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レイン  作者: 天神大河
#01 罪ある世界―Guilty my-world
8/15

 神楽はいつもの通学路を、傘を差しながら歩いていた。夜明けごろから大粒の(しずく)を吐き続けている空は昨日よりも暗い灰色の乱層雲に覆われ、黒い傘布にも大小さまざまな音がひっきりなしに響く。神楽はふと、長時間に(わた)って強い雨が降る、と今朝の天気予報で言っていたことを思い出す。

 昨日みたいに、午前中であっさりと止みそうにないな。心の中で思わず溜息を吐いていると、いきなり後ろから肩を掴まれた。神楽は反射的に小さな悲鳴を上げ、肩を上下させる。

「びっくりしたか? おはよっ!」

 神楽が振り返ると、そこには瀬崎が立っていた。悪びれる様子のない笑顔から白い歯を覗かせる彼を前にして、神楽は目線を少し下に寄せる。

「あぁ、瀬崎、おはよう」

「何だよ神楽、元気ねーな」

 瀬崎が神楽の顔を凝視する。神楽は、そんな彼から逃げるように顔を逸らす。

「き、昨日勉強とかしてたから。大丈夫だよ」

「ふーん。ま、いいけど」

 瀬崎は物足りない様子で踵を返し、駅の方へ向かって歩き始めた。神楽も、そんな彼を見てゆっくりと歩を進める。眼前にある大きな紺色の傘がゆらゆらと動き回るのを見ながら、神楽は考える。これから瀬崎とどう接したらいいのだろう。

 瀬崎とは、高校に入ってすぐに知り合い、それ以来高校三年間のほとんどを共にしてきた間柄だ。学園祭や修学旅行など、様々な経験をとおして、瀬崎という人間を自分は十分理解しているつもりだった。だが、昨日の一件で瀬崎という人間がたちどころに解らなくなってしまった。

――今、この世の中はあの女のように『従属』することのみに生きている人間がほとんどだ。自分自身が支配されているとも考えられない『人間もどき』――そんな連中が世の中を操り、蹂躙する。自分が生きる意味も考えずに、だ。

 昨夜の犬飼の言葉が、鮮明に神楽の脳裏に響く。瀬崎がそんな人間であるとは思えないのだが、正直、恐ろしい。普段からぼくを引っ張ってくれる彼の本質が、実はそのようなものだとしたら。そして、自分自身もやがて、そんな人間になってしまうとしたら。

「なあ、神楽」

 不意に瀬崎が声をかけてきた。神楽は、自らの考えを瞬時に消し去り、声を裏返らせながら返答する。

「な、なんだ、瀬崎」

「ちょっと思ったんだけどさ、お前、なかなかおれのことを下の名前で呼ぼうとしないよな」

「え?」

 唐突な話題に、神楽は返す言葉を失った。瀬崎は、神楽を振り返らずに続ける。

「いや、何と言うか、お互い高校に入ってから知り合ったわけだけど、考えてみたら名前で呼ばれたことなかったからな。だから、おれって本当は嫌われてんのかなーって」

 いつもの瀬崎にしては珍しく、弱々しい発言だった。これまでにそんな話をしたことは一度もなかったし、瀬崎自身も特に気にした様子はなかったからだ。神楽は、どうにかこうにか思案して、言葉を振り絞る。

「まさか。だったらこんな風に一緒に登校なんかするか」

 神楽は、背中だけを向けた親友に向けて作り笑いを見せる。

「それに、名字で呼んでいるのは、そっちの方が語呂が良いと思ったからだ。別に深い意味なんてない」

 神楽がそこまで告げると、不意に瀬崎がこちらを振り向いた。その顔は、たった今シリアスな質問をしたばかりだということを忘れさせるかのような笑顔だった。

「ハハ、だよなあ。おれどうかしてたよ」

 陽気な口調で話す彼を目にして、神楽は苦虫を噛み潰したような表情を見せる。いきなり変なことを聞いておいて、何もなかったかのように自己解決かよ。無駄に心配させやがって。そう心の中で呟きながら、神楽は瀬崎の肩にポン、と軽く手を置いた。

