古い学生手帳
学生時代から一人旅が好きだった私は、これまでに日本のあちこちを旅してきた。といっても特別に興味のある名所旧跡、神社仏閣の類がある訳ではない。思い出されるのは鄙びた温泉で湯に浸かり、風呂上がりのビールで酔っ払い、だらしなく駐車場に停めた車の中で寝てしまう、そんな自堕落な己の姿ばかりだ。
結局私は、本当に旅が好きだったのか? それは今でもよく分からない。せっかくまとまった休みが取れたというのに、大してすることもない。すると、あまり人の来ないような場所に一人でふらっと出かけてしまう。まあ、寂しい男の一人旅というのは、そんなものかも知れないが。
三十代も後半になり、当時まだ独り身だった私は、ある時ふと思った。究極の一人旅とは、もしかしたら山登りなのではないのか、と。
それから山のガイドブックを購入した私は、熱に浮かされたように、あちこちの山に登りに行った。かといってそれは、所詮、自堕落な私の一人旅の延長に過ぎないものだから、そんな大層な山を目指した訳ではない。
登山靴に登山ウェア、バックパックといった、登山用の装備品というのはいちいち高価だ。それはまあ、中途半端なものを身に付けたのでは命の危険をさらすことにもなりかねないので、仕方のないことだろう。しかしそれゆえに、私のような、さして情熱もないなんちゃって登山者は、必要最低限の装備だけを揃えて山に行くことになる。
ガイドブックを開き、コースタイムと難易度をチェックして、私のような者でも登れる簡単な日帰りコースのある山を探す。しかしガイドブックに記載されているのは、あくまで登山をする人にとっての目安であり、私のような、山登りなんて小学校の遠足以来だという人が参考にするものではないということを、当時の私は完全に失念していた。そう、私が購入した山のガイドブックとは、日本の百名山を紹介したものだったのだ。
ここなら大丈夫だろう。そう高をくくって軽い気持ちで山に行く。登り始めて三十分で息は上がり、途中の景色を堪能する余裕すらない。浮き石に足を取られてすっ転び、弱気の虫が頭をもたげてもう引き返そうかと振り向けば、私の倍くらいの年齢の御仁が、矍鑠とした足取りで登ってくる。ええい、くそと、何をむきになっているのか、ヨロヨロとした足取りで再び上を目指す。山頂に着く頃には両膝は完全に笑っていて、生まれたての子馬のように立っていることさえ覚束ない。それでも日帰り登山の悲しき宿命で、登ったものは下らなければならない。森林限界を越えたゴツゴツした岩場をこけつまろびつし、呪詛の言葉を吐きながら下りていく。それでも何とか息絶えることなく下山すると、こんな山、二度と来るかこのボケっ! と捨て台詞を吐きながら汗でベトベトになった下着を取り替え、車に乗りこむ。
しかし不思議なもので、そんなこっぴどい目に遭いながらも、しばらくするとまた山に行きたくなり、いそいそと出かけていく。そして再び呪いの言葉を吐きながら帰ってくる。所詮、人間というものは、喉元過ぎれば暑さ忘れる生き物であるらしい。
そんな生活が続いたある日、性懲りもなくまた山のガイドブックを何気なく眺めていると、突然忘れられた記憶が呼び起こされたのである。
あれ? 確かこの山、以前に登ったことがあるぞ。
それは日本百名山の中でも、最果ての地にある山だった。あれはもう二十年、いや二十五年も前のこと。つまりはそう、四半世紀も前の話になるのだ。
気になった私は机の抽斗に眠っている、古い学生手帳を取り出した。中を開くと今ではもう、拡大鏡でもなければ見えないほどのちっちゃな文字で、当時の記録がこと細かに残されていた。特に、一人旅の間は訪れた場所だけでなく、何時何分発の列車に乗ったとか、どこそこのお店で食事をしたとか、ときには旅先で出会った友人の名前や簡単なエピソードまで、几帳面に記されている。
"羅臼岳に登る"
だが肝心のその日に記されていたのは、殴り書きのような文字で書かれた、そんな短い一文だけであった。それは嬉々として綴られている、その前後の日付に記された旅の記録とは不自然なほどに対照的だ。そこにはもしかしたら、筆舌に尽くしがたい不穏な何かがあったのではないかと、勘ぐらずにはいられなかった。
一体この日に、何があったんだろう?
一日かけての羅臼岳登山。季節は秋。道東の、早い紅葉の季節だ。同行者は確か、私を含めて四人だったはず。果たしてこんな大きなイベントを記憶の底から追い出してしまう不穏な何かが、本当にあったのだろうか?
私は甦りつつある記憶の糸を、瞑想に耽る修行僧のごとく目を瞑り、朝の出来事から順々に手繰り寄せていった。そうしていくうちに、苦労して登った山の記憶が少しずつ呼び起こされていった。永遠とも感じた山の道中や、山頂付近のゴツゴツした岩の感覚、更には冷たい北風に煽られ、肌に刺す震えるような寒さまでもが、思い出されていった。そして山を下りた私たちは、冷えた身体を温めるために――。
「ああっ!」
その瞬間、雷に撃たれたような衝撃が私の全身を貫き、思わず声を上げていた。
当時の生々しい、そう、まさに生々しいとしか言い様のない唾棄すべき記憶が、まざまざと甦ってきたのである。そしてその一部始終が、何故に記憶の底から抜け落ちてしまったのか、全ての謎の辻褄が合い、合点がいった。
ああ、何ということだ……。
目を開いた私は温かな血の通う両方の掌をじっと見つめ、そこからすうっと血の気が失せていくのを感じた。
思い出すべきではなかった……。
全ての記憶を取り戻した私は強い後悔の念に駆られた。そして取り戻した記憶は誰にも口外せぬうちに、再び封印してしまうしかないと、強く念じながら手帳を閉じると、再び抽斗の奥深くに仕舞い込んだ。