ホットパンツの男
登り始めて二時間半が過ぎた。樹林帯のきつい登り坂を抜けて極楽平と呼ばれる平坦な道にたどり着くと、ようやく私は人心地つくことができた。
その頃にはもう、後ろを歩く笠原君は頭を垂れ、力尽きたかのようなとぼとぼとした足取りとなっていた。前を行く横山君は相変わらずのマイペースでずんずん歩き続け、その姿はすでに豆粒ほどにしか確認できなくなっている。しかし問題は、私の横をピタッとくっついたまま離れない、この井口明という男なのだ。
「ねえねえ、秀夫君」
あろうことかこの男は、昨晩宿で出会ったばかりの私のことを、困ったことに下の名前で馴れ馴れしく呼んだ。
「はぁ?」
疲れていることもあって、私は不機嫌さを隠そうともしない声で振り向いた。そこには直視に耐え難い男の姿があった。
彼は、長袖シャツの上にウィンドブレーカーを着込み、上半身はこの時期の北海道らしい、至極真っ当な姿をしていた。しかしその下半身には真夏の湘南海岸から抜け出してきたような、パッツパツのデニム生地の半ズボンを穿いている。しかもそのホットパンツたるや、一体この中には何が潜んでいるのかと訝しく思わずにはいられないほどその前面が不気味に盛り上がり、そのせいで左右太ももの付け根からは、微妙な隙間より怪しいナニかが覗こうとしている。
そんなものを直視した己の目が何らかの損傷を受けぬうちにと急いで顔を戻した私に、井口のきゃぴきゃぴ声は容赦なく続く。
「ねえねえ、秀夫君はどこの大学に通っているの?」
「えっ……、だ、大学っ?」
「そう、大学」
そう言って私の顔を覗きこもうとする彼の顔はまるで、夢見る乙女のようなその口調とは裏腹に、口の周りから頬にかけて濃い髭剃り跡が青々と残っている。そして濃く太い眉毛と切れ長の目はもはや、さいとう・たかをの描く超A級スナイパーのように劇画チックで、米粒のように小さな瞳はまるで、鋭い眼光を放つかのようだ。
私の通う大学、それは、この井口という男が下宿している小田急線の最寄り駅から、ほんの目と鼻の先にある大学なのであった。そんなことを話せばこの夢見る乙女と化したポンコツ似非デューク東郷は、更なるコミュニケーションを仕掛けてくるに違いない。事実ここまでの道中においても、私の翌日の予定を聞き出した彼は、明日は自分も一緒にそこに行く、などと面倒なことを言い出す始末なのだ。
「え~とね……」
と私は言い淀みつつ、頭の中では適当な出まかせで誤魔化そうと必死に言葉を探した。しかし焦れば焦るほど頭の中から適当な言葉は遠ざかり、その結果、私の口から迸り出たのはこんな答えだった。
「実はね、僕は秩父の山奥にある大学に通っているんだ」
言いながらも私は、おいおい、秩父の山奥に大学なんてあるのかよ~、と自分自身にツッコミを入れた。
「へえ~、秩父の山奥。そんな所まで通ってんだぁ」
だがこの似非ポンコツスナイパーは、疑うことを知らない非常識人だった。
「それでその大学は、何ていう名前なの?」
「えっ……、大学の名前?」
「そう、大学のな・ま・え。教えてよぉ~」
そう言うとデューク・ポンコツは、再び気色の悪い仕草で人差し指を立て、私の腋の下をツンツンしようとした。
ヒョイとその人差し指をよけた私は、更に広がる横山君との距離を縮めるべく、前を目指して小走りになった。
「ね~え、大学の名前、教えてよぉ~」
そんなことは意に介さず、涼しい顔で着いてくるミスター・ホットパンツのしつこさに、前を向いたままやけくそ気味に私は答えた。
「ああ……、海洋生物研究大学っていうんだよ」
「ええっ、海洋生物研究大学?」
その瞬間、へなちょこデュークが上げた訝しげな声に思わず立ち止まった私は、その米粒のような瞳の中に怪しく光る影を見た。さすがに秩父の山奥に海洋生物はないだろう。"与作ヒット記念 ヘイヘイホー木こり育成大学"とでもすれば良かったと、私は己の矛盾点に気付き、逡巡した。
「えっ、いや、あの、その……」
「すごいすごーい! 秀夫君、そんな大学に通ってんだぁー!」何がすごいのかは全く意味不明だが、そう言うと夢見るホットパンツは、「それじゃあ東京に帰ったら、すぐにでも僕のアパートに遊びに来てね」と続けた。
こらこら、何故に秩父の山奥の海洋生物研究大学と、貴様が生息する世田谷のアパートが"それじゃあ"とイコールの関係で結ばれにゃあならんのだ。
しかし私の疑問などどこ吹く風、ミスター・へなちょこはホットパンツのチャックを半分ほど下ろすと、中から平然と名刺入れのようなものを取り出した。
おいこら、貴様ぁー、今それを、どこから取り出したっ? どこにそんなものを仕舞っとるんだぁー!
普段は温厚な私が気狂いしそうになるのも無視して、夢見るポンコツ劇場は更にヒートアップする。
「はい、これ」
「えっ!」
今やもう、"軽犯罪法に抵触スレスレ夢見る乙女変態ポンコツ似非デューク東郷故障中"の名を恣にする井口某は、著しく大気汚染されたホットパンツの中で煮込まれた名刺入れから、一枚の熟成された名刺を取り出し、私に差し出した。
ま、まさかこれを私に、受け取れと言うのか!
愕然と顔を上げた私に熟成ホットパンツは、当然のようにコクンと頷いた。
「はい、どうぞ」
どうぞって、お前……。
少し小走りになったこともあり、額から吹き出た汗がツツツと頬を伝い落ちていく。この時ほど私は、山登りのアイテムの一つである手袋を持参してないことを悔やむことはなかった。そして私はパーキンソン病で苦しむ患者のように、痙攣する左手を恐る恐る前に伸ばすと、剥き出しの親指と人差し指をひくつかせながら汚染された一枚の名刺をいっそ清水の舞台から飛び降りる覚悟でぎこちなく摘まんだ。名刺に触れた瞬間、何か気持ちの悪い生温かな感触が己の全身を貫き、「うひゃっ!」と思わず、ハズキルーペに腰掛けるキャバ嬢のようなか細い悲鳴を洩らしていた。
そんなぐだぐだのポンコツ芝居が演じられているとも知らず、後ろから笠原君が息を切らせながらやって来て、嬉しそうに言った。
「ふぅ~、やっと追い着いた」
そして彼は、この時私が手にしていたメタンガスとPM2.5とで撹拌され、更には口にするのも憚られるグロテスクなアレに包まれながらコトコト煮込んだ熟成名刺を不思議そうな顔で指差した。
「あれ、それは何ですか?」
その瞬間、デューク・ホットパンツの米粒のような瞳が再び鈍い光を放つのを、私は見逃さなかった。
飛んで火に入る夏の虫。そんな不吉な言葉が私の胸に渦巻き、上空では強い北風に煽られたいくつものちぎれ雲が、びゅうびゅうと海に向かって吹き飛んでいた。