前世の記憶と後悔と
二十一世紀の日本、首都東京にて。
橋本文代は,今日も定時の十八時になる五分前にはパソコンをシャットダウンしており,いそいそと帰り支度を始めていた。文代は,国立大学に入学後,潰しが効くという理由で情報系の科目を選択した。大学卒業後,彼女は有能なプログラマとして約七年間社会人生活を送っている。高校卒業後と共に親元を離れているため,一人暮らし生活は十年を超えた。
ちなみに,結婚していないばかりか彼氏すらもおらず,三十歳手前に差し掛かった今になっても,独身であることに全く焦らないでいた。
今彼女が就いている職業は,一人でも定年まで食っていけるだけの環境や年収はあったし,ある程度の経験を積んだ今となっては就業時間以内に振り分けられた作業をこなすことが負担なくできるようになっていたからだ。
社会人になってから,文代は空いた時間があればプログラムの技術研鑽と資格収得に費やした。友人や家族とは今時テレビ電話があるから,用がある時に好きなだけ顔を見ながら会話できるし,わざわざ直接会いに行くための移動時間と,それにかけるコストが勿体無いと思っていた。親しい人に会わなくても、特段寂しさも感じられなかった。必要最低限のプライベートだったおかげで、他の同期や年上の職員よりも,より案件単価が高く高収入につながる仕事ができていると自負している。
(プログラマが,ブラック職種と呼ばれたのは,もう昔の話だ。)
と,彼女は思う。実際、労働条件は制度の不十分な十数年前に比べたら各段に向上している。
それにもし万が一,会社から無理難題を突き付けられたら他のIT会社にさっさと転職しようと考えている。今の時代,経験と貴重な資格を複数持つプログラマは会社の宝である。
(あの良く怒鳴る知能の低そうなアホ上司も,それだけは痛い程分かっているのだろう。笑顔でお互いに,WIN-WINな関係で今後も過ごしていきたいものである。まあ人間,要領良くやれば最低限の時間で最高の仕事ができるのだよ。)
そう心の中でせせら笑いながら,就業時間を過ぎても青い顔をしてパソコンに向かっている同期達に向かい,
「お先に失礼します。」
と爽やかに一声かけるが早く,使い慣れたボディバッグを左肩にひょいと引っ掛け,一人悠々と職場を出た。
七月下旬とあって,夕方を過ぎてもまだ日の明るい道だった。この穏やかな空気が,普段は尖っている彼女の気も緩ませ,ふわりとした幸せな気分に酔わせた。
(ああ,定時に帰れることの素晴らしき優越感よ。時間外労働など,全くもって寿命の薄利多売だな。この,晴れやかな夕日を拝めない私以外の同期が,本当に哀れで仕方ないよ。ふふっ。笑いが止まらない。)
この気のゆるみが,後に色々な「事故」に繋がったのではないかと,彼女は後になって幾度も後悔する。
都会では当然の事だが,通勤方法は電車を用いる。そして彼女が普段利用する路線が,いつものことながら遅延していた。今日の遅延理由は,突発的な人身事故が起きたとのことだった。
(全く,本当に迷惑な話だな。自分が電車に飛び込むことで,その後どんな事が起きるのか,想像しないのだろうか。管理会社から親族に高額な賠償などふっかけられ,裁判でも起こされてみろ。自分の死を悼んでくれるような心の余裕を,自分のせいで取り上げるようなものだ。死んだ後に残るバラバラになった体の後処理だってあるだろうに。何故,死ぬ前にもう一度死んだ後のことを考えないのだろう。これだから,すぐ感情にひた走る周りが見えない人間は,嫌なんだ。)
ホームの点字ブロック少し手前の場所にいた彼女は、はあ,と深いため息をつきながら手持ち無沙汰を解消しようとバッグからスマホを取り出した。画面を開いてすぐに見えた,親からの着電は直ぐに無視して,無料Wi-Fiを利用しネットを開いた。自分が,隙間時間に合間読んでいたネット小説の続きを適当に読み始める。
(どうせ、また実家に帰って来いという催促の電話だろう。いつも顔も声も提供しているのに,直接姿を見せないと気が済まないなんて,全く仕方のない親だなあ。まあ,電話は後で帰宅後にでも掛け直せば良いか。)
普段の彼女であれば,スマホは電車に入ってから取り出すようにしていた。前方のホームに立っていると悪意で急に路線へ突き落とされるという事故があると聞いてから,一番前で待つ時は,必ず両手を空けて,何が起きてもすぐ対応できるようにしていたからだ。
しかし,当時大変調子をこいていた彼女は,いつになく気が緩んでいた。
だから,気が付かなかったのだ。赤ら顔でふらふらしている巨体の中年男性が,ゆっくりと自分に向かって近づいて来ることを。
顔を下に向けた状態で手元近くにあるスマホに集中していると,周囲の視界が非常に狭くなる。それ故,見ている画面が急にふっと暗くなった時も,自分が普段設定している節電モードのせいだろうと全く気にも留めなかった。
次の瞬間、どさりという鈍い音と共に男が左斜め前に倒れこみ,男の調度前にいた文代はそのまま一緒に線路へごろごろと転げ落ちた。
(え?はい?)
