お父様と精霊王
アルテの住む屋敷地下には、一部のものしか知らない部屋があった。いわゆる拷問部屋である。壁の鎖につながれた男が、ぶるりと震えて目をさます。目の前に、高級そうな衣服に身を包んだ男性が立っていた。
アーデロイド公爵家当主が、柔らかな物腰で繋がれたままの狩人に一礼し、朗らかな笑顔で声をかけた。
「やあ。お目覚めですか。お待ちしていましたよ。」
事実、彼は待ちわびていた。先ほどまで、愛する娘に狼藉を働いた愚かなチンピラをどうしてくれようかと、公爵地深くに存在する地下水脈の水中で、怒りに燃え滾っていたからだ。
「あんた、誰だよ。どうして俺はここにいる。」
「ここはアーデロイドの地です。私は、ここの公爵を務めています。」
「アーデロイドだと?なんでそんな南に出ちまったんだ。俺は獣の丘で楽しく狩りをしていたのに。」
(狩り・・・狩りねえ・・・。私の弟が丹精込めて施行した協定を破るなんて。あなたみたいな人がいるから、いつまでも争いごとが終わらないんですよ。)
「一体、何をお狩りになっていたんですか?身につけられていた服装からするに、あなたは植物採取ではなく狩猟をされていたようですね。」
そう言われ、男はやっと自分が今置かれている状況に気が付いた。遅すぎである。
「なんで俺は裸なんだ!!いや待て。俺は確か火に包まれて。」
(手ごろな金になりそうな獣人を追い回していたら、あの犬がひょっこり出てきやがったのが運の尽きだな。あれだけの黒色を持つ毛皮は中々無いのに。捌いて売れば金貨300枚にはなりそうだった。賭博の借金も返せたろうし、久しぶりに女を抱けるかと思っていたのに。あのクソガキが横取りしていきやがった。一体どこのギルドのガキだ。最近じゃあ、うぜえ法律のせいで満足に狩りにもいけないのに、身なりのいい服装なんかしやがって。)
男は、幼少期劣悪な家庭環境に生まれた。当時12歳の少年にとって家出するだけの理由はあった。家出後間もなく、ヤクザ紛いのチンピラ集団である私的ギルド「炎の誓い」に拾われたのだ。貴族名もコネも強い魔力を持つ者もいない,ただの社会底辺者どもの集まりである。
現在の聖ファルキア王国に、私的ギルドは存在しない。およそ百年前、三世界の頂点が不可侵条約を結んだためである。
しかし、結んだばかりの条約程脆い楔は無く事実上無名の存在と化していた。だが、当代の宰相により条約に細かな施行規則が設けられた。今まで自由に他の世界で狩りをしていた者達にとっては、非常に苦しい生活を送らざるを得なくなった訳である。
公式ギルドも存在するが、まず申請時の手続きが面倒である上、身分確認を取られた挙句、生物毎に猟期が決まっているような状態である。
故に、他の世界で猟を行えるのは一部の者に限られてしまったのである。
チンピラは、怒りの余り口走ってしまった。
「あの生意気こいてたクソガキに、おまんまとられ」
次の瞬間、ぱしゅ、と男の全身がミンチになってはじけ飛ぶ。骨まで粉々になるどころか、分子レベルまで散ってしまった。瞬殺された男が含んでいた大量の体液が、滝の如く当主の全身に降り注ぐ。
部屋の外から、やれやれといった様子でダヤンが出てきた。腕にかけていた厚手のバスタオルを当主の頭にふわりと被せ、髪から滴る体液を優しくふき取りつつ、いつものように窘めた。
「旦那様。また破裂させておしまいになったのですか?じいが、旦那様がお坊ちゃまであった時からいつも申し上げておりますでしょう。「人の話は、最後まで聞きなさい」と。それに、どうして汚水をお除けにならなかったのですか?風邪をお召しになる前に、早くお着換えのご準備をいたしませんと。」
「いや、いいよ、いらない。風呂でまるごと洗ってくるから。悪いけど、ちょっと一人にしてくれ。今は、誰の顔も見たくないんだ。」
そう言うと、ギルバートはふらふらと部屋から出て、滴る汚水が地面を汚さないよう浮かせつつ、下へと続く階段を降りた。階段の先には、大きな湖があった。地下深くの水脈へと通じる入り口である。どこまでも青く澄んだ湖の畔まで歩み寄ると、松明を入り口に差した。
