Ⅳ
2052年10月7日 月曜日
午前10時41分
「おれだ、何かあったか」
少女は所どころ傷だらけの旧式の携帯を手に、特別回線の先にいる相手へ低く、微かに怒気の混じった声で告げた。
彼女がいるのは、狭く暗い部屋の一室だ。そこは、一歩歩いたり腕を揺らしたりするだけで大量の埃が辺りに舞う。そんな部屋の中心にいる少女の眉間には、こうした劣悪な環境に対する不快感が顕著に表れていた。
加えて、今の彼女には携帯の向こう側にいる相手との会話を決して誰にも聞かれないよう、周りの気配に鋭敏になる必要があった。しかし、昼前の時間帯であるにもかかわらず、誰もほとんど訪れることのないこの部屋で、そこまで自分の神経をすり減らす必要性があるのか、少女は強い疑問を感じていた。この携帯でやり取りする内容は概ね『作戦』に関することに限定させているのだが、今この回線の向こうにいる相手――中川知絵とは、そういったことに繋がらないのがほとんどであるからだ。
少女は心の中で深い溜息を吐く。
『いきなりそう怒らないでくださいよ~、今度カルシウム摂取に最適なサプリメントを用意しますからぁ~』
知絵は、語気を荒げる少女とは違い、柔らかな口調で返事を返した。しかも、何の気もなしに人をからかう、いつも通りの話の展開だった。ああいう奴だとは分かってはいるが。少女は髪をがりがり掻きながら告げる。
「おれのことはいい、用件を言え」
少女には気に入らないことがあった時、髪をがりがり掻く癖がある。そのことを熟知していた知絵は、予想通り少女が髪を掻く音を回線越しに聞き、微かに笑いを漏らしながら話し始めた。
『今夜二十四時に、予定通りターゲットが新東京ベルトハイウェイの滂インター付近を通過しますので、そこをパパーッと急襲して、アレをちょちょーいっと奪ってきてください。ぶっちゃけ今回の作戦に変更点はありませんので、そのまま手筈通りにお願いしますよお』
「分かった。それじゃ、切っていいか?」
『あぁん待って下さいよ〜、まだ伝言があるんですう〜』
少女は、右手に持っている携帯――C.I.D.を握り潰しそうになるのを理性で抑えつけた。
彼女の持っているC.I.D.は、四年前の十二月に開発された二画面式の携帯で、四十年ほど前に開発されたiPhoneをモチーフにしている。しかしその後、実質的な上位互換であるC-Iに立場を奪われてしまい、わずか一ヶ月で生産が終了してしまった。
現在少女の持っている通信手段はこの旧式のC.I.D.のみなので、迂闊には壊せない。こめかみに浮き上がる鈍い緑色の血管が収まらないまま、少女は言葉を発した。
「誰からだ?」
『ええと、神森さんからです。「サポートはするけど、あまり無茶はするなよ」とのお達しです』
知絵が口にした伝言を聞くと、少女は少し肩を落とした。この言葉は、『作戦』の度にいつも耳にしてきたものだ。だが、それを聞いた少女の表情にはどこか嬉しさと、気抜けした様子が窺えた。
「分かった。それじゃあ今夜二十四時十五分に、NI-33ポイントから予定通り『作戦』を実行する。それでいいな」
少女は回線の向こう側にいる知絵に向かって、一息に言葉を告げる。知絵は、少女から不意に発せられた『作戦』の内容を再確認しているのか、少し間を置くと、小さめの声で返す。
『は、はい』
「あと遥に、『いつまでも子ども扱いするな』と、そう伝えてくれ。じゃ、切るぞ」
『えっ、そんな、ゆ――』
少女は知絵の返事を待たずに通信を切った。それと同時に、通信の終盤になって自分のペースを崩されてしまった知絵の姿を頭に浮かべる。彼女は十一歳だが、人によってはそれよりもさらに年下に感じられる性格をしている。きっと今頃、通話口の前で頬を膨らませていることだろう。
やがて、少女の唇の端から小さな笑みが漏れた。些細なことですぐに拗ねる知絵の様子を想像すると、どうにも可笑しかったのだ。
後で適当にご機嫌を取ってやるか。そう考えながら、少女はその場を後にした。