3 鍛冶屋の仕事
「料理できんだなー意外」
ウインナーから出汁を取ったポトフをしげしげと眺めた男は、濡らしたタオルで顔と首を拭うとどっかり椅子に腰かけた。ポトフの他には厚切りにしたトーストを二枚。ベーコンと目玉焼きをカリッとさせてのせた。
「作れって言われた気がするけど」
「そりゃあそうだ。リンは食わねーの?」
「わたしはすませてるから」
ふーん。じゃ、遠慮なく。
はむはむと湯気と格闘しながら口に運ばれていくジャガイモ。本当はコンソメがあれば楽だったけど、味付けは塩こしょうと、砂糖、にんにくで誤魔化した。せめて昆布とか、塩麹なんかがあったらと思ってしまう。こんなところだから醤油と味噌なんて言わないからさ。……料理は苦戦しそう。
食べている男をそのままに、わたしは台所の片づけに手をつける。パンはカゴに入れて布を被せて、野菜も違うカゴに戻し、ウインナーはどうしようか。ちょっとあまってしまった。
「リン」
この際だから全部使ってしまえばよかった。今さらなので、夕飯になにか作れと言われるかもしれないから、それまでは布に包んで置いてしまおう。ラップやビニールがないって地味に困る。ため息をついてわたしは顔を上げた。
「はい」
頬袋をぽっこりさせた相手は、もごもごしながらこもった声で続ける。
「お前、本当に家出したわけじゃねーよな」
ニンジンに向けられていた灰色の瞳がまっすぐと見つめてくるのに、思わずわたしは言葉に詰まった。
家出と言えば、家出なのだろうか。そもそも唐突に家なき子になったようなもので、拾われた先である城からは勝手に出てきてしまった。少し意味合いが違うが、完全に否定はできない。
そんなわたしの微妙な空気を察してしまったのか、相手はものすごく呆れた顔をして口を開こうとした。慌ててわたしは首を振る。
「家出ってわけじゃ、ないと思う」
「じゃあなんなの」
「いや、その、帰る家はないけど」
全部話してもいいのか、迷う。さっき会ったばかりのよくわからない男に、洗いざらい話していいのだろうか。それとも、無難な嘘をついてしのぐ方がいいのか。その方が波風立てないですみそうだし、万が一城から追手が来たときにこの人が咎められることもないと思う。
一瞬の間を挟んだわたしに、灰色の目はそらされることはなく静かに見据えた。
「じゃあ、昨日の晩はどこにいたんだ」
わたしはため息をつく。
「……お城」
「城?」
「そう。あそこのお城」
窓から見えるメルヘンな建物を指さすと、三秒の間があく。
ごくんとジャガイモを飲み下すと、やはり男は呆れた顔をそのままにした。
「一応訊くけど。城でなにしてたの」
ああ、もう面倒くさいなあ。もういいや。
そうです、わたしはなんだかんだでこの男を信用しようと思っちゃっているのです。騙すつもりならもっと耳に心地よい言葉で攻めてくるはずで、こんなに赤裸々に己の欲望をさらけ出してくるんだから、もうそのとおりに受け止めよう。それで騙されたらわたしが悪い。それはそのときに考えます。
「……四人目の側室なんですって。二ヶ月くらい前にいつの間にか広場にいて、そのまま城に缶詰されてました」
四人目の側室というと、町の人にもロッチェの女神降臨と知れ渡っている。
もちろんこの男だって曲がりなりにも客商売をしているのだから、知らないはずがないだろう。まして、女神なんて言われちゃってる女のことだ。どんな尻と胸の持ち主かと興味を持ちそうじゃないか。
「ロッチェの女神?」
ほら、やっぱり知ってるんじゃん。
「そんなんじゃないです。……どうにも、世界が違うらしいけど」
「ふーん。聞いた話じゃ、ずいぶん変わった娘ってことだったけどなー。――城の人、探してんじゃねーの?」
「たぶん見つからないと思う。そもそも、わたしがあそこにいる意味なかったし、そんなに力を入れて探すかもあやしいかと」
驚いてはいる、ようだけど。意外と平熱な返事をされて内心でこちらが戸惑う。
「そんで、あんたは戻りたくねーってことな。そりゃあわかったけど、探しはするはずだ。こんな近場じゃすぐ見つかるぜ」
いいのかと尋ねる相手は、わたしが見つからないと思っていることが浅はかだと言っている。そう言われても、カーミャリーコを見つけるのは結構難しいはずなんだけどなあ。
