Ⅱ
「神楽ーっ」
後方から響く声に少年――依砂鷺神楽は、心の奥底から微かに湧き上がる嫌悪感を理性で抑えながらも、顔を声が聞こえた方へ向ける。
「あっ、おはよう、瀬崎」
その先にいた少年――瀬崎優斗は、左手で紺色の大きな傘を持ちながら、最新型の携帯通信機器であるC-Iを持った右腕をぶんぶん揺らし、神楽の元に駆け寄った。
「こないだ新しいゲーム買ったからさ、今度ウチ来いよ、久々に一緒にやろうぜ」
瀬崎は神楽をやや見上げる形で話し始める。
「今のぼくたちの立場を考えろよ、ンな余裕あるか」
神楽は瀬崎から目を逸らし、素っ気ない返事を返す。
「付き合い悪いなあ。ホラ、たまには大学受験のことも忘れて、パーッとやろうぜ」
その言葉を聞き、神楽の眉がぴくん、と動く。
いい加減にしてくれ。
ぼくにはそんな話に耳を傾ける余裕なんかないんだ。心の中でぶつぶつと悪態を吐きながら、神楽は近くのショッピングモールにある大型のデジタル時計に目を移す。
「あっ、電車の時刻がやべえ。お先っ!」
神楽は心中の不満を一度に吐き出すかのように早口でそう言うと、瀬崎を振り切るかのように走り出した。
「おい、神楽待てよ!」
瀬崎はすたすた先に進む神楽を慌てて追いかける。二人の会話をよそに、雨は次第に強くなりつつあった。
瀬崎が通学の際に利用する湊31エリアステーションに到着した時、神楽は改札に定期券を通したばかりだった。瀬崎は傘を簡単に畳むとすぐに、制服の内ポケットから自身のC-Iを取り出す。そのまま、素早い手つきでC-Iの画面を操作しつつ、駅構内の壁に設置された大型のデジタル時計にちらと目をやると、7時48分を示していた。
瀬崎は、定期券の情報データを画面表示させたC-Iを改札口に翳しながら考える。
高校入学の時に知り合った時と今とを比べたら、神楽は変わったように思う。
娯楽に対してずいぶん消極的になり、代わりに試験対策の勉学に対し非常に鋭敏になった。知り合った当時からそのような傾向にはあったが、今はそれがさらに顕著だ。
その原因はおそらく、先日学校で行われた第三試験の結果と、一ヶ月後に控えた大学受験だろう。神楽は数日前に受けた第三試験の結果があまり芳しくなく、酷く落ちこんでいた。偏差値もそこそこ高い東日本大学を志望していた神楽は、勉学に集中すると言わんばかりに人付き合いを極端に減らしたのだ。
小さな空しさを感じながら、瀬崎はやや距離のある階段を大股で上る。ホームと改札の間には、旧来の階段やエスカレーターに加え、つい最近導入された障害者、児童及び高齢者の安全を目的とした最新式エレベーターが搭載されている。特に最新式エレベーターは約五十五人程度の重量までは耐えられるように設計され、大人数が同時に乗ることができるようになった。
瀬崎は普段、高齢者や通学する小中学生に混じってこの最新式エレベーターを利用するのだが、時間が迫ってきたことによる焦燥感と、親友を追いかけることに夢中だったがゆえに、その存在を失念していた。駅の階段を上るのは久しぶりで、瀬崎は途中から息を切らしつつあった。
やっとの思いで階段を上りきると、神楽は駅のホーム際に立ち、いつも乗っている電車がやって来る方角を見つめていた。
ホームの天井には、逆さまにしたお椀のような形をした化学コンクリートが無機質に広がり、左右に延びる電車の線路の延長線上には、電車が通るために設置された数メートルほどの長さのトンネルがあった。そこから微かに雨混じりの風が入ってくるので、屋内とはいっても少しは濡れてしまう。
「ここは危ねえだろ、下がろうぜ」
瀬崎が神楽の肩に手をかけ、少し強引に彼の上半身を動かす。しかし神楽は、無表情のまま瀬崎を振り返り、目線を動かすことなく言った。
「時間になったらすぐ下がる」
神楽は瀬崎の手を軽く振り払い、再度同じようにホーム際に立って、トンネルの先に広がる外の景色を眺め始めた。
