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レイン  作者: 天神大河
#01 罪ある世界―Guilty my-world
6/15

 午後の授業の後に続いた面接練習を終えて、神楽が湊31エリアステーションに帰り着いたのは十八時ぐらいだった。

 帰宅ラッシュで混雑する電車から一歩足を踏み下ろし、そのまま、ホームから続く階段を一段一段下る。ホームで降りた者のほとんどがエレベーターを利用していたために、神楽を含め階段を利用する者は十数人といったところだったが、神楽を除いた全員の手にはC-Iがしっかりと握られていた。

 ゲーム、音楽鑑賞、読書、電話にメールと、あらゆる者があらゆる目的で多様なコンテンツを利用し、消費する。もし今の世の中からC-Iが無くなったらどうなるんだろう。神楽は何気なくそう思った。

 そんな彼自身は周囲の人間とは対照的に、C-Iとは縁遠い生活を送ってきた。元々電子機器の扱いに疎いこともあったが、高校に入学する際に独り流行に乗り遅れた、ということも少なからずある。しかし何よりも、周りが皆持っているから自分自身も必ず持たなければならない、という世の中の風潮に反感を持ったのが、神楽がC-Iを持たない一番の理由だ。瀬崎は事あるごとにC-Iを勧めてくるのだが、神楽はそのたびにすべて断り続け、今に至っている。

――いいじゃねえか、神楽。持ってたら何かと便利でいいぞ。

――SNSとかで誰かと繋がるってのも、悪くはねえと思うんだがな。

 半ば呆れながらも、どこか楽しげにC-Iを勧めてくる瀬崎の顔を思い浮かべると同時に、神楽の脳裏に昼休みの出来事がありありと蘇る。

 瀬崎をはじめ、あの周りにいた学生や教員たちには『あの時』の記憶は全くないようだった。休み時間の間に、瀬崎へそのことについて少し尋ねたが、彼は少し間を置いて気のせいだろう、と逆に笑い飛ばしたからだ。だが、それでも神楽は未だに腑に落ちなかった。瀬崎の話を鼻から否定するわけではないし、単に自分の思い過ごしであるかもしれない。

 けれど、何かが根強くぼくの中で引っ掛かっている。それはいったい何なのだろう。

 階段を下りきって、神楽はふと我に返る。今はそんなことを考えている場合じゃない。明日も再度行われる面接練習に向けて、対策を練らないといけないのだ。改札口に定期券を通し、人混みをかき分けながら駅舎を出る。

 志望理由、気になるニュース、自己PR。何もかもがありきたりで、薄っぺらだ。

 今日の練習で、そんなことを言われた。東日本大学への進学を決意してから、ぼくは毎日のように勉強や委員会の仕事を人一倍頑張ってきた。自分の欠けているところを磨こうと思ったためだ。

 それがこの結果だ。だったらぼくには、何が足りないんだ。

 ぼんやりと考えながら、神楽は夜の大通りを一人歩き出す。朝から降っていた雨は既に止んでいたものの、プレートのように厚い雲は未だ空全体を黒く覆っていた。数歩歩いたところで、冷たい風が音もなく吹きつけ、神楽の身体を微かに震わせた。


 神楽の自宅までは、湊31エリアステーションから続く大通りを、南に歩いていく必要があった。朝早くから電動自動車や歩行者が入り乱れるこの通りは、夜でも未だに人の気配が衰える様子を見せない。LED照明を搭載した街路灯の下を通る人々の身体は、光と影を鮮やかに映し、足下に長い数本の影を(いびつ)に乱反射させていた。

 そんな光景を見て、神楽はつと立ち止まる。すれ違う人間一人ひとりの表情をちらちらと(うかが)うと、彼らは皆、屈託のない笑顔だった。どうしてそこまで笑えるのだろう。悩みとか、そんなものはないのだろうか。みんな、今の日常で満足できているのだろうか。

 数時間前の昼休み以来、普段からそうだと思い込んでいたものが、今の神楽にはとても遠くに感じられた。反対にそうではないものが、正しいとさえ思う。

 なんでそう考えてしまうんだろう。自分の思い過ごしではないか。なのに、ぼくはどうしてそれを受け入れられないんだ。

 解らない。神楽はふと空を仰いだ。空には星ひとつ瞬くことなく、限りない闇が広がっていた。そうして、誰に言うでもなく呟く。

「ぼくは、どうしてみんなと違うんだろう」

 小さな息と共に吐き出されたその言葉には、少年の心中を表すかのように重苦しい響きがあった。少し間を置いて、神楽は正面を向き直り、自分の家へ歩を進めようとする。

「人生の坂道は険しいな、少年」

 不意に聞こえた声に、神楽の肩が一瞬だけ大きく震える。彼が声のした方を振り返ると、そこに目鼻立ちの整った二、三十代ぐらいの長身の男が立っていた。百八十センチメートルはあるだろう、細くすらりとした体格に上下黒色の背広とスラックス、ダークグレイの革靴がよく似合っている男は、神楽をまっすぐ見つめていた。

