らぶれたぁ
ラブレター、というものを書いてみた。
「……うーむ」
癖のある文字で好きですと、一言だけ書いたところで筆が止まる。ここからどう続ければいいのだろう。それとも、もう完成でいいのだろうか。なにぶん初めてのことだから、どうしたらいいのか分からず戸惑ってしまう。
今時手紙だなんて古風だなと思うが、この古風さは嫌いではない。僕は昔のものが好きなのだ。僕の私物はほとんどが使い古されており、友人達に買い替えろと言われるのはしょっちゅうだ。
家にあった、おそらく十年は家族共有で使われていただろうシャーペンを手の中で弄ぶ。くるくると回るそれを視界の端に入れ、机上の紙を見下ろした。ノートの一ページを切り取っただけの紙、その片側だけびりびりと破かれた箇所をそっと撫でる。繊維の少しふわふわした感触を楽しみながら、うーむともう一度唸った。
「……『僕と付き合ってください』かな? それとも『体育館裏で待ってます』とか?」
僕の乏しいラブレター知識を総動員するが、思い付くのは陳腐なテンプレート化された文章だけだった。初めてラブレターというものを書くのだから、どうせなら奇を衒ったものにしてみたい。
西日の差し込む美術室は、今の時期は少し暑い。四階という一番高い場所にあるのも関係しているのかもしれない。
金曜日の放課後という、僕が一番好きな時間。運動部が部活動に勤しんでいるのを外から響いてくる声で認識しながら、僕以外誰もいない美術室を見回す。常ならば何人かは残っているのだが、何故だか今日は予定が入っている人が多いらしい。
部員のほとんどを占める女子二十数名、僕を含めた男子数名。それが僕の所属する美術部のメンバーだ。一応人数だけはいるが、その大半はあまり部活に来ない所謂幽霊部員というやつだ。固定の顔ぶれが放課後に美術室に集まって絵を描いたり勉強したり話をしたりお菓子を食べたりゲームをしたり、それがこの美術部の実態だ。よく「楽そうだよな」と言われるが、それは間違っていない。
そんな美術部だが普段の賑やかさはどこへやら、今は静まり返っており、夕焼けで赤く染まった空や長く伸びた石膏像の影が物淋しい雰囲気を醸し出している。
それが何だか僕の心の裡を刺激して、何とも言えない気分になった。センチメンタル、というやつか。
ふぅと溜め息をついて背伸びをすると、嫌な音をたてて椅子が鳴った。ぎしり、ぎしりと鳴るそれはガタガタと揺れ、今にも壊れてしまいそうだ。危ないなと思いつつも、更に体を傾けてあえて椅子に負担がかかるようにする。ぎしりという音が一際大きく響いた。
ふと、足音が階段を上って近付いてくるのに気が付いた。ぎしりと椅子が音をたてるのに混じって、パタパタという軽い音が聞こえる。次いで聞こえてきたのは引き戸が開けられる音と、クラスメイトであり同じ美術部員でもある少女の声だった。
「――おや、やっぱりここにいたんだね」
ハスキーな少年らしい声だが、振り返ると可愛らしい姿が目に入った。声だけでなく性格もどちらかと言えば男らしいさばさばとした彼女だが、見た目は実に女の子らしい。こちらに近付いてくる彼女の歩みに合わせて揺れる長い黒髪は、僕にとってはとても好ましいものだった。ああでも、すらりとした脚も、白魚のような指も、陶器のような白い肌も、男の欲を煽る魅力的な体つきも、左右対称の顔のパーツも、僕は好きだった。
「……なんだい、そんなにジロジロと見て。照れるじゃないか」
「そんな澄ました顔をしてよく言うよ」
照れると言っておきながらそんな素振りを全く見せない彼女はクールで素敵だと、男だけでなく女子からも人気が高い。「クール」なのは認めるけれどそれで「素敵」だと僕には思えないから、そこはよく分からないが。
「澄ました顔、というなら君もじゃないか。いや、君の場合はただの無表情だったな」
「はっはっは、もしかして僕は今馬鹿にされたのかな?」
「いやいやまさか。私が君にそんなことをするはずがないじゃないか、純」
「どうだか。君は自分の胡散臭さを自覚した方がいいよ、若月さん」
おやおや、と目を細める若月さんと軽口を交わす。仲が悪いわけではなく、単なる挨拶代わりだ。これくらいの応酬は僕らの間では日常茶飯事である。
僕が姿勢を直して彼女に向き合う。すると不意に、彼女はおやという顔をして机を僕の横から覗き込んだ。
「なんだいこれ、手紙? えーと……おやおや、『好きです』だなんて、もしかしてこれはラブレターというやつかな?」
「勝手に読まないでくれます?」