電車の行く先を見つめては思うことがある。限られたレールの上を毎日決まった時刻、決まった方向に走るのはどれだけ窮屈なことだろう。
もっとも、根本的な問題として、電車は一種の車なのだ。意思を持たない。都合良く人間の手で生み出されては利用され、使い物にならなくなったら処分される。
つまり、電車は元来より人間に支配されている、と考えてもいい。
たとえいくら思考能力を得ようと足掻いたところで、結局人間の指示には従わざるをえないのだ――。
「神楽」
神楽は、瀬崎の呼びかけに対して顔を向ける。
「そろそろだ、電車」
瀬崎はそう言って、電車の来る方向を右の親指で示す。そんな彼の姿を一瞥すると、神楽は黒褐色の革靴を整えながら、二、三歩後ろへと下がった。気がつくと、周りには四百人余りの利用客が集まっており、C-Iを利用したり、時刻を確認したりと一人ひとりそれぞれだ。
やがて、電車がトンネルを通過してホーム内に入ってきた。二十両編成はあるだろう電車は徐々に減速し、きっかりと停止指定場所に停止した。
人工チタンと強化ガラスからできている自動ドアが左右に開くと、電車の内外から一度に大勢の人間が雪崩れこむ。そんな中で電車の中に入らなければいけないので、身体や鞄に人がぶつかることも多い。数日前には学校指定の革靴を、土埃の付いた運動靴で思いきり強く踏まれた。その時の出来事を脳裏に浮かべた神楽は、なぜこの通勤ラッシュにはSSLが適用されないのか、と心の内で毒づいた。
SSLは、2049年2月1日に日本で施行された社会安全保障法のことだ。語呂が良いのか、国民の間ではSSLという略称が浸透している。21世紀に入って、化学物質や自然現象などの危険性が世界各地で強く問題視される中、政府はあらゆる試行錯誤の末に、社会安全保障法――SSLを生み出したのだ。
SSL施行による社会影響は凄まじく、ほとんどの家屋や施設、道路などがより安全性に優れるように改良されていった。それは神楽の身の回りも例外ではなく、通学路や大型ショッピングモールがその姿を少しずつ、しかし大きく変貌させた。
どうにか電車の中に入ることができた神楽と瀬崎は、自動ドア近くにある長椅子型の座席に腰掛けた。電車内もSSLによる大幅な改善がなされ、一両あたりの車内の座席数が約百五十人分に増設されたものの、新東京の都市部では、今でも通勤ラッシュ時に激しい混雑を見せている。テレビのニュース番組で電車内での混雑は少しずつ緩和されている、と言っていたが、ほぼ毎日実際に電車に乗り込んでいる神楽にしてみれば、今日こうして座ることができただけでも奇跡と言えるぐらいだった。
ここから神楽たちの学校に最も近い駅――濱30エリアステーションに着くには大体十五分ほどかかる。周りを見渡すと、神楽の通っている濱第二高等学校の生徒がちらほらと見てとれた。彼らは藍色のブレザーに白いシャツ、黒色のズボン、スカートを纏い、シャツの襟元には校章の刺繍が小さく縫い付けられている。
彼らの中の八割はC-Iを使って、提供されるアプリやコンテンツを個人、あるいは集団で利用し、残りは荷物を膝や棚に置いたまま眠ったり勉強に勤しんだりしていた。神楽もまた、自らに課した勉学を解こうと、膝の上に置いていた鞄に手をかけようとした。
そんな時、彼の視界に一人の女の子が目に入った。神楽の席の右前方に立っている、セミロングの髪形をした彼女――櫛夜那悠紀が、黒いイヤホンを両耳に装着し、何やら思うことがあるかのような表情で外の景色を眺めていたのだ。
神楽のクラスメイトである悠紀は、成績は常に上位三位以内、運動能力も高い優等生だ。容姿もとても可愛らしく、以前学校中の男子生徒間で行われた『校内可愛い女子ランキング』で断トツの一位に輝くほどである。しかし、普段から無口かつ無愛想であったから、クラス内で彼女と進んで話そうとする者はおらず、悠紀は実質孤立していた。