どうしたものかと視線を巡らせると、適当に置いたままだったわたしの荷物が目に入る。じゃあ、実際に見てもらった方が早い。
「ひとまずそれ、食べちゃってくださいよ。そしたら見つからない理由を見せますから」
百聞は一見にしかず。
断じて、説明が面倒になったわけじゃない。目にしてもらった方が説得力があると思ったのであります。
食事を終えた食器を流しに運んでから、わたしは自分の荷物から化粧ポーチと鏡を取り出して文字通り化けた。
側室第四号カーミャリーコになるために、BBクリームを塗ってからコンシーラー。指で叩いてくすみを消したら目を中心にいじる。ベースを塗ってから眉毛を描いて色も変える。次に睫毛の際にラインを入れ、瞼に四色のアイシャドウでグラデーションを作った。ぼかしが大切だと個人的には思います。睫毛にビューラーをしてマスカラをつけたら満を持して付け睫毛。付け睫毛がここでは貴重なので、マスカラをつけないようにしたんです。貧乏の浅知恵でございます。
シェーディングをさっとして頬にチークをのせたら、今度はTゾーンにハイライトを。立体感大事。あとは、口紅を塗ってその上にグロス。ぷるっぷるでつやっつやな唇を作り上げた。
よし、こんなもんか。上司の化粧品を意図せず借りパクしているけど、もう今までの迷惑料ってことでいただいてしまっている。返せないし。迷惑料としては安いもんですし。髪をほどいて手櫛でなじませ、鏡から顔を上げると唖然とした男と目が合った。
口を半開きにしたまま、まじまじと見開いた目で眺めてくる相手は、音もなく感嘆の息を吐く。
「……お前、それは詐欺だろう」
「引っ叩きますよ」
ほんっと正直だな! たしかに、化粧すると顔は変わりますけど。あえてそういうふうにやっているから、余計に別人の仕上がりだと思う。
本当は世の中でいうところのナチュラルメイクが好みで、仕事でも出かけるときでも色味を抑えて目もここまでいじらない。むしろ、アイライナーも付け睫毛も使わない。だって、あのときは結婚式だったんだもの。
「これは、うん、見つからねーな。女ってこえーな」
「それはどうもありがとうございました」
それじゃあ、納得もしてもらえたことだし。さっさと化粧落として食器も片付けてしまおう。
化粧を洗い始めるのをそんなに残念そうに見たって無駄である。石鹸を借りて泡立てれば、素早くクレンジングに取りかかってしまう。
なにか言いたいことでも? 素顔で振り返ってそう尋ねると、男は唇をとがらせて意思を訴えたものの、言葉にすることはせずにしょんぼりと肩を落として返事をした。俺のロッチェ……。悲しみに染まったかすかな呟きも聞こえたが無視無視。ままならないのが世の常である。
鍛冶の仕事とは、想像とそれほど違わなかった。
この世界には王様や貴族がいて、わたしを雇うと言い出したやつみたいに鍛冶屋だったり武器屋だったりとファンタジー世界にありがちなお店もあるので、当然ながら冒険者なんて職業も存在している。わたしからすればなんの冗談かと思う。
これが日本で言うところの冒険者とは違うのはおわかりだろう。どちらかというと、ああいう人たちは冒険家とか探検家と言われていたと思うし。
ここではRPGとか小説、アニメ、映画などなどに登場するように、ギルドに登録して依頼を受けて生活する冒険者がそれである。どうにもモンスターというか、獰猛な動物も各地にいるらしいので、その退治もするらしい。実際にお目にかかったことがないから、らしいらしいとしか言えません。すみません。
そんな彼らが使っている武器や防具の修繕、強化、あとは鍛冶屋オリジナル製品の作成。とりあえず、金属の加工を担っているのが鍛冶屋である。
「簡単に雇ってやるって言ったけど、俺が扱うのは刃物がほとんど。防具だって結局は争いごとで使うもんだ。そのへんはよーくわかってねーとしんどいぞ。あとは、熱いし疲れるし汚ねーし。正直言ったらわりに合わねーことばっかり」
カンカンカン! 窯の前で鋼に向き合いながら、男は唐突に言った。
わたしは散らばった道具を並べ直して、その位置を確認する。いらない紙で作ったメモ帳に、絵と自分なりの説明を書きつけて覚えているのだ。
