3. 拒絶するより残酷なこと
ジュスタンと初めて会った時のことは、いまだに覚えている。
あれは両親が事故に遭ったと聞かされて、学校から急いで駆けつけた病院の廊下でのことだった。
祈るような思いで病室へとたどり着いた時には、願いも虚しく二人は息を引き取ったあとで――。
「セレナだね? 俺はジュスタン。君のママの弟だよ。まだ学生の頼りない叔父さんだけど、精一杯頑張るから、これからよろしくな」
今とは違い肩まで伸びたちょっと長めの黒い髪、洗い晒しのコットンシャツに着古したジーンズを穿いた背の高い青年は、涙を両目にたっぷりと蓄え呆然と立ち尽くすセレナに向かって、大きな手のひらを差し出した。
「おじさんには見えない……よ? お兄ちゃんて、呼んでもいい?」
しゃくりあげながら必死で言葉を吐き出す幼いセレナに、ジュスタンはにっこりと微笑んで頷く。この時、彼の目にもきらりと涙が光っていた。
「いいとも」
「お兄ちゃん……っ!」
セレナはジュスタンの大きな腰にしがみついて、わんわんと声を上げて泣いた。そのうちに彼も泣き出してきて、二人で大声を出しながら涙が枯れ果てるまで泣いたのだ。
なのに……
『俺はお役ごめんだ――。その日まではきっちり成長を見守ってやるから、安心してそっちで眠っていてくれ』
――なんて
義務を果たしたら、そのあとはセレナのようなお荷物は突き放す。そうでも言いたげな冷たい言葉。
どうしてジュスタンはそんなことを言ったのだろう。
セレナには何もかもが衝撃だった。
*** ***
寝苦しさにセレナは目を開けた。
いつの間にか自分は寝ていたらしい。あんなに酷い言葉を聞いてしまったあとだと言うのに、よくも寝付くことができたものだ。
頭がガンガンと激しく痛む。体が鉛にでもなったかのように重い。
ぼうっと纏まらない頭でセレナは考えた。これはジュスタンの言葉に、ショックを受けた精神的なものからきているのか、それとも肉体的な疲労からなのか。
今はいったい何時なのだろう。
セレナは周囲に目を向けた。薄暗い室内は時間の感覚がまるで掴めない。夜のようでもなく、かと言って朝のようにも感じられなかった。
何故、ジュスタンは、眠り続けるセレナを起こしにこないのだろう。
自分が寝入ったのは午前二時は過ぎていた筈だから、とっくに夜が明けていてもおかしくはないのに。
それにこの部屋には妙な違和感を覚える。
セレナは懸命に暗がりに向かって目を凝らした。少しずつ周囲が朧気ながら見えてくる。
部屋以外にもおかしな点があった。季節は秋から冬へと向かっている筈だったのに、体に寝汗をかいているのだ。顔に張りつく髪の毛が、汗と絡み合い鬱陶しくセレナは身じろぎした。
「セレナ、起きたのね」
突然、目の前に女性が現れる。驚きのあまり身を竦ませるセレナに、彼女はホッと安堵の息を漏らし、柔らかい笑みを向けてきた。
「もう、心配したのよ、酷くうなされていたから。あなたったら、叩いても揺り動かしても目覚めてくれなくて、私、本当に心配したんだから……」
地味な出で立ちにそぐわないほどの、華やかな顔立ちの女性だった。
セレナ――とは、自分のことに違いないだろう。こちらに顔を向け、随分親しげに話しかけてくるのだから。
しかし、不思議なことに、セレナには全く見覚えがない女性であった。
(どういうこと?)
気が動転して頭が回らない。自分の置かれた状況が飲み込めず、彼女は目眩がしてくるようだった。
「あの……」
酷く喉が渇く。生唾を飲み込み、からからに渇いた喉の中を潤して、やっとの思いでセレナは女性に声をかけた。
「ここはどこですか?」
薄暗くて光の差さない室内に見覚えはない。古臭い農機具らしきものが、木戸の隙間から入る弱い光の中にかろうじて見える。あとは藁や肥料らしきものも置いてあるらしく、土や埃と混ざり合って酷く匂う。
ここは、まるで納屋のようだった。
セレナの体は、藁をかき集め急ごしらえで作った、寝床の上に寝かされていた。
女性は彼女の側に静かに腰を下ろして、こちらを心配げに見つめている。
すぐにも起き上がりたい衝動に見舞われたが、全身運動でもしたあとのように疲れを感じており、どうにも動けそうになかった。
それでなくてもおかしな状況に置かれているのだ。体がまるで石か何かにでもなったように、反応を返すことができない。
だって、おかしいではないか。彼女はジュスタンと住む首都のアパルトマンの自室で、図書館で借りてきた本を読んでいた筈なのに、何故こんな奇々怪々な状況に放り込まれているのか、訳が分からない。
「ここがどこか、私にも分からないの。でも、もうすぐ様子を見に行っていたファビオが戻って来るわ。そうしたら何か分かると思うの」
「ファビオ?」
「ええ」
それは誰のことだろう。やはり、聞いたこともない名前だった。
「あっ」
「えっ?」
パニック寸前に陥っていたセレナのお腹が、不意にグーと小さく鳴った。
女性が目を見開いて、それからクスリと笑う。朝露に濡れた瑞々しい薔薇の蕾が開くような、そんな艶やかな笑顔だった。
