怪我した子犬と大火事と
アルテミスのいる方向から遠ざかるように、傷ついた子犬がそのままよたよた逃げていく。その切羽詰まった様子に、彼女は慌てて左手を子犬に向け魔法を行使した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
と彼女が開いた左手をぐっと握った瞬間、子犬の周りにふわりと風が生じ、そのまま幼女の胸元へと運ばれていった。
(この兄さまからもらった指輪も、大分使いこなせるようになったわね。最初はうんともすんとも言わないものだから、悪いけど不良品かと思ったわ。)
幼女は最初、「自分の目で見なければ信じない・創造性のかけらもない」自身の貧相な感性を棚上げして、機能不良の原因をすべて贈り物のせいにしていた。
「いや!やめて!はなして!こわい!」
子犬は、その体長30センチほどの小柄な体から想像もつかないような大きな悲鳴をあげ、逃れようともだえながら抑え込む幼女の右手に何度も噛みついた。
(某アニメの小動物だって一度しか主人公を噛まなかったのに、なんで血だらけになるまで噛まれ続けなければいけないの?)
「いたい!やめて!落ち着いて!どうしたの?何があったの?ねえってば。」
幼女は、自分の思いがけない大量出血と犬の怪我の余りのひどさに、普段落ち着いた大人の対応も吹っ飛んでしまっていた。
「いたいの!あしがいたいの!」
「こっちだって右手が痛いわよ!」
そのままおろおろとしていると、40台半ば程の猟師風でがさつそうな男性が、乱暴に茂みを分けて近づいてくる。
「ありゃあ。さっきまで獣の丘にいたのに、どこだここ?それよりも。」
と、いかにも「みいつけた、」という様子でアルテの腕に抱えられた子犬を見た。
「おじょうちゃん、そのわんちゃんはねえ、俺の飼い犬なんだ。良い子だからこちらにちょうだい?」
(虐待しておいて、よう言うわ。)
「いやよ!どうせろくでもない事するんでしょ!」
「…いい子にしねえと犬もろともやっちまうぞ。」
急に低く言われたどすのきいた声に、アルテの全身が、ぞおっとした。体が、恐怖の余り動かせない。
「いや!はなして!」
犬がもがいたことで我に返った幼女は、そのままその体をぐるんと仰向かせて覆いかぶさるように顔を近づけながら目を合わせ、一喝した。
「だまらっしゃい!待て!ま~つ~の!!おい、待たんかい、こら。じっとしていないと、あんたを守れないでしょうが!」
8歳の子とは思えない低くどすの効いた命令に、こちらを見上げる黄色い瞳が「きゅう?」と動き、先ほどまでの様子はどこへやら急に大人しくなってしまった。
(よ~し、よしよし。躾のない犬なんて、首を押さえつけて腹を向け、上から睨みつければいちころよ。)
「話してるふりなんざどうでもいいから、早くその皮わたせや!刺すぞ!」
男が、睨みをきかせて叫びながら歩み寄り、幼女の腕から獲物を取り上げようとした。幼女は風魔法でひょい、と2メートルほど後ずさった。
(はあ?話してるじゃない。いや、それよりも。)
幼女は、ふつふつと内側から湧き上がる怒りを、抑え込めずにいた。
「あんたのやろうとしていること、分かってるんだからね。この子の皮、生きたまま剥ごうとしてたんでしょ!」
(お前、ガキのくせにもうそんなことやらされてんのか。)
男にも,生き物の皮を剥ぐことが,恐ろしい時期があったのだ。
だが,悲しいかな。この世界は,人間から広く妖精に至るまで,ヒエラルキー制度で満ち溢れていた。底辺で暮らす彼は、次第に生き物を慈しむ心を人間社会によって奪われていったのである。無機質な心と化した男は,皮肉にも犬のような凶暴性を秘めた哀れな成人に育っていったのである。
「ほう?剥がし方知ってんのか。どこのギルドのガキだか知らねえが、人のモン盗ろうとする悪い子にゃあ、躾が必要だなあ、おい悪ガキよお!?」
彼女は、その時、前世の記憶がフラッシュバックしていた。某無料動画でタヌキが生きたまま、商品となる皮をゆっくりと剥がされるものだった。全身血まみれのタヌキが痙攣しながら絶命した瞬間の、あの絶望した目が忘れられない。
(殺すにしたって、まだこんなに小さい。それに、硬直した動かない死体よりも、このまま苦しめながら剥がす方がさぞかし楽でしょうねえ?)
艶やかな純黒の毛並みは、素晴らしくしなやかで柔らかく、まさに極上の手触りだった。
「こんな小さい子の皮剥いだって、何も作れないでしょうが!馬鹿なの、あんた。これを乱獲というのよ!!最低野郎!」
怒りに満ちたアルテの腹の中から、何かが踊り狂いながら出てこようとする。
的確過ぎる程の批判に、知能レベルの低い狩人は怒りの余り短刀をとりだし、大きくふりかざした。
「そうやって、暴力で解決しようとする男なんて、屑の極みだわ!!!この人でなし!!」
「お前なんか、お前みたいなやつがいるから!!」
(私は、人間が大嫌いなのよ。)
幼女の心臓が、何かが目覚めるかのようにどくりどくりと大きく拍動する。
(嘘をつく。騙し合う。不要な孤立関係を作る。欲を満たすためならどんな残酷なことでもする人間の、なんと醜いこと。家畜以下だわ!)
「お前みたいな屑、ブロイラーみたいに全身ガスバーナーで焼かれちまえ!!!!」
アルテミスが叫んだ瞬間指輪が音を立てて灰と化すとともに、その言葉に反応するかのように周囲の空気がゆらりと動いた。
次の瞬間、幼女の目の前で、人体発火現象が起きた。気が付けば目の前に高さ5メートルはある炎の塊が存在し、その中で狩人が大声で断末魔を上げていた。