「職人さんの腕で成り立つ商売なのはわかっていますよ。だからお給料も当面いりません。ランスロットさんがわたしを使えると判断したら、そのときに見合った額をください」
場所はこれでいいな。あとは、材料の種類と用途。いろんなものの工程。一日の仕事内容と流れのサイクルもよく見ておかなければ。こういう職人さんは一度教えたら二度目はないかもしれないし、むしろ一度目の指導もあるかどうかもあやしい。背中で覚えろ態勢だったら必死に彼の仕事風景を見ていないと。
メモをしながらきっぱりと言ったわたしに、ランスロットさんは鋼から顔を上げて目を丸めた。
「リンはそれでいいのか」
こちらから無償労働を申告してくるとは思っていなかったのだろう。わたしはうなずく。
「住ませてくれるってことが十分すぎる報酬だと思いますけど。こういう仕事って、普通は子供のころから覚えていくものでしょう。わたしはまったくの素人だし、使えるようになるまで二、三年はかかるんじゃないですか」
じっと、灰色の瞳がわたしを見据えた。おふざけの色はいっさいない、見定めるような強い視線だった。
「覚悟は、あるんだな」
「はい」
成り行きではあったが、生半可な気持ちのつもりはない。生きなければならないんだ。与えてくれるのなら、甘んじて受け取る。きつくても辛くても、生きるための土台がなければ死ぬしかない。城で保障されていた最低限度の生活を蹴ったのはわたしだ。
はっきりと返事をすると、男は視線をそのままにうなずく。
「わかった。おまえがついてくる限り、俺はそれに応えよう」
じゃ、始めるか。そう言って男はふいと顔をそらした。ぽりぽりと頭を掻いてから、そこにある炭全部持ってこいとぶっきらぼうに告げる。
カンカンカンと金槌の音が響いて、ぱちりと炎がはぜた。
ランスロットさんは、よい師であった。
たまにセクハラされるけど、いやたまにじゃなくて結構頻繁にセクハラされるけど、鍛冶に関しては誠実な姿勢を貫いた。
作業場の掃除や、窯の火入れ、水汲みから始まって、もうすぐひと月経つ最近は包丁の研ぎ方を体に教え込まれている。
日が出る前に起きると、簡単な身支度をしてすぐに作業場での仕事が始まる。釜の調整をして一段落したら、町の食堂で朝ごはん。あとはお客の様子で切りがいいときに昼食を食べに行き、夕食までも作業。夕方、わたしがひと足先に抜けて買い物をすませて準備が整えば、日暮れと共に作業場が閉まる。そんな一日を繰り返してようやく慣れてきたところだ。
ずぼらそうな見た目に反して、ランスロットさんはわたしが鍛冶業にかかわることと丁寧に向き合ってくれているように思えた。厳しいことを言われ、ときには叱りつけられるけれど、そういうことじゃなくて。
ここで扱うものは、人の命にかかわるものが多い。その重さをまだ、分けてくれる気にはならないらしい。
というのも、意味合いとしてはそういうものに関わってほしくないと思っているようにもみえた。争いのない世を愛すロッチェの女神とわたしは別人だけれど、彼の中ではまだわずかにつながったままなのかもしれない。聞けば、あの花祭りで王様が剣舞を披露する際、使われる剣はランスロットさんが鍛造したものなのだとか。
争いに使われない剣を愛したロッチェの女神。そんな彼女はランスロットさんにとって特別な存在なのかもしれない。
わたしが触らせてもらえるのは、刃物なら包丁。あとは、鍋などの金物。そして少しずつ装飾品の加工もやり始めた。
いずれは武器や防具の鍛冶だって身に着けなければならないが、他のもので生計を立てられればそれに越したことはないということのようだ。
いつだったか、テーブルに置いていたシルバーリングを興味深く眺めた師匠に、祖父と一緒に作ったのだと言ったら詳しい話をねだられた。わたしの以前の生活や日本のことはなんだかんだと話していたので、一応世界が違うことはわかってくれているようだけれど。
蝋を削ったり彫ったりして形を整え、できあがったものを石膏で固め、そうして作った型に銀などの溶かした金属を流し込む。そんな手法で作られたリングを、彼は褒めた。