「すまないね。いや、それにしても君がこんなものを書くなんてねぇ」
何が面白いのか、ニヤニヤと笑いながら紙を手に取りそれを振る。しかも僕に見せつけるように。恥ずかしいから止めてくれないだろうか。
憮然と彼女を見つめると更に笑いを深くした。おい、肩が揺れているぞ。こら、吹き出すんじゃない。
「……どうしてそんなに笑われなくちゃならないんだろう」
「く、ふふっふふふっ……だって、君がラブレターだぞ!? 似合わないにも程がある! ふ、あははははっ!」
「ついに声をあげて笑われてしまった……というか似合わないって……」
ラブレターが似合わないってどういうことだ。
「君も、誰かを好きになれるんだなぁ。いやぁ意外だ。実に意外だ!」
「……ああそうですか。はいはい、似合わなくてすみませんねぇ」
笑いすぎて顔が赤くなっている若月さんに怒りは湧いてこないものの、馬鹿にされているような気がしてふて腐れたような声が出てしまった。
顔をそらすと彼女はようやく笑いを収め、紙を机の上に戻した。
「ああ、いや、すまない。馬鹿にしているわけではないよ。言っただろう? 私が君にそんなことをするはずがないじゃないか」
さっきまで爆笑していたとは思えないほど、いつもの落ち着いた声が僕の鼓膜を揺らす。僕だって別に本気で彼女が僕を馬鹿にしているだなんて思っちゃいない、ただ少し居たたまれなかっただけだ。
「分かってるよ、そんなこと。君は僕に嫌われるようなことはしないからね」
逸らしていた顔を戻して彼女の目を見つめると、その通りと言うように細められた。弧を描く目はきらきらと夕日に光り、綺麗だと素直に思った。
それで、と僕が口を開くといっそう輝く彼女の目を見つめながら、僕は彼女に疑問を投げつけた。
「似合わないってどういうこと?」
「そのままの意味さ。君が誰かにそんなものを書くだなんて――つまり、君が誰かを好きになるだなんて、まるで想像がつかないんだよ」
若月さんはもう一歩近寄って紙に書かれた「好きです」の文字を指でなぞり、くふともう一度笑った。
それにしても、僕が誰かを好きになるだなんて想像がつかないか。なるほど、確かにそうだろうな。そんなこと僕にだって想像できない。何せ僕は今まで誰も好きになったことなんて無いのだから。
「それはそうだろうね。そもそもこのラブレターだって、一応相手はいるけどその娘のことが好きなわけじゃないし」
「……おや。それはそれは、なんとまあ」
軽く目を見開き、僕をまじまじと見つめる。そう見つめられると居心地は悪いが、その視線の中に批難の色が含まれていないのは幸いか。
若月さんは、それじゃあと首を傾げる。
「どうしてその相手、仮にAさんとしようか、Aさんにそんなものを書こうだなんて気になったんだい? 君はそのAさんのことが好きではないんだろう?」
僕はその疑問に答えようと口を開いた。が、どこから説明したらいいのやら。口を半開きにしたまま数秒停止し、そのまま何も言わずに口を閉じた。
代わりに鞄の中に右手を突っ込み、あるものを取り出す。それは可愛らしい封筒で、件のAさんから貰ったものだった。封筒の端の方には丸い字で僕の名前が宛先として書いてある。
「これは?」
「Aさんから貰ったラブレター」
今日の朝、僕の机の中に入っているのを見つけた。中には封筒と同じようなデザインの可愛らしい便箋が入っており、そこには僕への想いが綴られていた。手紙の最後には差出人であるクラスメイトの女子の名前が書いてあった。それを読んで差出人であるAさんの方を見ると、彼女もまた僕を見ていた。目が合うとすぐに逸らされてしまったが。
「つまり、君が貰ったものへの返事ということなのかい?」
「いや、返事はいらないらしいよ。『伝えたかっただけです』って書いてあった」
「へぇ……」
若月さんはこれを聞くと、面白くなさそうに目を細めた。何が気に入らなかったんだろうか。彼女は顔が整っているため、不機嫌そうな顔は結構な迫力がある。元々冷たい印象を与える顔立ちの美人だから尚更だ。
「何か気に入らないことでも?」
「大したことではないんだけどね。……返事はいらないと言うのに自分の名前を書くなんて、本当は返事を期待しているんじゃないか。それか、これをきっかけに自分に興味を持ってもらえたらという浅ましい考えが透けて見えるよ」
僕は彼女がそんなことを言うのに驚いた。
