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森の守人  作者: 瑞沢
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6.森の守人


「なんということだ」

 泉のほとり。狼と竜が対峙するその陰で、男はつぶやいた。

 盗み聞きは無論、許されることではない。プライドの高い狼のことだ、それを知ったら怒り狂うに違いない。

 だが、それを侵してまでも、男は自分で探るしかなかった。彼女は何も教えてくれない。森のことも、自分のこともだ。「掟」という一言だけで満足してはいられなかった。狼が嫌う香草を身にすりつけ、自らの臭いを隠して、男は彼女の後を追った。

 その結果、彼を待ち受けていたのは、驚くべき事実だった。

 森はあの狼が閉じている。平穏を守る、との建前に、男は自分自身が犠牲にされているのを知った。

 自分は聖域で生まれ、そして狼が森へと連れ去ったのだ。あまつさえ母親と偽って、彼女は人の子を育てた。そうして男は役目を与えられ、守人として育った。

 聖域の人間と顔をあわせてはいけないのも、親兄弟と再会したら困るからだ。

 男はそっとその場を離れる。そして気配を殺して歩みを進めた。泉から離れるにつれ、歩調はどんどん大股になっていく。男は怒りにまかせて森を駆ける。木の根を飛び越えながら、我を忘れて咆哮をあげた。狼のような咆哮だった。それだけでは治まるはずもなく、ただ感情に突き動かされるまま走る。十年、いや、それ以上降り積もった気持ちをぶつけることもできぬまま。

 ずっと狼とともに、森の平穏を守ってきた。赤子の時連れ去られなければ、もっと違う人生を送っていただろうに。聖域の中で何も知らず、何も知らされず、知る事もなく。ただ平穏な暮らしを手に入れていただろうに。


 やがて男は、聖域とされている場所へとたどり着いた。

 そこは小さな集落であった。木々は拓かれ、人々の営みが森に大きな爪痕を残している。美しい、静謐な森で生きてきた彼にとっては、とても醜い場所のように思えた。

 これが聖域、と男はつぶやく。心がざわざわする。

 さんざん言い含められていた守人の掟を、男は破った。下草は刈り取られ、根こそぎ引き抜かれ、むき出しの土で踏み固められた広場に、男は足を踏み入れる。月が中空からこの広場を照らしていた。

「誰だ!」

 そこに声がかけられる。声のする方を向くと、家の陰に隠れるようにして人が立っていることに気づく。

 男は聖域の者に接触を図ろうとした。またしても禁忌を破る。だが、あの掟に意味を見いだせない今、守る理由がなかった。

 近づこうとすると、動くな、と静止される。どうやら武器を構えているようだった。

「狼のような遠吠えが聞こえたから、警戒していたのだ。お前は人か? それとも、狼か」

 そう問われ、男はつい笑った。

「何がおかしい」

「俺が狼に見えるか」

 二本足で立ち、ぼろ布を体にまとっているはずだった。狼のように毛むくじゃらでもない。それでも、聖域の男からは狼に見えているのだろうか。守人として暮らしていると、狼に近づいてくるのだろうか?

「俺、は――」

 だが、男は名乗るべき名を持っていないことに気がついた。ただ、守人だと。そのように教えられて生きてきたのだから。

「俺は、守人だ」

「森人だと?」

 じろじろと見つめられるが、聖域の男はやがてそう吐き捨てる。彼の警戒する表情はついぞ変わらないままであった。

「お前など知らぬ。狼はまやかしを使うのか? それとも――混沌か」

 聖域の男はぴいっと指笛を鳴らした。

「待ってくれ、俺は――」

 竜の言葉が正しければ、ここで生まれたはずなのだ。男はそう言いたかった。本当の父親は、そして母親は。だが、それをうまく表すことができぬまま、男は聖域を追われることとなった。騒ぎを聞きつけ、武器を構えた男たちが方々から駆けつけてきたからだ。

 石を投げつけられ、男は森へと逃げ帰る。親兄弟との再会も果たせぬまま。自らがここで生まれたという証も得ることができぬまま。

「あいつ、もしかして――」

 森人の誰かがつぶやいた。しかし、そのつぶやきは宙に浮いたまま霧の中へ消えていった。



 男は走る。狼に育てられ、森を守るという名目で獣を狩り、人を殺した。血塗られた手。それは拭っても拭っても残滓のようにこびりついている。こんな生き方をした男を、聖域の者は狼と罵り、石を投げた。生まれ故郷は、男を受け入れてくれなかったのだ。

 やがて立ち止まり、苦しげに息を吐く。がむしゃらに走り続けたせいで、息が上がっていた。

 これからどこへ向かえばいいのだろう。

 狼の元へ戻り、何も知らぬ振りをして守人の務めを果たすのか。今ならまだ戻ることができる。何事もなかったかのようにねぐらに戻り、眠りにつけばいい。簡単だ。明日からはまた同じ生活が始まるだろう。

 だが、男はかぶりを振る。もう狼の元へは戻れない。事実を知ってしまった今、彼女の元へのこのこと戻って守人として務めを果たすことなど、男にとって何の意味も持たなかった。



 ふと。彼は竜の巫女の姿を思い浮かべた。

 女はその命と引き換えに、竜の子を産むのだという。

 あの娘。白き衣に包まれたあの娘。美しい女だ、と思った。

 ほこらで祈りをささげていた女。彼女は竜の寝床で眠ると聞いた。そう、彼女はそこにいる目的を知らないのだ。それは罪だ、と思った。

 助けなければ。

 守人の名において――いや、自分自身の意思で。

 じっとしてはいられなかった。


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