素人の作ったものだと言っても、どこの誰だろうが腕のある職人に敬意は惜しまないんだよ、なんて返されてしまった。そんなふうに言われると困る。ただのセクハラ親父とか言えなくなってしまう。
その翌日から、蝋の塊と彫刻刀やナイフを渡された。
家事もわたしがやることになったので、食事の支度や洗濯を間に挟むが、それ以外はわたしも師の背中を眺めながら包丁を研ぎ、蝋を削る日々である。
「包丁だからって、気ぃ抜いてんじゃねーぞ。刃物だ。忘れるな。おまえの持つそれは、ものを切る道具だ。便利な道具として使うのか、危険な武器として使うのか、それは持った人間が決めることだ」
水につけた砥石に包丁をすべらせる手つきをじっと眺めながら、師匠は明日の天気でも話すかのように口を開いた。ついさっき、わたしの二の腕のやわらかさについて述べた同じ声のはずなのに、ずいぶんと違ったものに聞こえる。
「おまえのそのひと叩きで、ひと研ぎで、人の命を左右することを忘れるな」
静かなその声は、水が石に染み入るかのようにわたしに響く。わたしは武器も防具も触れない。けれども、彼の言いたいことは、そうではないのだ。ここで日々を重ねるにつれてひしひしと感じた。
もっと強く、丈夫に作ることができていたなら、剣は折れずに危機を打開できていたかもしれない。持ち主の命を助けていたかもしれない。また逆に、その分たくさんの命を奪っていたかもしれない。
防具でも同じこと。強ければ身を守り、弱ければ危険を招く。
助けもし、奪いもする。なんて、怖いことだろう。
強い武器を作っても、所詮は命を奪う道具である。もしも強固な防具を敵が身に着けていたとしたら。それが壊れるまでにどれだけの味方が傷つくだろう。弱くて使いものにならないのでは、話にならない。かといって、傑作と銘打つものを作っても言い表せない虚しさだけが残る。
「怖いか? ――なら、まっとうだと俺は思うよ」
ふっと瞳をやわらげて笑ったこの人は、ずっとそれを持て余していたのかもしれない。
だからわたしには装飾品を覚えさせ、自分はロッチェの女神を愛しているのだろう。
「リン! そういえば、そろそろひと月経つんじゃないかい?」
唯一作る夕飯のために夕方買い物をするようになったわたしは、すっかり町のなかにもくわしくなった。ピアスなんかを売ろうとした装飾店品は、鍛冶屋の三軒隣だったし、毎日行く肉屋や八百屋は広場に向かって歩くとすぐに目に入る。
そんなわたしが、この日鶏モモ肉と豚の塩漬け肉を買ったら、肉屋の女将さんが思い出したように声を上げた。
ひと月。そういえば、わたしが城を脱走してから数えるとそうかもしれない。頭のなかでカレンダーを思い浮かべても、ちょうどそのころである。
「あっという間だったなあ。もうひと月経つのか」
「あんた、そのほそっこい腕でまして年頃の娘がランスのところに弟子入りなんて言うから、本当この辺のやつらはびっくりしたもんだよ。よくもまあ、あのランスがねえ」
ランスロットさんは町の人からも鍛冶の腕に一目おかれているらしい。わたしに花祭りの剣の話をしたのは他ならぬこの女将さんで、こうしてほぼ毎日顔を出すからすっかりわたしも町の事情に詳しくなってきている。
「剣を触らせる気はないみたいですけどね。でも、まだひと月だし。弟子って名乗れるほどでもないし」
「今まで弟子なんて取ることなかったんだよランスは。よっぽどあんたのことが気に入ったんだねえ。あとはふらふらしなきゃいいんだけど」
腕はいいし、意外と面倒見もいい人なのに、頭のなかはおめでたいという残念なランスロットさん。
何度も言うが、仕事に関しては本当によい師である。厳しいし妥協は許さないし彼の方針がぶれることはないけど、わからないことは訊けば丁寧に教えてくれる。頭もよい人だと感じるのは説明してくれているときだ。きちんとわかるように伝えるって、実は結構難しい。それを難なくやってのけるんだから。そういうところが、あのぼさぼさ頭でガラの悪い風貌を裏切っていると思う。
ここでの常識を知らないわたしに、仕事のことも日常のことも言葉を噛み砕いてのみこませるんだから、彼も相当気が長いんじゃないか。唐突に始まった共同生活もなんだかんだでうまくやっていると思っている。世間話するようにセクハラされるのが玉に瑕だけど。あ、あと夜は酒盛りもするけどたまに出かけてます。まあ、成人男性ですからね、そういうことなんじゃないでしょうか。
