母の棺と一大決心
「きゃあああああああ!!!!」
文字通り絶叫しながらアルテミスは飛び起きた。自分の出した悲鳴の聞こえ方で,己は「前世」ではない「新しい世界」の住民であると思い知った。
(そう、今の自分は,違う世界にいるのだった。だから,今夢見たことは現実なのは間違いない。)
さらに、この走馬灯のような最後を思い出す前に幼女は「自称神」に出会い,恐ろしいご宣託を受けていることまで思い出した。幼女は,先ほどとは全く違う意味で再び悲鳴をあげた。
「ぎゃああああああああ!!!」
彼女の悲鳴を聞きつけ,この家の使用人らしき女性が扉をノックし入ってきた。傍の部屋で,失神していた主人の覚醒を待って控えていたらしい。近づいてきた黒いメイド服を着た少女は,まだあどけない中学生位の年頃の少女に見えた。
「お嬢様,やっとお目が覚めになりましたか。良かった。ご気分は,如何ですか?どこも,痛くは御座いませんか?私は,心配で心配で。」
少女は,小さな鼻に可愛らしい薄茶色のそばかすが浮いた,人懐っこそうな丸顔を心配そうに歪めている。くりくりの茶色い瞳が涙目で,じっとこちらを見つめていた。
少女の顔を見返しながら,幼女は徐々に今自分が置かれている状況を把握しようとしていた。目覚めた部屋は自分の屋敷の自室で,馬が暴走した事故に巻き込まれ失神した際に,誰かが彼女を家まで送り届けてくれたようだった。
(そうだ。事故。あの後,どうなったのだろう。お母さまは?)
「メアリ,お母さまは大丈夫かしら。馬に蹴られてしまったの。お母さま,一体どこにいらっしゃるの?」
(そうだ,この子の名前はメアリと言った。私は、前世の記憶のみならず,この世界で今まで生きてきた記憶も同時に保有しているのね。)
今にも泣き出しそうにしていたメアリの顔が,急に暗く無表情なものになった。そのまま気まずい沈黙と共に「すっ」と視線を逸らす。
(まさか,そんな。)
幼女が更に質問しようとした時,二十台後半の高級そうな衣服に身を包んだ一人の男性が,柔らかい物腰でゆったり部屋に入ってきた。
「今までありがとうね,メアリ。頼むから,このまま席を外してくれないか。後の説明は,私がしよう。」
「はい」とメアリはこちらに向かって泣きそうな表情で,一度ちょこんとお辞儀をすると部屋から逃げるように消えてしまった。
男性が,いや父が傍の椅子に腰かけて,ベッドで横になったままの自分の左手を取りゆっくりと握る。大きくてひやりとした冷たい手だった。まるで先ほどまで,ずっとどこか遠くの外に出ていたような手をしていた。
「私の可愛いアルテ,落ち着いて聞いておくれ。お前を愛したお母さまはね,今日天へと召されてしまったのだよ。」
(天に,召された。つまり,死んでしまったということか。無理もない。だって私が最後に見たあの姿は,どう見ても手遅れだったからだ。)
父は、一言一言、小さな娘に対し言い聞かせるように,ゆっくりと事故の話と,明後日母親の葬儀があるということを教えてくれた。
幼女は,母が自分の目の前で死んでしまった悲しい出来事である筈なのに,なぜか涙が一滴も出なかった。現実味の無さに,ただただ,呆然としていた。
放心状態の日々は早く,気付けば母の葬儀が幼女の目の前で始まっていた。喪服の全身黒いワンピースは,彼女も気が付かない間に,メアリが着せてくれていたようだ。
この世界にも,宗教があった。キリスト教の神父らしき,白い衣装を着た穏やかそうな男性が,母の亡骸眠る鉄製の棺の前で何事かを優しく唱える。
そして母は,ゆっくりと地面深くに移されていった。
周囲の参列者達の手で,少しずつ,だが確実に母の上に土が被せられていく。
(あの,優しかったお母さまが,だんだんと埋もれて見えなくなってゆく。)
この世界は,土葬が主流なのかと全く場違いなことを思いながら,アルテは母の棺が見えなくなった後も,死んだ魚のような目でずっと見つめ続けていた。
アルテは,ふらふらと母の眠る穴の淵に限りなく近づき,喪服にべっとり土がつくのも全く気にしないまま両膝をついた。
そして,そのまま両手を前につき,深く,深く頭を下げた。その姿は、まるで己を庇ったために犠牲となった母に懺悔するかのようだった。
(ごめんなさい。私のせいで。本当にごめんなさい。私が,あの時飛び出ていなければ。)
幼い幼女が,死んだ母の前で泣きもせずにただひたすら地面に伏している光景は,ひどく周りの憐れみを誘った。彼女の様子を見ていた親族の一人が,ハンカチを目に押し当てすすり泣きながらしんみりと呟く。
「お母さまがお亡くなりになって,さぞや恋しい思いをされていますでしょうに。ほら,お嬢様をごらんなさい。あんなにひどくやつれてしまって。本当に可愛そうに。」
(違うわ,これは,ただの自己嫌悪よ。私は,今,自分のせいで家族を無くしてしまったという自己嫌悪感に陥っているの。)
アルテは、鉄の棺の蓋で今は見えない母の顔があるであろう場所を見つめ,心に深く誓った。
(母の分まで,私は絶対に生き抜いて見せる。運命なんて,クソくらえよ。)
小さな爪の間に土が入るのも気にしないほど地面を握り,そのまま食い込むほどに,強く強く両手を握りしめた。事故から生き延びた娘は,命を懸けて身代わりに死んでしまった哀れな母が安らかに眠る地面に,そっと優しく口づけをした。