「ったく、しっかりしてくれよ。調子狂うなあ」

「ごめんごめん」

「行こうぜ。電車の時間が迫ってるからな」

 神楽は淡々とそう言うと、瀬崎の脇をすり抜けてすたすたと歩き出した。だが、神楽はすぐに自分一人だけの足音しか聞こえないことに気づく。ちらと振り返ると、瀬崎は紺色の傘を持ったままその場に立ち尽くしていた。神楽は口元にわずかな笑みを見せながら唇を動かす。

「どうした、まだ何かあんのか?」

 そう口にする神楽の口調は、まるで小さな子供を宥めるかのようだ。その言葉を聞いた瀬崎は、神楽へと顔を向ける。その表情もまた、神楽と同じように小さく笑んでいた。やがて、おかしいことだけどさ、と瀬崎が口火を切る。

「おれさ、たまに自分が分からなくなることがあるんだ。気づいたら何でこんなことやってんのかな、とかさ。まるで、おれの意思がどこか機械的になっちまったかのような、何というか。要するに、おれがおれじゃないみたいな、そんな錯覚に時々なるんだ」

 ゆっくりと言葉を選びながら告白する瀬崎の顔から、次第に笑顔が消えていく。代わりに不安と恐怖に駆られたかのように声が震え、瞬きを速めていった。

「昨日の昼休みの時もそうだ。本当は、少しだけ、どうしても思い出せない部分がある。あの時は単に笑い飛ばして流したけどさ、怖いんだ。このままじゃ、おれは何も実感できずに、感覚がただ(うつ)ろなまま生きていくことになるんじゃないかって。なあ、神楽」

 瀬崎が沈痛な面持ちで神楽に尋ねる。

「おれって、何者なんだ? 何のために生きてんだ?」

 神楽は、そんな彼の問いに答えることができなかった。やがて、瀬崎がやっぱりいい、と一言呟いて駅へ向かい出したのをきっかけに、二人は暗黙のまま駅へと歩いて行った。


 いつもの時間から少し遅れて、神楽たちは駅に着いた。それでもまだ学校の刻限には間に合う時間だったので、二人は少し安堵する。そのまま最新式のエレベーターに乗り、大勢の学生や高齢者と共にホームに出ると、強い雨風がトンネル越しにホーム内に入り込んでいた。眼前に吹き付ける風に、神楽と瀬崎は思わず目を伏せる。

「うわっ、マジかよ」

 そう言いながら瀬崎は持っていた傘をいそいそと開く。それに続くかのように、エレベーターから降りてきた人々も傘を開き始めた。神楽もその場で、やや上向きの体勢で傘を開こうとしていると、不意に後ろにいた人物と身体がぶつかった。神楽が振り返ると、傘を差した五十代の男が怪訝な顔をしながら、神楽を見下ろしていた。

「君、危ないじゃないか」

 すみません、と言ってすぐに神楽はぺこりと頭を下げる。男は小さく舌打ちをすると、そのまま周囲の人たちに倣ってホームに並んだ。どうやら、彼は神楽たちと同じ電車に乗るようだった。

 神楽は気まずい思いのまま、傘を開き、瀬崎の隣に並ぶ。神楽は瀬崎の顔をちらと窺う。表面的にはいつもの彼と大して変わらないが、先ほどと変わらぬ重々しい空気を未だ湛えているように感じられた。何か話さなければ。そう思い、神楽は言葉を発する。