「セレナったら、お腹がすいたのね」
「あ、あの、い、いえ……」
恥ずかしい。こんな緊迫した場面で立てる音ではないだろう。セレナはたまらず赤らんだ頬を急いで伏せる。
女性は、木綿でできたような古めかしい長いスカートの腰の辺りから、ごそごそと小さな布切れを出してきて、それを目の前で広げた。
布切れの中には少しばかり形の崩れた焼き菓子が、一つだけ入っていた。おいしそうにこんがりと焼き目をつけたそれを見て、セレナのお腹がもう一度鳴る。
「召し上がれ、こんなものしかもうないけれど」
ごくり、と喉を鳴らすセレナに女性は柔らかく笑いかけた。
「遠慮しないで、さあどうぞ」
「あ、ありがとうございま……」
しかし、その時、ふらふらと手を伸ばしかけたセレナの意識の中で、何かが猛烈な勢いでストップをかけた。
「い、いりません! 結構です」
その何かに突き動かされるように、セレナは女性の手を押しやり大声で叫んだ。目の前の白い手からこぼれ落ちそうになった焼き菓子を、セレナは慌てて包み込む。それを布切れで元通りに巻いて、女性の胸元に再び押し戻した。
女性は彼女の剣幕に驚いたのか固まり、押し返された布切れに目を落とす。
「分かったわ、セレナ」
頬を緩めて彼女は笑った。化粧もしてないようなのに、目映くて可憐な笑顔だった。
こんなに綺麗な人を、セレナは見たことがない。
「これはあとで、皆で分け合いましょうね」
「あ、あのっ――」
思わず疑問を口にしようとセレナが声をかけた時、木戸がガタガタと開く音がした。
反射的に身を竦ませるセレナたちであったが、木戸から顔を覗かせたのは、女性にとって馴染み深い青年であったようだ。
「ファビオ!」
嬉しそうに声を出す女性に、彼は険しい視線を返してくる。
「静かに、声が大きいですよ」
「ご、ごめんなさい」
慌てて口を閉ざす彼女を、彼は満足そうに見下ろした。そして足音を殺して近づいてくる。青年は厳しい眼差しのまま、女性と横たわるセレナに変わりはないか素早く確認すると、フッとようやく視線を和らげた。
「遅くなって申し訳ございません、マリー様」
随分汚い身なりの青年だった。
顔を隠すように目深に帽子をかぶり、ボロボロのシャツとズボンを身につけ、その上からつぎはぎだらけの上着を羽織っている。そんな自分の服装を、彼は恥ずかしがる素振りも見せない。
今どき、こんな格好で表を歩く人間がいるだろうか。
だが、時代錯誤のおかしな衣装を着ているのは、何も彼だけではなかった。
女性とセレナ自身も、足首が隠れるほどの長いスカートと、顔を覆い隠すようなフードのついたマントを羽織っていた。身につける衣服は、どれも棄ててあったのでは? ――と疑うほどに、汚れて古めかしいものだった。
「マリー様、ご安心ください。ここら一帯は都から離れた田舎。こんな田舎まで騒動は広まってないようです。静かなものですよ、暴動や煽動なども見る限りありません。今のうちに動いた方がいいかと」
「……そうね」
女性がセレナを見た。遅れてやって来たファビオもセレナに目を向ける。彼が硬い表情のまま続けた。
「目的地はもうすぐだ。国境近くにはジュスタンが既に手筈を整えて、我らの到着を待っている筈。セレナ、もう動けるな?」
ジュスタン?
この見知らぬ世界にジュスタンもいるというのか?
愛しい名前にセレナは涙が出そうになった。彼女は懸命に目頭に力を入れて、気を抜けば溢れ出そうな熱いそれをこらえた。
「行きましょう、セレナ、ファビオ」
女性がたおやかな両手で、セレナの震える手を握りしめる。
「行くって、どこへ……?」
彼女は混乱した頭で考えた。
ここが、自分が暮らす世界と違うであろうことは、何となくではあるが理解しつつあった。どうやら、夢や幻でもなさそうだということも、認めたくはないが実感として受け止めつつあった。
だが、どこなのか。自分を含め、彼らは何をしているのか。
何も知らないままでは一歩も動けない。怖くて心細くて、立ち上がることすらできそうにないのだ。
「何を言ってるんだ、セレナ」
青年が呆れたように見返してくる。その苛立ちを覗かせる険しい眼差しに凍りつきそうになりながら、彼女は必死になって抵抗した。
「いいから教えてよ。私は誰で、私たちはどこへ向かってるって言うの? じゃなきゃ、私、一歩だって動かない! 教えてくれるまで絶対に動かないわ」
勝手にしろと毒づく青年を制して、女性がセレナを振り向く。彼女は興奮して半狂乱で騒ぐセレナに、安心させるように微笑みかけた。
「セレナ、あなたは私の侍女よ」
「じ、侍女?」
「マリー様!」
苦い顔をするファビオに、マリーと呼ばれた女性は笑みを見せる。
「いいからファビオ、私に任せて」
流れるような所作で女性はセレナに向き直った。美しく背筋を伸ばした品のある姿勢。みすぼらしい身なりをしていてもその姿は、セレナが知るどんな女優よりも美しかった。
「私の名前はアンヌ=マリー・プレボォー」
そして、彼女は凛と張りのある声で、堂々とそう名乗ったのだ。