1. 彼女の抱える世界
どこにでもいる平凡な女子高生、セレナ・ベレッタの好きなもの――。
果物とクリームがたっぷりと入った、学校近くのパティスリーで売られてる甘〜いケーキ。これを食べてる時は、ダイエットは忘れることが必須条件だ。
同年代の女子にも人気がある、駅前のメインストリートにある可愛い雑貨店。ここの小物はどれもめちゃくちゃ可愛い。ハンドメイドのミニドレッサーがセレナのお気に入り。
せつなくて泣きたくなるような、アデリーヌ・カヴァニューの恋愛小説。読書が苦手なセレナでも夢中になって読んだ恋人達の物語。
そして、かすれた声がセクシーな、ミミ・シャルルの歌うラブバラード。眠れぬ夜のセレナのお供。
それから……
少しだけくたびれた背中を見せる歴史の教師、ジュスタン・ディエ。
――小さい頃に亡くなった彼女のママの弟。つまり、セレナの叔父さん。
*** ***
「これは何だ? セレナ・ベレッタ」
眉間に皺を寄せた中年の教師がセレナを睨んでいた。彼女の目前でため息を吐くのは、叔父である教師ジュスタンだ。
彼を中年と表現するのは、少々語弊があるかもしれない。何故なら、この男はまだ三十そこそこであり、世間一般から見ればいまだ若造でとおる年齢とも言えるからだ。
が、彼の生徒である高校生のセレナからすれば、充分中年の部類に入る年齢だった。
ジュスタンはひらひらと薄っぺらい紙をセレナの鼻先で揺らしながら、彼女を威圧的に見返す。
紙の上には文字の他に、彼によく似た男の後ろ姿が走り描きされていた。
「分かりません? 先生の背中をデッサンしたんです」
セレナは平然と答える。なかなか綺麗に描けたと彼女はその悪戯描きに自信があった。
セレナは常々、世にはびこる『オジサン』のイメージがジュスタンにはないと感じていたのだ。身内の欲目だけではない。今回彼の姿を描いてみて確信した。
気難しい顔をして俯くジュスタンの横顔は、高い鼻梁や形のよい唇の美しいラインが、その昔の繊細な文学青年だった頃と少しも変わっていない。
しかも、彼の細身の体は中年男性特有のぽってりと出たお腹などもなく、体型的にも若い頃のままなのだ。黒い艶々とした髪の間には白髪なども見当たらないし、彼の発する声も張りがあって教室の後ろの席までよく通る。
笑うと目尻にはくっきりと深い皺が刻まれるけど、それはどちらかと言えばチャーミングだと言えた。
現にセレナのクラスメートのピチピチ十代の女子生徒にだって、彼は密かに人気があった。本人に言ったら「やめてくれ」と必死になって拒否をしそうなので、絶対に教えてあげたりはしないが。
「ほら、見てよ、ディエ先生。ほのかに漂う哀愁がうまく表現されているでしょ?」
だが、セレナは知っていた。姪であるセレナだけが知ることができる真実――、一見若さを保って見えるこの教師が、十年以上に渡って苦労し続けた結果、かなり老け込んでしまったということを。
「確かに、なかなかよく描けてるな」
レポート用紙の陰に隠れたジュスタンの黒髪が、いたずらっ子のそれのように時々ピョンピョン跳ね上がって、セレナの視界に入ってくる。彼女はおかしくなってクスリと笑った。
「うふふ、私、絵の才能があるかしら?」
「かもしれんな。――だが、これは課題として提出するレポートだった筈だ」
和やかな談笑が一瞬で崩れ去った。セレナはヤバいと気を引き締めたが時すでに遅い。
歴史教師のチャームポイントの一つ、目尻の皺がピクピクと痙攣し始めていた。これは叔父が本気で怒ったときの合図だ。
彼女は急いで、悪戯描きつきの薄っぺらいレポート用紙を、教師の手から奪い取った。
「ちゃ、ちゃんと書いているじゃない。よ〜く、見てよ」
胡乱な眼差しの教師の目と鼻の先に、レポートを無理やり押しつける。彼が片眉を上げて、鉛筆書きの人物画を意地悪く覗き込むのが見えた。
「ち、違うわよ、その絵じゃなくてこっちよ、文章の方! ほら、『薔薇革命に散った最後の国王――アシル=クロード十五世について』って、ちゃんと書いてるじゃない」
「あのな、お前、俺を馬鹿にしてるのか? 義務教育を終えた学生に、そんな数行の適当に書いた散文に点をやる教師がいると思うか? ふざけるな! お前は不真面目なものを出してきたから再提出だ、分かったか」
「ええっ〜!! 何でよう、酷いわ」
彼女は必死で抗議を試みるが、十行にもみたないショボいレポートでは、どう足掻いても合格は貰えそうもなかった。
「酷いわ、じゃない。教師に馴れ馴れしい生意気な口をきいたから減点十だ。お前、あと三十点マイナスで留年決定だぞ。いいか、留年を回避したかったら今度こそまともなレポートを出すんだな」
「まともなのってどんなのよ?」
半泣きのセレナにジュスタンは冷たく宣告してくる。
「当時の主要人物の中で国王以外の人間を題材にして、レポート用紙十枚分を一週間以内に提出すること、以上だ」
「レポート十枚……?」
無理だ。セレナにそんな大層な課題がこなせるくらいなら、最初からこんなふざけたものを出す筈がない。
