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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

夢の浮き橋

作者: 有月 晃

 倦怠にまみれた身体を引き擦ってソファに辿り着くと、手足を投げ出した。


 くすんだ緋色の獣皮が上げる抗議の軋りを黙殺して、頭上の映写機プロジェクターを起動させる。控え目な冷却ファンの動作音に耳を傾けていると、やがて深夜のリビングの白壁に神経質そうな細面の男が浮かび上がった。


 オールバックに撫でつけた黒髪、こうべを深く垂れた姿勢で瞑想するかの如くピアノに向き合って演奏する彼の姿は、懺悔室の告解者をいつも連想させる。麻薬禍に痩身を苛まれながらも鍵盤を奏で続けたその両手は、どんな罪科を旋律に吐露しているのか。



 溜息の勢いを借りて、サイドテーブルの上で硬い輝きを湛えている硝子の塊に手を伸ばす。酒精を湛えて淡い琥珀に揺れる杯。一口含むと泥炭とシェリー樽の芳香が綯い交ぜになって吐息を混濁させる。


 ドラム、ベース、そしてピアノのジャズトリオをモノクロームの粒子が描画する。彼らの狭間に行き交う牽制、焦燥、そして抑制の陰に確かな挑発。旋律を重ね合わせた果てに垣間見える昇華を目指して、小刻みの波濤を最高潮へと漸近させてゆく。



 やがて沈黙を奏で始めたピアノに、杯の中身を一息に煽った。頭上を横切る映写機の光帯。捕らわれた埃が微細な光の粒子となって眼球を刺す。消化器系を総舐めに被膜を張った琥珀はいまや背骨を浸潤して脳幹に至り、視界の銀幕すら柔らかな樹液で覆い尽くそうとしている。


 悪夢から醒めようと足掻く幼児とは逆しまに一刻も早く自我を刈り取るべく、瞼の裏で思考の羅列を細切れに裁断する。徒労に没入する私を嘲笑うかの様に、ピアニストの指先に翻弄された意識は不随意の痙攣へ捕らわれていった。



 空疎な意識を微睡の水底に横たえたまま、頭上に揺れる覚醒の湖面に憧れている。それはきっと、物心付いた頃から絶えない私の常態であった。


 その存在を気取ったのは、いつのことだったろうか。ふと瞬きすると、薄暮に縁取られた翳りが私を見下ろしている。さらに幾度か瞬くと、彼女は微かに身じろぎした。



「またこんな所で寝てる」



 数時間振りに鼓膜に届く少し掠れた声音が、暴力的な再認識の波紋となって私の灰色組織に拡散する。冷え切った身体をぎる後ろめたさを悟られまいと、毛足の長い毛布の下から彼女に向かって右腕を伸ばした。栗色の瞳が揺れて、未だ肉付きの薄い身体が滑り込んでくる。


 私の胸に押し付けられる未成熟な肩胛骨。青臭い火照りとやや過剰な湿り気、豊かに波打つ黒髪に鼻先を埋める。たちまち鼻孔を満たす華の薫りが私の末端を惰眠の汚泥にいざない、辿り着いた先はただひたすら見果てぬ荒野だった。


 僅かな地衣類の他には人影どころか生物の気配すら感じられない。ただ斜陽のみが地平の彼方まで染め上げ、傷口から染み出した体液みたいにとどこおっている。


 吹き抜ける乾風に乗って、微かな旋律が耳に届いた。私が耳を傾けるにつれて音圧を増したそれは、やがて茫洋と鳴る鐘音となって天上から降り注ぐ。やがて空の全てがどこまでも低く執拗な郷愁となった。


 堪らず後方を振り仰ぐと小高い丘陵が視界に入る。そうだ。私は彼の丘を目指していた。唐突に得たその認識だけをよすがに一歩を踏み出す。


 渋る四肢を騙し騙し、柔らかな傾斜を踏みしだく。見慣れぬ斑模様の植物に踝が沈んだ。誰の視線もないことが私に自らの視線を意識させ、俄かな昂揚感に歩調が急き立てられる。そうして、夢遊病者の如く引き寄せられた丘の頂上付近。


