が水を飲んでいる姿を薄目を開けて眺めていた。

(こんな自分に,こんなに可愛い妹ができるなんて…。)

昨夜までは,全く関心が無かった妹のことが,今は、なんだか愛おしかった。彼に,下の兄弟が今までいたことがなかったが,もしいたらこんな感じだったのだろうかと思った。

(それにしても。ああ,あんなに沢山急に飲むから,口の端から水が垂れてしまっている。)

 兄が,思わずシーツの端で口を拭いてやろうかと思ったところ,妹が手の甲でぐいと拭ったのを見て,ふふと目で笑った。

(彼女は,結構お転婆な気質があるらしい。)

 妹が水を飲み終えたところで,持ち上げて驚かしてやろうと思った。案の定,妹はぎょっとした顔をした。

「兄さま…。」

 人の上に乗っていることがばれた妹が,慌てた様子で急いで兄の腹から降りようとした。

だが,それよりも速く兄の腕の力で,ぐいと彼の顔元まで引き寄せられる。互いに息のかかる距離で,兄がふっと微笑した。

「よく眠れたかい?おはよう,アルテミス。」

(驚いた顔も,可愛らしいなあ。)

「おっ,おはようございます。兄さま。起こしてしまってごめんなさい。」

(しまったわ。捕まってしまったわ。どうしましょう。)

 レオナルドは,どこか不思議なものを見るような目つきで,じっと妹の目を視続ける。

 薄い寝間着越しに,妹の高い体温を感じた。よほどびっくりしたのだろうか,支えている小さな胴からどくどくと高い心音を感じる。

 「うん。」

 この少年は,まだ十三歳なのに結構力持ちなんだな,と持ち上げられているアルテは気が付いた。

(西洋の思春期を迎えるころの少年は,皆このように成長が早いのだろうか。)

 と,思わずまじまじと観察してしまう。

 兄の瞳は灰色交じりの薄碧い瞳をしていた。綺麗な瞳の向こうに,寝起きでぼさぼさな自分の姿が映りこんでいる。そのまま,アルテとレオナルドはじっと見つめ合っていた。


 妹は,最初は驚いたものの,ずっと抱きかかえられていたらまた眠たくなってしまった。この年齢の子は,すぐに眠たくなるのだ。

 うとうとしている幼子の様子に気づくと,兄はそのまま小さな体を包み込むように抱きしめ,背中をとんとんと叩いた。こつん,と落ちてきなうなじに,白い頬を愛おし気にすり寄せる。そのまま視線を上に上げ,窓の方を見た。遠くに見える丘の端がうっすらと明るくなっているが,夜明けはまだ遠かった。微睡む妹の耳元で,優しく低く囁いた。

「まだ早いから,もう少しお休み。」

 その声を聴いた妹は,眠気の中うっとりと頷くと,兄の腹から降りてぺろりと布団をめくった。そのまま脇に潜り込むように体をぴったり寄り添わせて,すやすやと眠り込んでしまった。

(暖かい。ほっとする。)

 これまで色々と悩みで緊張していたアルテにようやく訪れた,ふわりとした安心感が体の周りを包み込んでゆく。

 傍で眠る小さな妹のふわふわとした赤毛を優しく撫でながら,レオナルドは不思議に暖かな気持ちで満たされてゆくのを感じた。

 ふと妹の目の下を見ると,うっすらと隈ができていた。

(この子も,母を無くしてから長い間,ずっとよく眠れていなかったのだろう。)


 昨日はあの後、深夜まで泣きじゃくり疲れうつらうつらしている彼女を,やむを得ず自分のベッドまで運び,そのまま隣で眠ったのだ。

 赤みがかった長いまつ毛が,ときおりぴくりと震える。自分の胸に頬をぴったりとつけて,幸せそうに眠っている。

(可愛いなあ。こんなによく眠って。)

 心身の底から,じわりと何かが温まるような。この感覚は,何だろうか。まるで,ゆっくりと何かが解れていくような。

(この感覚は,嫌いじゃない。)

 幼子の眠気につられるように,寝顔を見つめる少年もまた瞼が重くなる。彼は,そのまま妹を抱きしめるようにして,眠ってしまったのであった。


 後日のことである。幼い妹が,兄に添い寝を頼み込んでいた。枕を両手で抱え,フリルたっぷりの白い寝間着姿で兄の寝室のソファに居座り,どうにも自分の部屋に戻りそうにない。