「何ですか、あなたは」

 神楽は(いぶか)しげに返す。男は肩先まで伸ばした茶髪を左手で弄りながら、はっきりと抑揚のついた声で語る。

「ああ、おれは犬飼(いぬかい)だ。紹介が遅れてすまない。君は?」

 男――犬飼の問いかけに、神楽は少し警戒する素振りを見せながら応える。

「依砂鷺、神楽です」

「神楽、か。こんな街中でぼんやり立ち竦むほど、ずいぶんと悩んでいるようだが」

 そう指摘され、神楽は思わず周囲を見回した。彼の予想に反して、誰も不審な目で見てはいなかった。そのことに軽く安堵すると、神楽は少し顔を上気させながら問い返す。

「そうおっしゃる犬飼さんこそ、その、どういう意味ですか、人生の坂道って」

 神楽の質問に、犬飼は少しゆっくりとした口調で答える。

「どうということはない、君を見てると昔のおれを思い出してね。おれもそうだった。成人したての頃は自分が正しいとばかり考えて、自己中心的な行動を繰り返していた。だが、ある時思い知らされたよ。いくらおれ自身が正しいと思って行動や言動に表したところで、賛同してくれる相手がいなければ何も始まらない。そうして、ただちっぽけな自分の考えは複雑な社会のシステムによって淘汰(とうた)された挙句、自己とは違う他の考えに蹂躙(じゅうりん)されてしまう。そのことに気付いた時、おれは底知れない恐怖と、空しさを感じたよ。今の神楽のように、悩みに悩んだものさ」

「は、はあ」

 神楽は犬飼の言葉に対し、小さな声で相槌を打つ。車の走行音が歪に飛び交う中、犬飼は手近にあった黒い街灯に背中を預け、淡々とした口調で話を進める。

「確かに今は経験がものを言う時代だ。自分を謙遜(けんそん)し、絶えず研磨することで、周囲の人間を信用させる。それは相手や集団、広く言えば世の中を円滑に動かすためのキーとして重要なルールとも言えるだろう。おれ自身も、その時のこともあってよく知っている」

 そこまで言い終わると、犬飼は目を顰め、深く息を吐く。

「だが今の世の中は、そのルールから明らかに外れている」

 強い口調でそう告げると、犬飼は左手でスーツの左ポケットを探り始めた。彼の発言を受けた神楽は、ゆっくりと口を動かす。

「それって、どういうことですか」

 神楽が言い終わると同時に、犬飼はポケットからあまり目にしなくなった煙草の箱と、小型のライターを取り出す。そうして、左手に持った箱から煙草を一本取り出しながら、神楽へと視線を向けた。

「端的にいえば、互いが互いを信用したうえで創造されるべき社会のシステムが崩壊し、力のある者がそうでない者を一方的に操り、支配する。そんな仕組みが浸透しつつある、ということさ」

 犬飼の返答を耳にしても、神楽はどうにも理解できなかった。そんな彼の心境を察したのか、犬飼は目線を左右に動かし、ある一点で止める。

「例えば、あそこにいる女だ」

 そう言って、犬飼は右手の人差し指を伸ばし、通りの向かい側にいる女を指し示す。神楽は、犬飼の失礼な行動が少し気に障ったものの、それよりも彼の口にする女の特徴に興味が向いていた。四車線の道路を挟んで、左右からやって来る車と車との隙間から小さく映る三十代ぐらいの女は、小さな身体の上にTシャツとロングスカートを纏い、さらにその上に(もも)まである白いエプロンを羽織っていた。神楽の見る限り、彼女は一見普通の主婦のようだった。いったい彼女が、先ほどの犬飼の発言とどのような関係があるのだろう。神楽が気にしているところに、犬飼の言葉が挟まれる。

「彼女は二日ほど前まで、自分で考え、判断できる自我を保っていた。だが、遂に彼女は屈してしまった。疑問点、嫌疑、選択。そんなものは一切失われ、彼女に残された唯一の方法は『従属』だった」