次の瞬間、貴族は固い地盤をがんがん踏み鳴らしながら叫んだ。
「くそがあああああ!!!」
ざっぱ~ん!!と湖面から水が人口の滝の如く吹き上がり、天井高くぶつかってしぶきをあげる。
「くそが!」「くそが!」「くそがあ!」
「くそ」と一度言うたびに、新しい水が次々吹き上がり、津波となる前に再び水中へと押し込められた。
当主はそのままどぼんと湖に身を投げて、水脈深くへ降りて行く。体中の汚水が、清らかな冷水によって洗い流されていく。
(・・・今日は、水温18度の気分だ。)
息継ぎは、必要なかった。血管内にある水も今こうして潜っている周りの水も、彼にとって大差は無い。必要な時に血中に、水を介して必要なものを送り込めば良い話である。島深くにある広大な地下水脈は、暗黒に包まれていた。だが、親和性を尖らせれば島に存在する全ての水の位置が分かる彼に、光など不要であった。硬い岩底から、ごぼごぼと源泉と泡が吹き上がっている。彼はふわりと降り立つと、もう一度、大きく叫んだ。
「こんちくしょうがああ!!!」
聖ファルキア王国に隅々まで巡らされた水路に、新鮮な水が行きわたった。国中にある井戸は、泥浚いの必要がない。定期的に決まった時間がくると、井戸から水が吹き上がり溜まった土砂や汚れを洗い流してくれるからだ。
「あれ?今日はいつもより早いわね?」
と豚に昨日の残飯をやっていたかみさんが、農業用の井戸から吹き上がる水に気が付き首を傾げた。
「なんで!なんで僕はアルテの元にいけないんだ!!あのクソ野郎が愛しの娘に近づいていた時、割っていれば良かったわ!!」
(アルテが驚くだろうから様子を伺っていたのにあんの野郎。一万回破裂させてやりたい。)
怒りでわなわな震える彼の背後に、力強い渦が巻き起こった。中から一人の華奢な青年が顔を出し、つるりと飛び出す。怒る領主を背中からそっと抱きしめて顔を埋めた。銀色の長髪が、岩盤から湧く泡に揺らめき立っている。
「だめだよ、これ以上水を増やしてしまったら。君の怒りは、この僕が全て受け止めて上げるから。」
「すまない、ルフィーリエ。今日は歯止めが効きそうにもない。」
ギルバートは、そういうと着ていた上半身の衣服を全て水で押し流し、そのまま青年を岩盤に押し倒した。ぴったりと全身を這わせつつ、青年の桜色の唇を乱暴に貪る。
「ん!!」
人と精霊の間には子ができない。肉の身持たない精霊は、子を作るための器が存在しないのだ。
精霊王は、全ての精霊たちの父であり母である。王の持つ元素が一定量溜まれば、イルヴァタール内に多数ある水源や植物等を介して生まれ出てくる。
ギルバートの契約精霊は、水の精霊王だった。彼の途方もない元素の暴発を受け止めきれるのは、王ただ一人しかいない。
精霊は、契約相手から発する元素を優先的に頂戴できる。そして、多量の受渡は接触が濃厚であるほど可能なのであった。
「ちょっと待って!いつもより激しすぎる!」
あまりに多量の元素を口内から流し込まれて、精霊王はびくりと頬を赤らめた。
(愛し子の熱いモノが、僕の中に流れてくる。何て冷たく、清らかな味をしているんだろう。僕がかつて愛した人と、同じ味がする。)
重ねた肌から、掌から、元素が全身に沁みとおってゆく。王は、茶色くふわりとした髪に手を差し入れた。そのまま、銀色の鱗生えるほっそりした腕を相手の背中にからませて、少しでも多く受け入れようと強く抱きしめた。
ギルバートの目から、熱い水が流れ出た。その水はすぐに周りの水に溶け込んだ。彼は小さい頃から、こうして涙を周りの者に見せないよう工夫していたのである。
(私の持つすべてを渡せたら、ただの人になれるのだろうか。)
がぶり、と王の細首に歯を立てながらギルバートは思い悩んだ。
(そうしたら何も気にせず、日の当たる家族の元へ行けるのに。)
「ギ、ギルバート…僕、ぼく、もう」
(満ちちゃう。)
イルヴァタール各地の湖で大きな水しぶきが上がるとともに、幼い妖精達がわらわらと姿を
現わした。