学校や電車内では、旧来の紙で印刷されたカバー付きの文庫本を読んでいるか、黙々と勉強をしているかのどちらかだったが、彼女が何もせずにただ外を眺めているのは、神楽にとって初めて目にした光景だった。
神楽は、膝に置いていた鞄を持ち、席を立った。隣に座ってC-Iを弄っていた瀬崎がちらと頭を上げたが、格段気にすることなくすぐに姿勢を戻した。携帯通信機器としては初めて二画面で展開されるC-Iの画面を凝視する瀬崎の視線は、彼の手のひらより一回りほど大きなそれに向けて忙しく動き回っていた。
悠紀の側に立った神楽は、しどろもどろな声で口にする。
「お、おはよう」
瀬崎がぴたと手を止め、ぐいっと顔を上げた。神楽が悠紀に話しかけたことに驚いたのだろう。事実、神楽が悠紀と話したことは高校に入って以来、片手で数えるぐらいしかなかったのだ。
そんな神楽自身もなぜ声をかけたのか、自分でもよく分からなかった。
やがて、神楽の頭の中は次第に後悔と羞恥心でいっぱいになっていった。イヤホンをしていたから、十中八九音楽を聴いていたのだろう。そんな彼女に声をかけても迷惑なだけだったのではないか。そう思っていると、悠紀が神楽の方に顔を向けた。
「あぁ、おはよう」
紺の混じった深い黒色の瞳を神楽に向けながら、悠紀はぼそぼそと呟くように返事をした。よく通ったその声質からは、何も感情を読み取ることができない。
神楽が何も言わずにそのままでいると、悠紀は続けて言葉を発した。
「どうかした?」
「あ、いや、その」
神楽は思わず悠紀から目を逸らす。
彼には、あまり話したことがない相手と一対一で話す際、無意識に目を逸らしてしまう悪癖があった。悠紀は、そんな神楽の様子を見ても、特に気にする素振りを見せない。
神楽は、喉に痞えたものを吐き出すように二の句を告げる。
「今日は、本とか読んだりしてないみたいだったから、何かあったのかな、って」
言い進めるうちに、神楽の顔はだんだんと紅潮し、それと反比例するように声が小さくなっていく。ああ、恥ずかしい。こんなことなら話しかけない方が良かったかもしれない。
そう思っていた時だった。
「今日は特別な用事があったから」
悠紀が不意に告げた。神楽がそれに応じる間もなく、悠紀は言葉を続けた。
「それを考えたら本を読む気にはならなかった。おかしい?」
「い、いや、そんなことないよ。ごめん」
「どうして謝るの?」
「えっ。それは、えっと、その」
神楽は言葉に詰まった。気分を害しただろうから、と素直に言えば良かったのかもしれないが、真剣な眼差しで自分を見つめる少女にその一言を言うのはどうにも躊躇われた。
悠紀は、神楽の返事を待たずに言う。
「ねえ」
「あっ、どうかした?」
悠紀は神楽から外の都市部の景色へと視線を移す。そして、鎖骨の辺りまで伸びた艶のある黒髪を弄りながら、はっきりとよく通る声で言った。
「あなたにとって、この世界はどう思う?」
神楽は唐突に繰り出された脈絡のないこの質問に、少しのあいだ唖然としていた。神楽は、悠紀に問い返す。
「えっ、どうしてこんな質問を」
「いいから。意見を聞かせて」
神楽はどうにも納得できなかった。
しかし、さらに問い返すのも癪だったので、大人しく考えてみることにした。この世界をどう思うか。神楽は、頭の中の情報網を最大限に稼働させ、言葉を選びながら答える。
「そりゃ、便利で良いと思うよ。過去に起きていたエネルギーや、食糧といった資源の問題も解決へと向かっているし、このままぼくたちの暮らしやすい世の中になればいいかな、と思う」
「そう」
悠紀は素っ気なく言葉を返すと、鞄の中から半世紀ほど前に発行されたのだろう、所どころが破れ、黄ばみが目立つ表紙の文庫本を取り出した。
やがて彼女は本の中身へと視線を移し、それきり神楽に視線を向けようとはしなかった。神楽も次の言葉が出ないまま、電車は濱30エリアステーションに到着した。