4. 正しいことなんてひとつもない
『私の名前は、アンヌ=マリー・プレブォー』
女性は、はっきりとそう告げてきた。
つまり、薔薇革命の当事者であるローゼンベルグ伯爵夫人だと、自ら名乗ってきたのだ。
驚くセレナに彼女はかいつまんで事情を説明したあと、静かになったセレナを引き連れ、一行は潜んでいた納屋を後にした。どのみち、セレナに選択権などないに等しかったわけだ。
あれからずっと、セレナの頭は混乱している。
今、彼女が行動を共にしているのはかの有名は薔薇夫人、その人なのだろうか。
セレナがジュスタンの課題に取り上げた歴史上の人物。その人物と一緒にいると言うのだろうか。しかも彼女の侍女として。
とてもではないが信じがたい話だ。
現実はいまだアパルトマンの自室のベッドの上で、のんきに夢を見ているのではないのか。
だが、一向にその夢が覚める気配はない――。
「冷たい、冷たいわ、ファビオ」
朗らかに笑う女性の声が聞こえてきて、セレナは声の方へゆっくりと視線を向ける。
山の中を流れる川のほとりで、他人としか思えぬ男女がなにやら騒がしくはしゃぎ回っているのが見えた。
アンヌ=マリーと、その供の男。何度見ても馴れそうにない環境だ。
「危ないですから落ち着いてください、マリー様。怪我をされたらどうします」
はしゃいでいるのはセレナに薔薇夫人と名乗った女性の方だけで、ファビオという名の青年は彼女を冷静にいさめていた。
セレナたちは田舎の古びた納屋を出て、人目を避けるように誰も通らぬ山裾を、わざわざ選んで歩いてきた。
ファビオが言うには、国境はこの山を超えた先らしい。
生半可な行程ではないが、王都で日増しに激しくなる不穏な気配から身を守るため、彼らは分散して隣国への亡命を決断したようだ。マリーの夫は既に国を後にしたと言う。彼にはファビオの幼なじみ、ジュスタンがついているとも口にしていた。
馬車や乗り物を使わない荒い選択も、追っ手の目をくらますための計算だったようだ。
当然ながら舗装されてもない道とも言えぬ道は、マリーには苦行のようだった。
無理もない。宮殿で蝶よ花よとかしづかれていた姫君だ。こんな逃走劇が成功するとは、セレナにはとても思えない。
しかし、予想に反して、マリーは必死にくらいついてきた。そして、ファビオも決して諦めようとはしなかったのだ。
彼女がふらつきそうになる度に彼は、足を止めて手を貸し根気よく待ち続けた。
が、どうにも進まなくなったマリーを気遣って、ファビオはやむなく、先ほどしばしの休憩を決めたばかりだったのだ。
セレナが大きく息をついて手近な岩を椅子にして座ると、二人は競うようにして水辺へと近づいていった。
彼女は痛む足を冷やすために、彼は川を泳ぐ魚を捕まえるためである。
「セレナ、何を勝手に休んでいる。マリー様をお助けしないか!」
すぐにファビオの激昂が飛んできた。彼がこちらを凄い形相で睨みつけている。
横暴な青年に腹立ちさえ生まれた。何故自分が、こんな男の言うことを聞かなければならないのか。
「い、いいのよ、ファビオ。セレナは疲れているのだから」
近くにいたマリーが、見かねたようにファビオに声をかけていく。
「しかし……」
「本当にいいの。私は何もできない子供ではないのだから」
美しい微笑みを見せながら、マリーは安心させるようにこちらを振り返った。
侍女だと言われてもぴんとこなかったセレナには、立ち上がることすらできなかったが、可憐な女主人は側付きの青年と違い、そんなことはまるで気にしていないらしい。
セレナはマリーの言葉にこの際甘えて、重たい体を休めることにした。
川の中の二人は疲れることを知らぬようで、ひとときの休憩を謳歌しているようだ。殊更楽しげなマリーの声が聞こえてくる。
「ファビオ、ファビオ見て。そこにお魚がいるわ!」
彼女のあどけない様に、青年は肩を竦めて呆れたように見下ろした。
「マリー様、うるさくしないで下さい。魚が逃げてしまいます」
ファビオは魚を捕まえようと真剣に水面を見つめている。
その側で、マリーは叱られた子供のように小さく首を縮め微笑んでいた。
「そ、そうね。でも、私楽しいの……。凄く、凄く楽しいのよ」