 この言葉を受け、神楽は自ら体験した昼休みの出来事を再度脳裏に思い浮かべる。昼休みの一件と、犬飼の言葉。状況や細部は違っても、この両者は酷く似ているように感じられた。

「今、この世の中はあの女のように『従属』することのみに生きている人間がほとんどだ。自分自身が支配されているとも考えられない『人間もどき』――そんな連中が世の中を操り、蹂躙する。自分が生きる意味も考えずに、だ。悲しいものだな」

 諦観(ていかん)したかのような口ぶりでそう言うと、犬飼は煙草の箱を元のポケットに仕舞い、煙草を口に(くわ)える。神楽は犬飼の発言に微かな疑問を感じ、彼に向き直る。

「あの、その『人間もどき』と言い切ってしまうのはどうなんでしょうか」

 犬飼はちらと神楽を見やる。一度含んだ煙草を放し、血色のよい唇をゆっくりと動かす。

「なぜ? おれは一つの考えとして言ったまでだ」

「ぼくたちは皆等しい『人間』です。一人一人がそれぞれ人間らしく生きている。あなたが勝手に決めつけることじゃないと思います」

「人間らしく、か」

 一言呟くと、犬飼は再び煙草を唇の端に咥え、ライターに火を点す。そのまま、煙草の先端部にライターを近づけると、小さな橙赤色の灯が鈍く輝き、白い煙が一筋空へと伸びた。やがて、犬飼は唇から灰色の煙を吐き出しながら、煙草を右手の親指と人差し指で掴み、アスファルトの地面に無造作に落とす。そして、それを革靴の爪先で乱暴に踏みつけながら、神楽を正面から見つめ直して告げる。

「本当にそうだろうか?」

「え?」

「『人間らしく』とは言うが、神楽はそれをどういう意味合いに捉えているんだ?」

 犬飼からの質問を受け、神楽は慎重に言葉を選びながら返す。

「そ、それは。自分自身がその人間として、いかに正しい形で、他者と共存できるかだと。そう思います」

「なるほど、悪くはない返答だ」

 犬飼は軽く相槌を打つ。ライターをポケットに仕舞うと、そのまま言葉を続ける。

「おれはこう思う。『人間らしく』とは、ただ単に他者と息を合わせるための(かせ)でしかないのだと。強いて言えば、ある人間を特定のルールの下に縛る言葉だとも思う。それを言うなら、憲法や法律もその類だが、それは同時に一定の自由を保障する役割も併せ持っている。だが、時にデメリットしか与え得ないものも存在する。これまでの歴史でいわゆる悪法と呼ばれるものであったり、人間関係の根底にある因習だったりと、形はさまざまだが、おおよそが自らの個性を必然的に潰しうるものだ。だから、人間らしさを説くことも、その一種だとおれは思う」

 言い終わると、犬飼は深く息を吐き出した。神楽は少しの間を置いて、犬飼へと向き直る。

「だったら、ぼくは」

 少し奥歯を噛み締めて、神楽は若干語気を荒げながら続ける。

「ぼくたちは、人間らしく生きるほどに、自分を見失い続ける、ということでしょうか」

「それは個人の受け取り方、これからの行動次第さ。立ち止まってしまう者もいれば、より大きなものを身につける人間だっている」

「無茶苦茶だ」

 神楽は、先ほどよりも長い間を置いて続ける。

「そんなことができる人なんて、本当にいるわけじゃないでしょう? 結局ぼくたちは、自分を抑えてでも生きていくしかないんだ。こんなの、非常識だ」

 そう告げる神楽の口調は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

「それでも、限界がある。どんな時でも自分は自分だ。誰のものでもない」

 犬飼の発言を耳にして、神楽は無意識に眉をぴくりと動かした。そのまま、犬飼は続ける。

「少し話を戻すが、おれにとって人間性というものは、いわゆる人間が他の生物と比べてどのような点で優れているか、あるいは、その個人の考える人間のあるべき理想像。単にその定義を示しているだけに過ぎない。多様な言語を用いたコミュニケーション能力、広範な思考能力、複雑な社会環境への適応力、状況を判断し自制する能力。挙げていけば切りがないだろう。だが、そもそもこれらの条件すべてに人間の定義を求めること自体が間違いなんだ。誰もがそれらの条件に対して完璧に合致するとは限らないし、そもそも人間の根幹を辿っていけば他の生物とあまり大差ないからな。改めて聞こう。神楽、きみは、どのような基準を持って『人間』を定義する?」