彼女の全身が,落下による衝撃で脈打つように痛い。
(当然だ。線路からプラットホームまで120㎝はあるのだから。この高さから受け身の全く取れていない無い体勢で,頭から転がり落ちてみろ。)
急な怪我により思考が乱されていた彼女は,恐ろしいことに気が付いた。
(いや待て,確か代行の電車が,そろそろ来る時間じゃないか?)
彼女の全身から,嫌な汗が出た。切羽詰まった声で,回りに大声で助けを求める。
「誰か!非常ボタンを押してください!早く!!」
彼女の声に我に返った,余りにも急な出来事で固まっていたプラットホームの上に居る人たちが,慌てた様子で近くにあった赤いボタンに我先にと指を突っ込む。強烈なブザー音が辺りに響き渡った。
(ひとまずは,これでよしと。いや,良くない!自分の身がやばい!!)
辺りを素早く見渡すと,彼女が今倒れている場所から約二十メートル先に,緊急避難用の窪みがあることが分かった。
(あそこに,逃げないと…。早くしないと手遅れになる。)
急いで避難しようと,じんじん痛む足を引きずりながら立ち上がる。
次の瞬間,がしりと,右足首の踝辺りを握りこまれるように掴まれる気持ち悪い感触があった。
「頼む…。助けてくれえ…。」
(泥酔しているばかりか,顔面血だらけで周りが全く見えていない愚かな男が,自業自得の怪我をしたことで溺れ藁をも掴む思いで見つけてしまったらしい。寄りにもよって,私の太い右足を。)
文代は,ふざけるなとばかりに怒気を発した。
「お願いです!離してください!止めて!触らないで!嫌!痴漢!」
このぶよぶよの贅肉だらけの腕と手に,どんな力があるのかと驚くほど,弱った男の握力は逞しく強かった。
(何で,こんなキモイ奴と一緒に,電車に轢かれて心中しないといけないのよ!冗談じゃないわ!)
「嫌!勝手に巻き込んだのはそっちでしょう!あなたと違って,私は絶対に死にたくない!
文代は,必死の思いで叫びながら,それでも握りしめる男の手の甲を,挫き腫れた左足で思い切り蹴り飛ばし突き放した。
その拍子に,彼女は後ろを振り返ってしまった。ブザーが鳴っているにも関わらず,恐ろしい速度で動く車両が,つい百メートル手前まで来ていることが分かった。
全身打撲の彼女は,それでも少しずつ,前へ前へと足を引きずりながら進んだ。
だが,車両と彼女の距離が縮まる方が何倍も速かったようだ。気付けば電車は,彼女の背後にまで迫っていた。
どん,と何か大きな固いものが自分に強く当たる衝撃がした。
そして,ぽおん,と自分の体が前に向かって勢いよく撥ね飛ばされた。
倒れこんだその直後,重力の塊の線が,いくつも自分の上を切り刻む様に通り過ぎるのを感じて。
声は,出なかった。ただただ,痛かった。視界の端が真っ赤に染まる。
彼女の記憶は,そこで途切れた。