『あのさ』

 図らずも、瀬崎と言葉がハモってしまった。神楽は思わず目を逸らす。

「どうしたんだよ」

 神楽はしどろもどろに言葉を返す。そんな彼の視線は忙しく右往左往していた。瀬崎はそんな彼を見て、思わず軽い溜息を零す。

「神楽から先に言えよ。おれのはそう大したことじゃないし」

「そ、そうか」

 神楽は落ち着きを取り戻そうと、ハンカチを取り出して額に浮き出た汗を拭う。緊張したり、混乱したりするとすぐに汗を掻くのが彼の生まれついての癖だった。

「あの、さっきの話の続きだけど」

「ああ」

 瀬崎が平坦なトーンで相槌を打つ。そんな彼の様子を見て、神楽は思わず言葉に詰まりそうになったが、どうにか自分の頭の中の台本通りに口を動かす。

「ぼくは、瀬崎は瀬崎だと思う」

 そう言って、神楽は瀬崎の様子を窺う。彼は、格段笑ったり唖然としたりするでもなく、黙って真剣に話を聞いていた。

「いや、何て言うかさ。昨日、ある人がぼくに言ったんだ。『ぼくたち人間は、誰もが生物観や倫理観に決して囚われることのない真の自己を持っている』って。だから、その、急に自分は何者だって言われても、結局瀬崎は瀬崎だろ。授業中に寝たり、ぼくたちとばかな話題で盛り上がったり。ぼくはそんな瀬崎しか知らないから、ちゃんとしたことは言えないけど、瀬崎が本当に心から楽しめると思ったり、自分自身を実感できる時が本当の瀬崎なんじゃないか、とぼくは思う。瀬崎はさ、ぼくと話したりして楽しいとか、思ったことがあるか?」

 神楽のその問いに、瀬崎はああ、と言って頷いた。神楽はそんな彼を見て些か安堵した気持ちになる。

「だから抽象的な答えかもしれないけどさ、自分が楽しく生きることができているなら、それでいいじゃん。無理して自分を偽るよりも、自分自身に正直に、信じて生きていけばこそ、瀬崎は瀬崎だとぼくは思うし、生きている意味も大きいんじゃないか?」

 神楽はそこまで言うと、猫の毛繕いのようにぽりぽりと右のこめかみを掻いた。これで良いのだろうか。そう彼が思案していると、瀬崎が軽快な口調で話し始めた。

「そうだな。おれはおれ、神楽は神楽だもんな」

 瀬崎は神楽を見上げて、にかっと歯を見せながら笑った。その顔には、先ほどまでの鬱屈(うっくつ)としていた様子は微塵(みじん)もなく、いつも彼が見せる笑顔が戻っていたように神楽には感じられた。

「やっと本格的に調子が戻ったか」

「おう」

「人騒がせな奴だ」

 神楽は一息ついて、瀬崎の顔を見下ろす。

「で、瀬崎の番だぞ。どうしたって言うんだ」

「あぁ、それは」

 神楽の問いに、瀬崎は少しの間視線を泳がせ、はにかんだ笑顔でこう告げた。

「やっぱり何でもないや」

「えー」

 神楽は肩を落とした。会った当初からそうだったが、瀬崎が気紛れな男だということをあらためて再認識させられる。

「あのなあ」

「あっ、おい、電車が来たぞ」

 そう言って、瀬崎は電車の方向を指差した。神楽もその方向を振り返る。電車は雨の中、白いライトを点灯させながら線路上を進んでいた。

「それにしても、神楽」

 瀬崎が神楽の顔を覗き込む。

「な、何だよ」

「さっきのアレ。何やってんだよ、お前」

 そう言って、瀬崎は先ほど神楽がエレベーター前でぶつかった男を指差した。神楽の顔がたちどころに赤くなるのを見て、瀬崎は口角をぐっと上へ持ち上げる。

「うるさいな、うっかりしてたんだよ。それと、人を指差すな」

 神楽がそう言っている間に、電車はいつもの場所で静かに止まった。それと同時に、神楽たちホームの人間はほぼ同時に傘を仕舞っていく。その様はまさに、洗練された演劇のワンシーンのようだった。そして電車の自動ドアが開くとともに、大勢の人間が一気に雪崩れ込んでくる。それ自体は、この時間の電車の昇降時にはいつものことなのだが、今日はそれに加えて冷たい雨風から早く解放されたい、といった気持ちがより忙しく移動する彼らに混じっていたように、神楽は感じられた。

「うはー、いっぱいだあ」

 電車内に入るや否や、瀬崎が感嘆の声を漏らす。事実、電車の中は座っている人の割合が見るからに多く、神楽たちが座れそうな席を探すのは至難の業だった。さらに、電車の床の大部分が雨水を含んだ乗客の靴跡によってしとどに濡れ、それはあたかも花瓶の水をそのまま床に零したかのようだ。そんな中、神楽と瀬崎は滑ったり、人にぶつかったりしないように慎重に移動しながら、手近な吊革に掴まった。鞄を棚の上に置き、一息ついてから瀬崎は、左手で吊革を掴み、右肘から畳んだ傘を垂らしながら右手でブレザーのポケットからC-Iを取り出した。

