[01]咲子の日記帳
公園の長椅子、最初に座ったのはおれと咲子だった。
春の公園、噴水の周りを取り囲む花壇と長椅子。「自分たち以外は誰も居ない」という絶好のシュチエーション。
「感想はいいから」
彼女が恥ずかしそうに見せた詩集、それをおれ
「日記かよ?」
と言って、地面に叩きつける。開いた詩集は羽ばたいた、まるで鳥のようにな。ここにはおれと咲子しか居ないんだから、彼女は泣くだろう、静かに、泣く。そしておれは小さな優越感に、浸る。
◇
「もしも」なんて言葉は、できるだけ使わない方がいい。
(あり得なかった出来事を提示しても、結局は自分の中に元々用意してあった答えにしか辿り着かないからだよ)
しかし敢えてそんな話をするならば、もしもこの長椅子にもう一人(理想的なのは詩などに興味を持たない一般の人間だ、仮に彼の名前をサトルとしよう)が座っていて
「彼女が詩だと言うんだから、これは詩です」
と言ったらどうだ?
ゴッホが絵画を持ってきて「ディスイズポエム」とか言ったら、思わずぶん殴ってしまいそうだが、少なくとも咲子が書いたものは文章でできている。如何なる内容であれ、「詩」として発表されたものは「詩」なんです、という話。または
「これはキモいから詩ですよ」
と言ったらどうだ?
一般人のサトルがどんな物差しで、日記と詩を区別したか知っているか?
ひとつめは、雑誌や文庫本、サトルが今日までに読んだ数少ない文章からどれだけ離れているかという物差し。
ふたつめは、自分より文章が上手か(サトルが売ってある本を読む時の大前提だ)という物差し。
※つまり「キモい」という言葉には「まともじゃない」「下手なので読むのが苦痛」などの意味も含まれていることになる。
サトルはズレていない。この方法はほとんどの一般人が無意識のうちに行っている「普通の区別方法」だ。逆に言えば、上記ふたつの区別方法をクリアできたなら、「キモい」とは言われない。いずれにせよ、ズレてるのはおれたち詩人の方なんだ(一般的に「ズレてる」とは「少数派」のことを差す)。だからサトルの発言にはおれも咲子同様涙した(想像の中で)。
◇
しかしこれらはあくまでも、もしもの話だ。事実は咲子が詩を書いたことと、おれはそれを日記として読んだことだ。そして何より、この長椅子には二人しか座れない。