「そ、それは」

 神楽は思わず犬飼から目を逸らす。そんなこと言われても、『人間』は『人間』だ。理屈ではない。当たり前のことじゃないか。頭の中でそれなりの結論が導き出されているにも関わらず、神楽はなぜか犬飼に向き直って反論できなかった。たったそれだけのことを口にするのは容易い筈なのに、いざ喉元まで出かかったところで、本当にそれでいいのか、と考えてしまうのだ。そうして数秒間、口をまごまごと動かすだけの神楽を見て、犬飼は諭すような口振りで言った。

「まずはおれの考えを言おう。おれは、大多数の人間が『人間らしく』という言葉を使うのは、自らの、あるいは特定のグループ、組織全体の倫理観を相手に間接的に押し付けるためではないかと思う。人間は元来社会的な生き物だから、『人間』という種族単位の言葉を突き付けられると非常に弱くなる。それはすなわち、自分固有の人間性、社会的価値を否定され、否応なしに社会から孤立させられることを意味するからな。結果、ほとんどの人間は簡単に屈服してしまう。たった五文字の言葉で、だ。それはまさに相手を意のままにする魔法の言葉、もとい一種の洗脳、といったところか。つまるところおれは、『人間』は自らの独特の概念を自由に持つことのできない、哀れな生き物だと思うよ」

 軽く一呼吸置いてから、おれも含めてな、と犬飼は少し小さな声で呟いた。それから数拍の間を置いて、神楽が発言する。

「確かに、あなたのその考えは分かる気がします。だけど、その、大多数の人間観を支持するのも、必要なことだと思います」

 神楽は頭の中で単語を整理しながら、少し早口で続ける。

「その行動や発言が、誰かに迷惑を掛けることだってあります。相手や周り、何より自分のためにもならないし、社会活動も円滑に進めにくくなります。いちいち一人ひとりの価値観を気にしていたら、全体の基盤が脆くなってしまいかねません」

「確かに、それもそうだろうな」

 犬飼は、神楽の発言をあっさりと受け入れる。また何かしらの反論が返ってくると考えていたので、神楽は拍子抜けする思いだった。

「古代から今までの政治を見ても、その端々にこうした全体主義の存在が少なからずあったし、現在もっとも支持されている民主主義においても同じだろう。ただ、おれは個々のパーツが老若貧富を問わず存在するからこそ、全体が成り立っていると思うがね」

 犬飼は街灯から背を放し、身体全体を神楽の方へと向けた。

「ところで神楽、きみはニーチェを知っているかい?」

 犬飼の唐突な質問に、神楽は戸惑いながらも頷く。確か、実存主義を唱えたドイツの哲学者だったはずだ。

「彼は自著でこう語っている。『あらゆる人間は、いかなる時代におけるのと同じく、現在でも奴隷と自由人に分かれる。自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である』と。つまり、おれたちは常に奴隷か自由人のどちらかに分かたれている、ということさ。逆に言えば、誰もがそのどちらにもなりうる。そこで神楽、きみは自分ではどんな人間だと思う?」

 神楽は、普段の自分を端的に答えようと唇を動かす。しかし、いざ声に出す直前になって、彼自身の中にひとつの疑問が沸き上がる。ニーチェの言葉をそのまま使うなら、ぼくは本当に自分のために生きてきたのだろうか。誰かの奴隷であるという意識こそないが、自分自身が自由であった感覚も薄弱だ。その疑問の解を考えれば考えるほど、神楽は自分が暗い深淵(しんえん)にどんどん飲み込まれている気がした。

――お前の人生は味気ねえんだよ、分かんない?

――毎日毎日、学校の先生からお話を聞いてはご丁寧にハイ、ハイ、ハイ、ハイ。マジで吐き気がすんだよ。おめえはロボットかっての。いや、つーかもうロボットじゃん?

――所詮現実から逃げる奴は自分からも逃げるってか?

 昼に見た自分の幻影の言葉が、神楽の脳内で繰り返し木霊する。彼の言葉は、最初に自分を嘲笑したそれに加えて、自身の勝利を確信しているかのように、高らかに響いた。

 違う! ぼくは!