「せっかくのゲームも立ったままだとやりづれーな」

 右手で素早くC-Iを操作しながら瀬崎はぶつぶつと呟き、舌打ちをする。神楽は、そんな彼を尻目に、鞄から参考書を取り出し、チャックを閉じて鞄を棚の上に置いた。すると、それと同時に電車が湊31エリアステーションを出発し、いつもの電車通学が始まった。

 ある者はC-Iのコンテンツを享受し、またある者は隣に座る友人知人と他愛のない話をする。神楽は、そんな大勢の中でどうにかバランスを保ちながら、片手で器用に参考書のページを()り、中に掲載されている問題の解法を確認する。

 その中でふと、視界の左端に黒いイヤホンを両耳に付けて、黙々とカバー付きの本に視線を落としている少女が目に入った。悠紀だ。人混みの隙間から見える彼女の姿を目にして、神楽は悠紀の左手の甲から左手首にかけて、丁寧に包帯が巻かれていることに気付いた。確か昨日はそんな怪我はしていなかったはずだ。

 いったい、どうしたんだろう。神楽は昨日の記憶を探っていく。

 その瞬間。

 突如神楽の耳に激しい電子音が響いた。それはとても甲高く、固いものを爪で引っ掻いているかのような嫌な音だった。神楽は咄嗟に両手で耳を塞ぐ。その際に落としてしまった参考書には目もくれなかった。

「何だ、この音!」

 神楽は耳を塞ぐことに神経を(とが)らせながら、視線を周囲へと向ける。たった今まで多種多様な行動を起こしていた周りの人間は、一変してまるでマネキンのようにぴくりとも動かず、無表情だった。神楽の脳内で、昨日の昼休みの出来事がフラッシュバックする。まさか、嘘だろ。神楽は目の前の現実に困惑していた。

 昨日の出来事は白昼夢などではなかった。加えて昨夜の犬飼の発言。神楽の頭の中でこの二つの出来事と現在の状況とが、パズルを解き明かすかのように繋がっていく。しかし、それでも彼は未だに目の前の状況を信じきれなかった。現実で周りの人間が全員同じ行動を同時に取るなんて、やはり偶然ではないのか。違うとしたら、テレビか何かのドッキリだ、そうに決まってる。

 やがて、塞いでいた耳の隙間から入り込んでいた電子音が止んだ。神楽は両手を耳から放し、心の奥底から湧き上がる予感を抑えながら側にいた瀬崎に声をかける。

「瀬崎」

 瀬崎は俯いた状態で、何も言わずC-Iの画面に見入っていた。指一本動かさず、ただC-Iの画面だけが鈍い光を放つ。神楽は、今度は瀬崎の肩に手を置こうとした。神楽の頬から一筋の冷たい汗が流れ出る。頼む、悪い夢であってくれ。そんな思いを抱きながら、手を置こうとした寸前、瀬崎の肩がゆっくりと動き出し、神楽の方を振り返った。

 神楽に向き直った瀬崎の顔色は、昨日の昼休みと同じように目の焦点が定まっておらず、ロボットのように一切の表情を映していなかった。神楽は、そんな瀬崎の表情を見て、全身の血の気が引いていくのを感じると同時に、昨日の出来事は夢などではなかったのだ、ということをあらためて確信する。そして、瀬崎の唇が淡々と動く。

「目標を、捕捉する」

 そう言って、瀬崎はある一点を注視する。神楽も彼の見つめる先を追いかける。その先では、大勢の老若男女が見る間に群がり、人だかりができ上がりつつあった。神楽は、その先に少女――櫛夜那悠紀がいたことを思い出し、動揺する。