若月さんはその見た目から冷たい人だと思われることが多いが、話してみると案外気安くて親しみやすい。自分の考えをはっきり述べるが、人の悪口は言わない。今までの付き合いの中で見てきた彼女はそんな人だった。
そんな彼女が、Aさんのことを浅ましいと言った。
「珍しいものを見たな。君が悪口を言うなんて、驚いたよ」
「……そりゃあ、言いたくもなるさ」
「僕が書いたラブレターを見たときは爆笑したくせに?」
「あれは、君が誰かを好きになれると知って嬉しかったし、それに……」
もごもごと口ごもる彼女を不思議そうに見つめる。何だろう、恥ずかしそうに顔を逸らしたが。
その様子は極めて愛らしいが、それをいつまでも眺める趣味はないので続きを催促する。
「それに、何?」
「……それに、その、もしかしたら、わ、私宛て、かもしれない、と……」
そう思って、と最後は蚊の鳴くような声で若月さんは言った。……なるほどねぇ。
「つまり、嫉妬したわけだ。顔も名前も分からないAさんに」
「……」
ますます恥ずかしそうに俯いてしまった彼女の耳は真っ赤に染められ、それが赤い夕日によるものではないことは彼女の様子から一目瞭然だった。
僕のことを憎からず思っている若月さんは常に纏っているクールな印象などどこにもなく、ただただ非常に愛らしかった。僕は彼女の顔も身体も好きだけれど、何よりも僕のことを好きだと言う彼女のことが好きだった。
「はっはっは、若月さんは可愛いなぁ」
「うるさい」
「そうか、自分宛だと思ったんだね。若月さんったら自意識過剰だなぁ」
「うるさい黙れっ!」
「僕は確かに君の見た目は好きだし、僕のことを好きだなんて言う君の見る目の無さはとても好ましいけど、それでも君を恋愛的な意味で好きだと思ったことなんてないのに」
「……うるさい、意地の悪いことを言うな……っ」
普段はこんなことを言われても涼しい顔で飄々と受け流す彼女は、何かスイッチが入ると少し意地悪をするだけですぐに泣きそうになる。可愛いなと思うし、馬鹿だなとも思う。
そんな馬鹿な若月さんのことを僕は気に入っていた。もちろん普段の彼女のことも嫌いではないが。
「うんうん、ごめんね。……さて、これはどうしようかな」
口だけで謝りながら、僕が書いたラブレターもどきを手に取る。好きですと書いたはいいものの、ここから先が思い付く気がしない。Aさんからのは便箋二枚にびっしりと書いてあったのだが、やはりそこは想いの差というものなのだろう。欠片も思っていないことを書くことは出来ないらしい。全く、僕ってやつは正直者だな。
若月さんはジト目で僕を睨んだかと思うと、僕の手から紙を奪い取った。そしてそれをくしゃりと丸め、ごみ箱へと放り投げた。
「せめて一言了承を取ってからにしてくれないかな? いや、別に構わないんだけどさ」
「捨てたよ」
「事後報告されても」
茶々をいれるとまたジロリと睨まれてしまった。
「分かった、ごめんって。前にも言ったけど若月さんの怒った顔は中々に迫力があって怖いんだよ。せっかくの美人なんだから笑った方がいいよ」
「懲りずに意地悪をする君が悪い。私が純のことを好きだと知っているくせに他の娘に向けたラブレターなんて見せるからだ」
「君が勝手に見たんでしょ?」
「……こんなところで書いてるのが悪い」
「理不尽だね」
「恋する乙女なんて理不尽なものだよ」
「自分で乙女とか言っちゃうの?」
「実際、私は乙女と言っても何ら差し支えないと思うけど?」
「言うねえ。そりゃそうだけど」
段々普段の調子に戻ってきたらしく、多少の軽口では動じないようになってきた。うんうん、やっぱり若月さんとの軽口混じりの会話は楽しいな。さっきの馬鹿な若月さんはたまにあるから良いんだよね。
「さて、僕はそろそろ帰ろうかな。若月さんは?」
「私も帰るよ。そもそも純と一緒に帰ろうと思ってここに来たんだから」
「あ、そうなんだ」
「で、ご一緒しても?」
「もちろん構わないさ」
鞄を肩にかけて立ち上がり、座っていたせいで僕よりも上の位置にあった若月さんの顔を見下ろす。どの角度から見ても、やはり綺麗な顔をしている。
僕は古いものが好きだが、綺麗なものも好きだった。つまり若月さんは僕の好みにドンピシャということになる、のだが、それでも恋愛的な意味で好きとは思えないのはどうしてなのだろうか。顔も身体も性格も好みだというのに。もしかしたら僕は誰のことも好きになれないのではと半ば本気で思った。
「ねえ、若月さん」
隣を歩く彼女に声をかける。僕ら以外は誰もいない廊下に聞き慣れた声が響いた。
「何で僕のことが好きなの? 正直、趣味悪いよ。見る目がない」