セレナは絶望に打ちひしがれて、いつものようにジュスタンにすがりついた。子供の頃から、最後には甘えて叔父に抱きつく癖が彼女にはあった。
「ジュスにぃ、お願い。もっと軽くしてぇ」
しかし、肉親である筈の叔父からは、冷たくてむごい一言がお見舞いされるだけだったのである。挙げ句、シッシッと邪険に振り払われるおまけ付きで。
「駄目だ! それに学校でそんな呼び方をするなと何度も言ってるだろう? ディエ先生と言え!」
「いいじゃん、叔父さんのケチ!」
セレナはべーと舌を出して、叔父の私室と化している歴史資料室を飛び出した。
冬が近い放課後の校内は、きちんと閉められた窓の隙間からでさえも冷えた空気が入り込んできて、肌寒さに身が竦むようであった。
*** ***
学校を出たセレナは、その足で蔵書の豊富な近くにある図書館を目指す。
こうなったら叔父の鼻をあかしてやる。完璧なレポートを提出して、彼女を馬鹿にする相手の舌を、こんがらがるほどにむちゃくちゃに巻かせてやるのだ。
「だいたいジュスにぃは横暴なのよ。なんで十枚? 私だけ? こっちはやもめ中年を格好良く描いてあげたっていうのにさ」
ジュスタンは一度も結婚をしたことがない。だから必然的に彼は『やもめ』には当たらないのだが、セレナには関係なかった。
「って言うかさあ、ジュスにぃなんか枯れたシスコン歴史オタクじゃないの! 彼女だっていないのよ、あの年で。重症じゃないの」
確かにジュスタンには付き合っている女性はいないようだ。
彼の話題は歴史のこと、姉だったセレナの母のこと、ついでに姪へのお小言とくれば、枯れているというのはあながち間違いではないだろう。
「見てなさいよ、私だってやる時はやるんだから」
この時の彼女は、みなぎる決意で珍しくやる気に満ち溢れていた。
そのあとに訪れる運命など、爪の先すらも想像することはできなかったのだ。
セレナ・ベレッタは首都にある公立校に通う平凡な高校生だ。
家族はさっきの教師が一人。小さい頃に両親を事故で亡くしてから、もう十年以上教師である叔父と二人暮らしを続けている。
彼女は堅物で面白みのない叔父とは違い、明るい紅茶色のふわふわ癖毛や愛らしい素顔に、適度にメイクやアレンジを加えファッションを楽しむ、ごくごく普通の現代っ子だ。
そのせいか、教師であるジュスタンとは常に言い争いが絶えない毎日だったりする。
二人が一緒に暮らし始めた頃、ジュスタンはまだ大学で学ぶ学生でしかなかった。彼は突然子供を抱え込む羽目になったにもかかわらず、昼夜関係なくアルバイトをしてセレナを育ててくれた。
口うるさい叔父だが、感謝はしている。いや、感謝どころの話ではないだろう。
小さい頃のセレナにとって、ジュスタンはまさにヒーローだった。
叔父と言うより王子様。いつかジュスにぃの奥さんになってあげる――、なんて大真面目に宣言しては彼に笑われたものだ。
小さい頃のセレナはいたって本気で言っていた。本気でジュスタンの花嫁になるつもりでいたのだ。
今は勿論そんな馬鹿げた夢は見ていない。叔父との恋愛を世間がどう思うか、いかに若くて鈍いセレナでも理解している。大人になった今、叶わない夢など見るわけがない。そう、とっくに忘れてしまった。
――いや、嘘だ。
セレナは胸に広がる、禍々しいほどにどす黒い欲望を苦々しく飲み込んだ。
今だって、今だってセレナの好きなものの奥底に居座り続けるジュスタン。
どんなに否定しようとこの気持ちが薄れることはなかった。誰にも、勿論本人にも一生言わない秘密の恋。セレナは叔父であるジュスタンに、ずっと叶わぬ恋心を抱いていたのである。
図書館に着いたセレナは、蔵書検索のために設置された端末で、目当ての本を探した。
打ち込むキーワードは『薔薇革命』だ。当時の動乱の時代を生きた偉人たちの伝記が、何点もヒットする。その中でも特に多い、ある名前に目がいった。
薔薇革命はこの国が民主化、近代化に変わる転換ともなった、歴史上もっとも悲惨でたくさんの犠牲の上にもたらされた、大いなる変革だった。
薔薇と名付けられたのも意味がある。それは一人の女性を意味してた。
それまでの王政を崩壊させる要因となってしまった、傾国の美女。当時の宮界で薔薇夫人と呼ばれ、国王までもを取り巻きに加えた悪しき女の代名詞。
マダム――アンヌ=マリー・プレブォー、ローゼンベルグ伯爵夫人。
いくら歴史が嫌いで苦手なセレナであっても、彼女の名前ぐらい知っている。つまり、そのくらい有名人だってことだ。歴史オタクの中には、世界中に熱烈な信者だっているくらいだった。
(アンヌ=マリーか、いいかも……)
ずらずらと画面に表示されたタイトルの中から数点をプリントアウトして、セレナはカウンターに持って行った。
受付の女性に貸し出しを申し出る。
セレナのレポートの対象者が決まった。
この国に革命を起こす原因となった稀代の悪女、アンヌ=マリー・ローゼンベルグ伯爵夫人に。