セレナがじっと彼女を見つめていることに気がついたマリーは、川岸に向かっても輝くような笑顔になった。
「ねぇ、セレナ。あなたもそう思うでしょう? 昔に戻ったみたいだと」
*** ***
三人はファビオの捕らえた魚で軽い食事を取った。彼は木の幹に魚を刺すと、器用に火を起こし、それを焼いて振る舞ってくれた。おっかなびっくりで食べた魚は、思いの外おいしく、セレナは簡単に平らげることができた。
マリーは始終「おいしいわ」とはしゃいで、少女のように笑っている。
「ねえ、昔はよくこうやって、魚を釣って食べたりしたわよね」
「ええっ?」
マリーの言葉に驚愕するセレナを見て、彼女は弾けたように声を上げて笑う。
セレナには不思議で仕方がなかった。
目の前にいる女性は、セレナの思い描く薔薇夫人とはあまりにも違う気がする。と言うより、伝え聞くアンヌ=マリー像とまるで違うのだ。
「あ、あの……」
彼女は意を決して、話しかけた。
「なあに?」
マリーとファビオが怪訝げに顔を向けてくる。セレナは口をまごつかせながら、なんとか言葉を繋げた。
「昔とは……、どういうことですか?」
セレナの問いにマリーはクスクスと噴き出す。
「セレナったら、昔は昔よ。私たちが子供だった頃のことじゃない」
「子供?」
「ええ、そうよ。私とセレナとファビオ、それからジュスタンの四人は、幼い頃からの遊び仲間だったじゃないの」
マリーは何を今更とでも言いたげに、可愛らしく小首を傾げた。
そういえば、セレナが調べた本の中にも記されていた筈だ。幼い頃のアンヌ=マリーは、近隣の子供たちと身分の垣根を超えて遊んでいたと。
鈴が鳴るような軽やかな笑い声を上げながら、マリーはファビオを振り仰ぐ。
「ねえ、覚えてる? あなたとジュスタンが川に仕掛けを作ったから見に行こうと、私とセレナを誘って近くの小川に連れて行ってくれた時のこと」
「覚えてますよ。罠には何の魚もかかっていなくて、様子を見るため覗き込んだわたしとジュスタンが、代わりに川にはまったことでしょう?」
青年は一層不機嫌になった。だが、マリーは更に勢いづけて話を続けていく。
「そうそう。あれ傑作だったわね。あなたたち二人とも茫然と濡れ鼠になっていて、そのあとお互いを責めて喧嘩を始めたんだったわよね」
仏頂面のファビオをからかって、マリーの楽しげな笑い声は空へ届きそうなほど高らかに響き渡った。
その声に呼応するかのように、青年が唸り始める。
「あ、あれはジュスタンのせいだ! あいつが俺を川へと招き寄せて、いきなり背後から押してきたから、こっちもそれ相応に報復してやっただけだ。俺は悪くない!」
剥きになって言い訳をしたファビオだったが、ハッと気がついたように目を見開いた。
その目が、同じく丸く広がったマリーの目と交差し、やがて力をなくしたように伏せられる。
「も……、申し訳ございません。今の発言はお忘れください」
彼は堅く唇を引き結んで、食事を終え立ち上がろうとした。
「待って、待ってちょうだい、ファビオ」
マリーが急いで青年へと手を伸ばし、その行為を引き止める。
「気にしないで。気にしないでいいのよ、ファビオ」
細い指がファビオの頑なな握り拳に近づき、あと少しのところでためらうように止まった。
「だって、今は私たちだけじゃない。私たちだけのこの限られた時ぐらい、以前のように気安くしていてもいいと思うわ。そうでしょう?」
その声は、どこか痛みさえ感じるような、心からの苦しい叫びのようにセレナには聞こえていた。
*** ***
全員の食事が済み、ファビオは「使えそうなものを探してきます」と言い残し、足早に木々の中へと消えて行った。
マリーの説得の甲斐もなく、結局重たい空気のまま、食事は終わってしまっていた。
マリーはと言えば、しばらくファビオの背中をぼんやりと見送っていたが、ややあって、俯き座り込んでいるセレナの元へと、顔を寄せてくる。
「さっきはごめんなさいね。ファビオのこと」
「えっ、あ、あの……?」
いきなりのことで返事もできずにいるセレナに、マリーは静かに頷いてみせた。
「許してあげて。彼は知らないの、あなたの体のことを」
体?