 神楽は、幻影の発言を強く否定する。ぼくは奴隷なんかじゃない。誰かの命令に従順なロボットとして生きてきたつもりもない。それだけは確かなはずなのに。

 二の句を告げられないまま、神楽はそれきり俯いてしまった。彼の様子を見て犬飼は、少し姿勢を低くする。

「おれは別に、自分が奴隷か自由人か、そのどちらかだけに執着することはないと思っている。一人一人がそれぞれ違った特徴、個性を持ち、さらに自分自身の手で無限に進化させる可能性を持っているからだ。奴隷が自由人に昇華することもあれば、逆に自由を()てる者もいるだろう。あるいは、そのどちらでない者にも、なれるかもしれない。ただ言えるのは、おれたちはその誰もが、生物観や倫理観などに決して囚われることのない『真の自己』を持っている。それはきみも同じだ。『人間らしさ』といった形の檻で完結させるんじゃない。自分から進むんだ。攻めるんだ。攻めて、自分に勝つんだ。そして、誰にも支配されない自分を貫け」

 そう豪語する犬飼の口調には、確かな力強さがあった。神楽は犬飼の方を見上げる。その表情には、彼の言葉に対する期待と不安とが複雑に入り交じっていた。

「だけど、どうやって」

 神楽が問いかけた瞬間、犬飼のスーツのポケットから低い電子音が漏れ始めた。

「すまない、少し失礼するよ」

 早口でそう言うと、犬飼は右手で右ポケットを探り始める。やがて取り出されたそれは、一見するとC-Iに似ているが、瀬崎のものと比べると少しだけ厚みがあり、むしろ2010年代に開発されたiPhoneに近い形状をしていた。犬飼はそれを操作しながら、耳に当てて電話を始める。

「おれだ。『ハクア』か……ああ、分かった、すぐ合流する」

 犬飼は電話を切り、神楽に向き直る。

「悪いが、用事ができた。おれはここで失礼するよ」

 そのまま犬飼は、踵を返しすたすたと歩き始める。神楽は彼の背中を見つめながら、自分の心の中に残るわだかまりを感じていた。自分を貫くための方法も分からないまま、ぼくはこれからどう生きていけばいいのだろう。そんな焦燥感が神楽の中で生じると同時に、つと犬飼は歩を止め、顔だけを後ろにいる少年へと向けた。

「さっきの質問に、まだ答えてなかったな」

 少し大きめの声で返す犬飼に、神楽は小さく頷く。彼の返答を確認すると、犬飼は同じ声の調子で続ける。

「それは、まずは自分で考え、行動することだ。手段は何でもいい。ただ、相手に流されるな。きちんと自分の気持ちと向き合うんだ」

「自分の、気持ちと」

 神楽は、犬飼の言葉を反復する。少年の発言を耳にした犬飼は、唇の端に小さく笑みを浮かべ、左手を自分の頭と同じぐらいの高さまで上げた。

「では、またどこかで会おう、神楽。きみの成長を、楽しみにしてるよ」

 犬飼は、神楽の返事も待たずにすぐさま正面へと向き直り、再び歩を進めた。

「あっ、ちょっと」

 神楽が止める間もなく、犬飼の姿は見る間に人混みの中に消えていった。

 一人残された神楽は、少しの間その場に立ち竦んでいた。街灯とネオンの灯りに身体をアンバランスに照らされた彼の中には、さまざまな思いが去来していた。自分のこと。友人のこと。学校生活のこと。将来のこと。それらすべてを頭の中で簡潔にまとめ、神楽は考える。

 ぼくは、何のためにこれまで生きて、これから生きていくのだろう。犬飼さんの言っていたように、自分を確立させてこそ得られるものもあるかもしれない。だが、ぼくはこれまで他人に自分のことを委託(いたく)させ続けてきた。今日やった面接練習だってそうだ。ぼくは、誰かの力を借りなければどうにもできない存在なんだ。今更、自分の力だけで進んでいくことなど、できるのだろうか。

 やがて神楽は、自身の空腹も相まって、うまく考えがまとまらなくなってきた。とりあえず帰ろう。微かに肌寒い夜風を感じながら、神楽は家路を急ぐ。大通りの道は、未だに多くの人で賑わい、楽しげな喧噪も聞こえてくる。そんな中、神楽は犬飼の言葉を心の中で反芻した。

――『人間らしさ』といった形の檻の中で完結させるんじゃない。自分から進むんだ。攻めるんだ。攻めて、自分に勝つんだ。そして、誰にも支配されない自分を貫け。

 自分を貫け、か。神楽はぽつりと呟いた。その響きには、えもいわれぬ重々しさがあった。





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