「……純は基本的に自分自身の評価が低いよね。もう少し自分の魅力と言うものを自覚したらどうかな?」
「僕の魅力? そんなもの無いよ?」
「全く、君という人は……」
若月さんはやれやれとでも言いたげに首を振る。そう言われても、僕の魅力なんて思い付かないのだか仕方ない。
「いいかい? 君自身がどう思おうと構わない。けどね、実際君の顔立ちは整っていると言っても何ら問題はないし、頭だって良い方だし、運動神経も悪くない。そういった部分に惹かれる女子がいてもおかしくはないんだよ」
「若月さんもその一人ってこと?」
「私は違うよ」
確かに君の顔は中々に好みだけど、と彼女は続ける。
「それが君の魅力の全てではないのさ」
そう言って少し照れたようにはにかむ彼女は、やはりとても愛らしい。これが何故恋愛感情にならないのか自分でも不思議だ。普通の男子高校生なら一瞬で恋に落ちるだろう魅力的な微笑みだが、どうやら僕は普通とは少しズレているようだ。
それでも彼女を可愛いと思ったのは事実なので、とりあえず頭を撫でてみた。さらさらの髪が手のひらに馴染んで気持ち良い。
「……こういうことを当たり前のようにしてくるところが狡いんだよなぁ……」
「え、何か言った?」
「こういうことは誰にでも軽率にしてはいけないよ。ライバルが増えてしまう」
「は?」
頬を染めてそんなことを言う彼女にすっとんきょうな声をあげる。彼女が何を言っているのかよく分からない。
「私以外の女の子に気軽に触れてはいけないってことだよ」
「恋人でもないのに束縛かい?」
「事実だとしてもグサリと来てしまうね。まあ、その通りさ。これ以上君の毒牙にかかってしまう被害者を増やしてはいけないからね」
そう言って若月さんはおどけたように首をすくめた。
毒牙って、僕のことを何だと思っているんだろうか。前々から思っていたのだけど、どうも誤解されている気がしてならない。僕は少しだけ人とずれているだけの普通の人間だというのに。彼女とは少し話し合う必要があるかもしれない。
「……ああ、そうだ」
そんなことを考えていると、不意に若月さんが声をあげた。
「純、君がAさんから貰ったラブレターだけどね」
「うん」
「私にくれないか」
「……一応聞くけど何のために?」
「捨てる」
いつもと全く変わらない調子で言うものだから、余計にうすら寒いものを感じてしまう。さっき僕の書いたラブレターもどきを捨てたときのように、一切の躊躇なくAさんのラブレターを捨てる彼女の様子が目に浮かぶ。もしかしたらビリビリに破いたりもするかもしれない。シュレッダー行きも有り得る。
哀れだ。ラブレターもAさんも若月さんも。
「……まあいいか」
はい、と鞄から取り出したそれを手渡す。若月さんは満足そうに頷き、乱雑に自らの鞄に入れた。まさかAさんも意を決して書いたラブレターがこんな末路を送るとは考えもしていないだろう。可哀想に。
まあいいかとあっさり渡してしまった僕も僕だけれど。いやぁ、我ながらクズだな。
「……若月さんも、こんな真似をするんだから考えてみれば結構なクズだな……」
「幻滅したかい? だとしたら悲しいな」
「いや、僕らは似た者同士だなと考えていたところだよ」
「うん? ……喜んでいいところかな、これは」
「さぁね。知らないよ、そんなこと」
「そうか、なら喜ぼう。嬉しいよ、純」
若月さんは心から嬉しそうに笑った。頬がうっすらと染められており、うん、可愛いけど怖いな。口には出さないが、若月さんは歪んでいると思う。そんなところも彼女の魅力であるとはいえ、怖いものは怖い。
ちなみに、彼女は出会った当初はこんな風ではなかった。もっとまともな人間だったはずなのだが、どうしてこうなったのやら。
「君のせいだよ」
……僕は何も言っていないのだが、エスパーか何かか君は?
「君は常に無表情だけど、でも考えていることは分かりやすいんだよ」
くすくすと若月さんは笑う。可笑しそうに、愛おしそうに、くすくすと。
外から聞こえてくる運動部のかけ声と彼女の笑い声が反響するオレンジ色の廊下で、僕は可愛らしい便箋と丸い文字を頭に浮かべる。そして僕が書いたラブレターもどきも。
……ああ、確かに。僕にそんなものは似合わない。若月さんが笑ったのも無理はないなと今更ながら思った。
「……あは」
若月さんのものではない、誰かの笑い声が聞こえた。驚いたように目を見開いてからますます笑みを深める彼女が、何だか可笑しくて愛おしかった。