家族の契りと影潜み
調度同じころ、アルテを主とする小さな狼は屋敷玄関に寝そべっていた。狼は、ベルと名付けられた。ベルは、幼女の懐の中でのんびりと欠伸をしていた時を思い出した。子狼にも、ある程度の知能はあった。アルテの血液を摂取し、知能が人よりに成長したせいもある。
(長さまはすごく良い方だ。あの、僕を追いかけていた男とは違うんだ。僕は、あの子を長様としてお仕えしなければいけない。それなのに、長様は僕を置いてどこかへいってしまった。僕は、また、一人ぽっちになってしまった。)
ベルの体が、固く硬直した。この屋敷に来る前の事を思い出していたからである。
約百年前、黒狼族の群れを含めた獣人達に向かって天使が襲撃した。天使は、怪我を修復させる波長の光と、触れたものを白く灰に「浄化」させてしまう波長の、二種類の光が出せた。天使は六属性の中で唯一、どの世界の空中からでも”揺らぎの間”を用いて地に降り立つことができる存在であった。
獣人族は、同族の中でも家族など強い結びつきを持っている者同士であれば、影に潜み合うことができたり、辺りの木や草の影にも潜むことができた。故に、兄弟姉妹同士で影に潜り込み合い、遊ぶことができた。
天使達が襲来してきた日も、ベルは調度兄の影に潜んでいた。ベルと違い、既に兄は人の言葉を話すことができていた。その兄が、ベルに向かって突然影から出るように警告し、彼らは皆身近の草木の影に身を潜ませたのであった。
(あの日、天使たちが降りてきた。だから僕は最初家族の影に入り込んでいたけれど、やっぱりそれじゃ危ないということで、銘々が遠く近くの茂みの影に入り込み身を潜め合ったんだった。)
ベルが、なにもない宙に向かって牙を向いた。
(あの日。あの日だ。そう、あの日。僕を残して、家族みんなが殺されてしまった日。)
天使達は、全身から白い光を放ちながら、さあと獣の丘へと降り立った。
「以前から、この丘に住むモノ達には、不快感を抱いていました。」と、天使の一人が話した。
「今日は、特に良く晴れた爽やかな日。獣狩りには、調度良い日ですね。」と他の天使が話した。
「それっ」と、トスッと白い光の矢が振り下ろされた。「ギャッ!」という声を上げて、数匹の羊の群れが木影からはい出し、そして一瞬の内に白い灰と化した。
天使の発する真白き光は、獣人族達の影を他の影から浮かび上がらせることができる作用を持つ。故に、彼らがどこに逃げていても無駄だった。しかし、他に逃げる場所も無く、ベルを含めた黒狼族の群れも、周りの木の影や草の影に溶け込み、じっと身を潜めていた。
しかし、天使たちは草木から浮かび上がる獣の影を、決して見逃しはしなかった。
トスッ。姉が殺された。トスッ。弟が殺された。ザクリ。母が死んだ。グサリ。父が殺された。他にもいた兄弟姉妹や他の家族達の影の繋がりが、一本、また一本と途切れていくのが分かった。
ベルは、生き物を殺すのが恐ろしいと感じる、肉食獣のくせに心優しい気持ちを持った繊細な狼だった。
故にベルは家族の中で、最も地位が低かった。生き物を殺すこともできず、親兄弟が捉えてきた獲物を皆で食事をする順番も、彼が一番最後だった。そのせいか彼は、とても影の薄い存在であった。己が持つ影も薄く、故に天使が間近に現れた時も全く気付かれなかったのだ。
ベルはそのまま潜み続けた。いつまでも、いつまでも草木の影にじっと潜んでいた。そのまま、月日が経ち去った。彼は、いつからか時間間隔もおぼろげになっていた。
しかし、腹時計は確かだった。彼は必要最低限の鼠等の小動物の獣人を狩り、彼らのガラス玉のようになった死んだ目を余り見ないようにしながら丸ごと食べていた。そして、満たされぬ腹を抱えながら、恐怖と不安に駆られ再び影に潜み冬眠のようにまどろむ日を、かれこれ百年続けていたのである。家族のいない、冷たく暗い影の中に。
(長様は、ここで「待て」と言われた。だから、僕はここでずっと待ち続けよう。そうだ。この長様のいたお屋敷の影にでも潜みながら、僕はいつまでも、いつまでだって待ち続けるんだ。)
蜂蜜色の瞳が潤んだ。そこから流れた塩辛い水を表す言葉を、悲しいかな、ベルは知らなかった。