「どういう意味ですか?」
セレナの不躾な視線をマリーは笑顔でかわす。
「私にまで隠さないで。知っているのよ、あなたのお腹に赤ちゃんがいるってことは」
「赤ちゃん?! 私が?」
「ええ、ジュスタンとの子よね?」
思わず叫んだセレナを見て、マリーは柔らかく微笑んだ。
「そんなに驚かないで。いくら秘密にしていても、あなたとジュスタンが愛し合っていたことぐらい、私にも分かっていたわよ。だって、あなたは子供の頃から彼一筋だったじゃないの」
「う、嘘です……」
信じられない。この時代のセレナと同じ名の女性は、ジュスタンという名の男と子までなしていたと言うのか。
自分と叔父の関係を思うと、悪い夢を見ているようにさえ感じられた。
セレナの震える肩にマリーは優しく手を置く。彼女は無言になった侍女が、心労のあまり塞ぎ込んだとでも思ったらしい。
「セレナ、不安なのね? ごめんなさい、でも心配しないで。あなたたちのためにも、早く国境を越えるよう私も頑張るわ。足が折れたって歩くのをやめないですからね」
自分にも言い聞かせるかのように、マリーは何度も深く頷いた。
「国を出るまでもう少しだわ。あともう少しでこの状況を脱出できるの。あのね、セレナ、いいことを教えてあげる。今の私にとってあなたたちが唯一の希望なの。だから何にかえても、絶対に彼に逢わせてあげる。いいこと? 絶対によ。忘れないで」
セレナの動揺をよそに、マリーは固い決意を口にしていた。
その姿はあまりにも儚げで、消えてしまいそうな程に美しくて――。
愚かな悪女の片鱗など、どこにもなかった。
セレナは一瞬にして理解してしまった。
アンヌ=マリーは決して、国を転覆させようとした毒婦などではなく、時代の波に流されながらも、この時代を精一杯に生きた一人の女性だったのではないかと。
自分のお腹に、セレナはそっと手を置いてみる。
この腹の中に子供がいるのだ。だからなのか体が酷く辛かった。
鏡を見てないので確かなことは分からないが、マリーとファビオが何ら驚くことなくセレナを受け入れたということは、彼女の姿は本来の自分ではない筈だ。
セレナは今、彼らのよく知る『セレナ』の意識の中に、時を超えて入り込んでいるに違いない。
自分と同じ名前の、もう一人の『セレナ』。ジュスタンと同じ名前の男の子を身ごもった、まるで分身のような女性。
「ねえ、セレナ、心配しないで。あなたとあなたの赤ちゃんは、私が必ず守ってあげる。だから気を強く持って。そして愛する人と絶対幸せになると信じるのよ、私の分まで!」
マリーが励ますように手をきつく握りしめてくる。彼女の本心が痛いほどに伝わってきた。
圧倒されそうなほどに強い願いが、セレナに向かって勢いよく流れ込んでくる。
「マ、マリーさ……?」
セレナ自身は彼女の大切な侍女ではない。
お洒落や趣味ばかりを楽しみ、勉強など必要な事からは逃げてばかりの駄目な小娘だった。
そう、セレナは甘ったれた根性なしの女子高生で、おまけに好きになってはいけない人を好きになってしまった大馬鹿者。
進路も恋も何もかも諦めなくちゃならない、そんな道を外れたでき損ないの人間でしかないのに。
なのにマリーは――。
「あなたは……」
気がつけばセレナの目は暖かい涙で溢れんばかりになっていた。後から後から湧いてくる涙は、セレナを見つめる目の前の人物からも同じようにこぼれ出ている。
「あなたの……、あなたの愛する人は?」
「私?」
セレナの問いかけに、マリーは困ったように肩を落として笑った。
私の分までということは、彼女は愛に満たされてはいないということになる。たくさんの男たちを虜にしてきた、この時代一華やいでいた薔薇夫人アンヌ=マリーが。
「私の、愛する人はたった一人よ……。昔も今も変わらない」
マリーは濡れて汚れてしまった顔をくしゃりと歪めて答えた。
「……変わらないのよ、セレナ」