「何やってんだよ」

 瀬崎の左腕を掴む。すると、彼の身体の体勢は簡単に崩れ、神楽に凭れかかる形になる。

「何なんだよ! どういうことか、説明しろ! 瀬崎!」

 そう強く迫る神楽の表情は、未だこの現実を受け入れられないことに対する恐怖と、それに対する合理的な答えによる心の安寧とを求めているかのようだった。瀬崎は、神楽に掴まれた左腕に力を入れ、強引に()()ける。その時に一瞥した瀬崎の眼に、親友の姿はどこにも映っていなかった。神楽は舌打ちし、人だかりへと駆け寄る。狭い隙間を縫うようにしながら、どうにか人混みの先にある少女の眼前にまで辿り着いた。

 悠紀は膝上に本を閉じた状態でぽつりと座っていた。彼女は、大勢を前にしても動じなかったが、ただそんな彼らを見上げる瞳には並々ならぬ強い敵意が読み取れた。対して、そんな悠紀を見下ろす者たちは無言を以てその場の空気を支配し、彼女に負けじと強い威圧感を醸し出す。危険だ。神楽は意を決して、息を整えた。

「櫛夜那さん!」

 神楽が乾いた大声を出す。今まであまり話したことのない相手だったため、その声には多少のぎこちなさが残った。悠紀もまた、自分を呼びかける声がした方を振り返る。

 その時だった。彼女の身体から向かって右前方に、三十代後半ぐらいのスーツを着た小太りの男性が、右手を伸ばし悠紀に迫っていた。神楽はそれに気付き、危ない、と声をかけようと口を開く。

 だが、それよりも早く男が少女の右手首を押さえていた。


 悠紀は、一瞬掴まれた手首越しに小太りな男の姿を垣間見る。

「放せよ! クソッ!」

 男の手を振り解こうと、手首をぶんぶんと揺らしながら悠紀は声を張り上げる。しかし、開放されるどころか、彼女を拘束しようとする手が立て続けに現れる。伸ばされる腕はまるで獲物を絡め取る蜘蛛の糸のようであり、悠紀の両腕はたちまち自由が利かなくなった。はじめは全身をばたばた動かして抵抗していた悠紀も、やがてはたと手足を止め、睨み返すことだけに留めた。

 これ以上は、足掻くだけ無駄だろう。

 眼前に迫る無数の瞳。それらは今や機械的に獲物を捕獲することではなく、手中に収まった獲物が殺されまいと足掻く様を見て(たの)しんでいるように映った。こいつらを(よろこ)ばせる抵抗なんて、こっちから願い下げだ。

 だが、自分は屈してしまった。目の前の状況に。負けたくない、と誓ったのに。悠紀は、かつての自身の思いと、現在の自分の姿とを比較して思わず噴き出しそうになる。その時だった。

「やめろ!」

 突如、悠紀の耳に叫び声が響く。そんな彼女の視界の端に、大勢の中から割って入ってくるクラスメイトの少年――依砂鷺神楽が映る。神楽は伸ばされた腕の群れの前に辿り着くと、その腕を押し退けようと自らの手でそれを掴む。

「櫛夜那さん、大丈夫?」

 神楽は、悠紀に顔を向けずに問いかける。

「あ、あぁ」

 悠紀は呆気に取られながら答えた。神楽は、少しずつ悠紀に伸ばされる手を払いのけていく。だが、それと同時に別の乗客たちの手が、彼自身を確実に絡め取っていった。

「こいつも、捕捉しろ」

『捕捉、捕捉』

 そう呟く声が方々から聞こえてくる。神楽は、近づいてくる手をどうにか払いのけようと抵抗を試みていた。彼の顔は、何かを強く否定しようとするかのように、不安と希望とをアンバランスに映し出していた。

 そんな神楽の表情を目にして、一瞬だけ、悠紀は強く瞼を閉じる。そして、再びゆっくりと瞼を見開くと、意を決したように透明感のある声を響かせた。

「神楽、よせ!」

 発せられた声に一瞬神楽の身体が震える中、悠紀は言葉を続ける。

「これ以上は、無駄だ」

 やがて、神楽も悠紀と同じように全身の自由を奪われた。

 大きな雨粒が、電車の窓を強く打ちつけていく中、電車は淡々と進み続けていた。



Fortsetzung folgt

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