一見素行の悪そうなランスロットさんだから身構えてしまうが、こんな感じに世話を焼いてくれ、鍛治の腕はピカイチ。冒険者の利用同じくらい、町の人の鍋やら包丁やらの生活雑貨の利用も多かった。意外と慕われているようだ。本当、あの人といると意外だと思うことが増えていく。
女将さんだって、そんな仕事に誠実で他人を踏み入れさせないランスロットさんがわたしを拾ったことが意外なんだろう。ふらふらってところはセクハラしてくるところと、夜の出歩きのことかな。それについては、わたしもお給料もらえるようになったら住み込みから通いに変えないとと思う以外は、口を挟めることでもない。曖昧に笑うと、あんたも大変だねえと女将さんも笑った。
「そうそう、もうひと月って話だったね。聞いたよ、リン。ランスはあんたに給料をさあ」
「ああ、当面出さないって話? あれはわたしが言い出したことだけど」
「そうじゃなくて――」
おーい、と店の奥から肉屋の主人が声を張って、女将さんがはいよ! と振り返る。
余計なこと言ってねえで包んでろ。余計なことってなんだい、あたしはリンに早く教えてやろうと。いいから、さっさとしろ。
「あとでランスに顔出せって言っていてくれ」
不満顔の女将さんを奥に押しやると、かわりに出てきたいかつい主人がそれだけを伝えた。やだねえ、せっかちな男は。ぶつぶつ言う女将さんが注文分を手渡してくれたのに、仲がいいなあと笑みがこぼれた。
ぐてっとした巾着がテーブルに置かれていて、わたしは思わず目をぱちぱちしてから首をかしげる。
夕食に鶏のトマト煮を作ったわたしは、ごろりと鶏の転がった器を並べると席に着いた。今しがたサラダとパンを置いたときにはなかった巾着は、明らかに重いものが入っている崩れ方だ。
黙って椅子に座っている男の顔は、あまりかんばしくない。むすっとして機嫌が悪く見えるし、実際あまりよくないのだろう。
「ランスロットさん、なんですかこれ」
「今月の給料」
ぼそっとした声に、まばたきをひとつ。
なんで? とわたしが口を開くまえに、憮然とした師匠はこれ見よがしにため息をついた。
「言っとくけど、肉屋の女将さんに言われたからこうしてんじゃねーからな。俺はもともと、おまえにちゃんと払う気でいたの」
ふいとそっぽを向いてぽりぽりと頭を掻いたあとで、もう一度ため息を。
払う気でいたと言いつつ、なんでこんなに嫌々というか気が進まない様子なんだろう。
言葉通りの話なら、夕方に肉屋の女将さんが言おうとしたのは給料がもらえない話ではなくて給料をもらえる話であって、それをご主人が余計なこと言うなと遮った。そしてランスロットさんを呼びつけて、一連の流れを説明したということなのだろうけれど。
なんでまた、こんなにぶすっとしているんだか。仕事中にこんな顔はしないし、鍛冶以外のことでは基本的に飄々としているだけに本当にわからない。わからないけれど、それよりも訊かねばならぬことは別にある。
「わたし、まともに働いてないです」
それなのになんでお金がもらえるのか。わたしの仕事ぶりに納得したら払うと言った。それが何年先でもかまわない。この師も、その考え方には賛同してたはずだ。
こんな部分であまやかすような人ではない。それなのにこうするということは、逆にあまりにも出来が悪すぎてのことなのか、哀れみからなのか。
眉を寄せたわたしに、ランスロットさんはあの灰色の瞳をまっすぐと向ける。一瞬にして不機嫌の虫は鳴りを潜め、ただただ強い意志の目がわたしを映す。背筋が自然と正された。
「俺は、おまえのその覚悟を買ったんだ」
はっきりと、その声は響く。射抜くような目に、呼吸が止まりそうになる。
困る。この人はこうしてたまにわたしを困らせる。
飯が冷めるぞ。むすっとして目を逸らすと、ランスロットさんはぼそりとそう言ってから自分の髪を混ぜた。巾着をちらりと見て、さっさとしまえよと逃げ道をなくして行くのだから、ありがとうございますと両手で受け取る。すると静かに食事が始まった。