 地面に深々と穿たれた亀裂の縁に、私は立っていた。夕陽は既に寂光として、背後から低い入射角で亀裂の外縁部に仄かな名残りでしかない。覗き込む私の視線を飲み込み、誘う亀裂の暗部。


 凍えた風が吹き上げ、私の前髪を揺らす。

 何の前触れもなく、耳元で幼い声が鳴った。



「ねぇ、ひざまずいて」



 これまで幾度となく耳にしてきた声音。今から起きる事態への期待が胸部を満たす一方、喉頸は慄きに震え始めている。振り向いてはいけない。


 警鐘を鳴らす理性とは裏腹に、幾度となく反復された動作を拒めない私の上半身。予定調和の瞬間に向かって、顎先が肩越しに背後を振り返ろうとする。うなじに添えられる小さな掌を感じた。視界の隅に細く映り込む銀光。


 喉仏の直下に生まれた鋭い刺点は、そのまま顎下を横切って耳の裏までを異常な滑らかさで舐め上げた。反射的に添えた掌は夥しい体液に滑り、裂口を巧く圧迫出来ない。地面に手を突く。喉に込み上げる血臭に咽ぶ私の肩を、少女が無造作に蹴った。


 均衡を奪われた私は俄かな浮遊感に包まれ、亀裂へと誘われていく。失血によって狭まりつつある視野に夕闇空は遠近感を欠き、酷く緩慢に映る。黄昏に縁取られた少女の輪郭。私を見下ろす瞳の色は見紛うこと無き記憶の翡翠。


 鼻孔の奥に血潮混じりの懐かしさが去来した刹那、大きく痙攣した脚がサイドテーブルを蹴り飛ばした。天板から転げ落ちたロックグラスが床に砕け、琥珀色の液体を撒き散らす。


 無駄とは知りつつ掌で喉元を圧迫する私の腕の中、硬い音に反応した娘が身を捩った。ソファの下には硝子の破片。細腕を掴んで引き寄せるが、矮躯はいまにも滑り落ちようとしている。反射的に片脚を降ろして支えとすると、かかとに鋭い痛み。覚醒と現状認識が僅差で訪れて、自ら締め上げていた喉の苦しさに思わずせる。



 軋む身体を強引に起こして、片脚を引きずりながら娘をベッドへ運んだ。フローリングに点々と赤い痕を落としながら、バスルームへ向かう。踵を観察すると細長い硝子片が硬化した皮膚組織に深く刺し入っていた。その先端を指先で捉えて慎重に、真っ直ぐ引き抜く。


 痛みはそれ程でもない。だが、硝子片の後を追って傷口から滲んだ体液がすぐに溢れ始める。床に並ぶ蒼いモザイクタイルの幾何学的な目地を染めて、排水溝へ流れ込む鮮血。その粘ついた流れを暫時、他人事の様に眺めていた。



 白い錠剤をアルコールで嚥下して、毛布に潜り込む。小さな膨らみを掻き抱いて、心拍に同期してじくりと痛む踵を意識の外に置く。睡魔の薄膜が降りる瞬間を捉えて瞼を閉じた私の頬を、生温い雫が叩いた。不規則にしたたる液体に耳殻が震える。雨が降っているらしい。


 上半身を起こして額に張り付いた髪を手櫛で撫で付けると、掌が細かい砂にまみれた。砂粒の隙間を跳躍する微細な輝き。周囲の異様な明るさに思い当たった。空を仰ぐと、月が飴色の真円である。


 眩しさに目を細めながら首を巡らせる。夜の砂浜で、雨音の背景に波が揺れていた。月明かりに囚われた海面が水平線に白く発光して、海と空の境界を痛々しいまでに主張している。