「あの,お兄様さえ嫌じゃなかったら,夜の間一緒に傍で眠ってもいいかしら。お兄様の傍にいると,すごく安心できるんだもの。」

 猫の瞳のような様なぱっちりした目元に,うっすら涙を浮かべながらお願いする妹を見た兄は,つい抱きしめそうになった。


 だがしかし,兄は節度を教えねばならなかった。

「僕は別に構わないよ。でも,メアリにまた「お行儀がなってない」って注意されるかもしれない。アルテは五歳だけれども,もう立派なレディだ。一人でも,眠れるね?」

(そう言わないと,この子のためにならないから。)

 だが注意された妹は,寂しそうに枕を抱えながら,しゅんと俯き可愛らしい反抗をした。

「お母さまが生きていた時は,いつも一緒に眠ってもらったの。時たま,隣でお父様も眠っていたこともあったわ。」

 そう言えば,そんなこともあった気がするとアルテは思い出していた。


 彼は,なるほど、と一人頷いた。

(アルテの両親は評判の円満夫婦であったが,生まれた子は長年彼女一人だけだった。周囲からは折り合いの合わない属性出身同士の結婚故,子ができ辛いのだと皮肉る声もあったらしいが,なんのことはない。ただ,タイミングを逃していただけだのだろう。)

こういう大人の部分まですぐに悟ってしまうあたり,この少年は頭の回転が速い。


「メアリには,「お母さまがいなくて寂しいから,一人で眠れるようになるまで夜はお兄様のお部屋にいたい」ってお願いしたら,「仕方ありませんね」て言ってくれたわ。」

 真剣な瞳で,出来たばかりの大切な家族を見つめながらアルテミスは訴えた。

「私,あのベッドの隅っこで良いの。お行儀よくしているから,寝ぼけて落っこちたりしないわ。お兄さまが眠っているの,決して邪魔しないから。」

 と,小さな人差し指でベッドの端を勢いよく指さす。

(メアリの奴め。泣きつかれたな。)


 この世界では,子供も大人と同様と考えられていた。故に,幼いころから紳士淑女のしつけや教育も行われる。

(妹が,血のほとんど繋がらない兄のベッドで一緒に眠る習慣は,世間体的に見てどうなのだろう。)

 妹思いの兄は,使用人が余計な噂をしないように,根回しを今のうちからしておかなければと思った。彼は,父のことがあるせいか,無意識のうちにひどく男女の関係性に心を砕くようになっていた。悲しい性である。

(だが,この子はまだ幼い。それに親を亡くして一年と経っていない傷心の傷は,なかなか癒えないだろう。自分も幼い頃に母を亡くした者同士,心細い気持ちは分からないでもない。それに,妹の我が儘に付き合うのも,彼女がもう少し大きくなれば無くなることだ。)


 それは、何故か彼を寂しい気持ちにさせた。

「少しだけだぞ。大きくなったら,きちんと自分の部屋で眠りなさい。」

 レオナルドは,敢えてそうしぶしぶ了承したように伝えた。その声を聴いた途端にアルテは,嬉しそうに兄のベッドに飛び込む。ぴょこんと顔を出し,シーツの端から目を少しだけ覗かせながら,兄がやって来るのをじっと待った。そのあどけない様子が,ひどく愛おしい。

「じゃあ,おやすみ,アルテ。」

 少し離れた所で眠る妹に優しく声をかけて,ふっと燭台の火を消す。

 背を向けて寝ていると,しばらくしてそっと妹が近づく気配がした。そのまま,彼女は額を兄の背にぴったりとくっつけて,すうすうと寝息を立てて眠り込んでしまった。レオナルドは,この暖かなひと時を,大切にしようと思った。


 アルテミスは,兄の広い背中に額を付けながら思った。

(一日は,二十四時間しかないのだもの。私はいつ死ぬか分からないし,せめて眠る間だけでも,誰かのそばにいたいわ。人生の三分の一は睡眠と,聞いたことがある。それなら,寿命が短いかもしれない今の私にとって,少しでも家族の傍で過ごすことができる時間があれば、活用したいじゃない。)

 もう,同じ轍は決して踏まない。


 兄は,知らなかった。妹がまさか,彼が寄宿学校に行く年になる十六歳の秋に至るまでの約三年間,ほぼ毎晩添い寝に押し掛けてくることになるなんて。


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