 砂を撫でる小さな波に素足を濡らしながら、痩身のシルエットが近付いてきた。微かな足音に混ざって、繰り出された薄刃が硬く鳴る。



「私が立ち会うのは、貴方があの子を思う全ての瞬間」


「やはり君か」


「いつまで固執するつもりなの」


「すまない」



 忘却の上にしか成立し得ない無謬むびゅうの幸福ならば、その記憶は恒久的に二律背反を孕まずにはいられない。少女の掌中にある薄く研ぎ上げられた金属塊もその相似の一つ。


 波に濡れた砂粒が、彼女の足裏で奇妙な鳴き声を上げる。戯れに飛び跳ねながら一歩ずつ距離を詰めてくるその姿は、奇妙な体躯の昆虫を連想させた。不均衡に伸びた手足で胴体を小刻みに揺らしたかと思うと、次の瞬間には獲物を抑え込む捕食者のそれが、砂上に膝をついた私の眼前に迫る。


 僅かな脂肪しか纏わない痩身を翻らせて得たなけなしの遠心力が、私の側頭部に叩きつけられる。逆手に握られた波刃をこめかみに受け、夜空を白く横切った細腕の軌跡が幾重にもブレて捉えられた。


 慮外の滑らかさでこめかみに沈んだ刀身を、少女の手首が無造作かつ着実にこじる。無感覚のはずの組織が攪拌の違和感を訴えるが、それを錯覚するのも同じ組織だと思い至り、その滑稽な矛盾に頬が引き攣った。いや、きっといまの私は四肢の全てを引き攣らせている。


 穿たれた裂口から少なからぬ量の生ぬるさが垂れて、顎先から滑り落ちた。いつの間にか私の頬は砂浜に密着していて、少女が馬乗りになっている。自由を得て振り下ろされた鋭利な刃は鎖骨の麓付近から皮膚下の筋組織を断絶させ、気道へ深々と突き立つ。


 鮮血にむせぶ感覚は幾度味わおうとも、鮮やかな苦痛をもたらす。失血が意識を奪うのを待ちわびながら、懐かしい川沿いの道を二人で歩くことにする。私の数歩先を行く、少女の背中。肩口で柔らかく波打つ黒髪が横殴りの斜陽に揺れている。



「パパ、私のこと、どれくらい好き」


「またその質問か」



 幼少期から微笑ましい執拗さで繰り返されてきた問いだが、こちらを振り返らない少女の背中が年齢相応のはにかみを伝える。



「ね、どれくらい」


「世界で一番」


「ほんとに」


「あぁ、ほんとに」



 夕陽に黒く揺れていたはずの髪はいつの間にか黄金色に染まって鷹揚に波打ち、薄闇に色素の薄い肌が浮遊する。途端に抑揚を失った声音に、思わず視界を遮断した。



「私を奪われた貴方に妹を愛せる訳がないでしょう」



 その凛とした佇まいに既視感が咽び泣く。狭間に揺れる人間の矛盾すら理性で裁断しかねない純粋さで、振り返る仕草まで出会った当時のまま、十代の彼女がそこにいた。その瞳が宿す翡翠色は、過去の静けさで私の咎を見透かし放逐している。



「私だけじゃない。女であることの一部を損なった母は、もう母であることをやめてしまった」


「君のお母さんは、その判断を私に知らせなかった」


「貴方の不甲斐なさが私を殺した。なのに貴方は自分の国の女と暮らして、性懲りもなく命を宿させた」



 少女の手で歪に輝く剃刀。幼い手が握る象牙の持ち手、その先で弧を描く鉤爪状の波刃は酷く不釣り合いに懐かしい。



「これで最後なのかな」


「いいえ、どうせこれも夢の浮き橋」



 ゆっくりと膝を折って、少女の前にひざまずいた。



「私を見て」



 頭上で囁く葉ずれの合間を縫って、少女の白い手が斜めに走る。飛散する雫を湛えた瞳の彩りは私を穿って、無謬の吐き気と愛しさを抉り出した。




(了)

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― 新着の感想 ―
[良い点] おお……もしかしたら、こちらの方が普段書いていらっしゃるのかな。 純文学をあまり読んだ事がないのですが、この作品が純文学なのかな、と思いました。 現実と夢との浮遊がとても滑らかで、すん…
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