フラービオ
――町の中心を少し離れた場所、海沿いにいくつも並ぶレンガ倉庫の合間を、昼の光の中で、男が息を切らせて走っている。石畳にこすれた革靴にはいくつも傷がつき、シャツはシワになり、そしてその瞳には薄く赤い光がともっていた。呪いの光だ。
鉄柵を見つけた男は、その隣を走りすぎる一瞬で、細い鉄の棒をその柵から何本もはぎ取り、ろくろく確認もせずに後方に投げつけた。
すさまじい速度で投げられた鉄のほとんどが分厚いレンガや石畳に深く突き刺さり、うまく刺さらなかった何本かは、レンガを削り飛ばしながら派手な音を立てて跳ねまわった。
悲鳴は聞こえず、血の水音も聞こえず、今の攻撃が“追っ手”に命中した様子はないが、音と石クズとで目くらましくらいにはなっただろう、と考えて男は走る、逃げる。と、その体のすぐそばを後方からの銃弾が飛び去って行き、更にもう一発銃声が聞こえて、左の肩口にハンマーで殴られたような衝撃を感じた。
痛みと驚きと恐怖とで、たまらず倉庫の一つに逃げ込む。倉庫の裏口を閉じていた鎖は全てちぎり、鉄の鍵は指で壊し、その中に転がり込んだ。
――うす暗い倉庫の、さらに暗い物陰に隠れて、やっと男――ラフィータはシャツのボタンをはずし、荒い呼吸を落ち着かせることが出来た。左肩の傷は銃弾がかすった程度のもので、そう深くはないと確認すると、引き裂いたシャツのすそで傷口をきつくしばる。
そして、ポケットから取り出した銃弾を握りこむと今入ってきた扉を見据える。入ってきたところをハンドガンで狙うには遠すぎる距離だが、俺の“ハジキ”でなら十分届く、とラフィータは考えた。俺のこの力、|死者の指《デドス・デ・“デッド”》ならば、と。
追っ手を待ち伏せながら、静寂とうす闇が続いた。何分たった?それとも何秒?火照った体からは汗がたれ、血と混ざってポツポツと床に染みを作っていく。ふと、入り口から追ってくるとは限らない、と心配になり、裏口から窓、ほかの扉を次々に確認した、が、誰もいる気配は無い。
誰も来ず、何も起こらない。ラフィータの唇が歪んで笑みがこぼれ、隠れきれるという思いが緊張した心をほぐし始めたその時――
突如、何発もの銃声が途切れることなく響いた。轟音が周囲の静寂を壊し続けて、鳴りやまない。連射は続き――続き、やっとその音が止んだ頃には、ラフィータの意識はこの世から完全に消え去り、倉庫の床には、血の池と血しぶきとが歪んだマーブル模様を描いていた。それが今や、日光にさらされてはっきりと見える。ラフィータが隠れていた場所のすぐ隣の壁に、大きな穴が開いていたのだ。そして、その穴の向こうに弾切れのサブマシンガンを握りしめた人影がたたずんでいた。
どれが頭で、どれが腕なのかももはやはっきりとせず、四本の汚い枝が伸びた肉の塊のようになってしまった死体を見降ろして、瞳に呪いの輝きをともした人影は呟く。
「私に追われているのに、そんな場所に隠れてちゃバレバレじゃないの」
裏切り者の始末を終えて、瞳から光を消したその顔は間違いなく、フランシスカ――夜の弓のシスカだった。
「ちょっと待ってお兄さん!なんだか元気の無い顔してるね。こいつはオマケだから食べときな!」
店を出ようとしたときにそんな声が背後からかかってきた店主の声に振り向くと、眼の前にコンビーフの缶詰が飛んでくるところだった。
「危ねえ!」
と叫んで咄嗟に片手でキャッチすると、店主が手を叩いて「ブラボー!」と言った。適当に手を挙げて挨拶すると、さっさと店を出ていくことにする。
ギレルモの施した治療が良かったのか、アイトールの傷は二日三日で急速に回復していた。今も、缶詰を受け取った瞬間、とっさのこととはいえあまりにも乱暴に肩を動かしてしまったが、痛みが来る様子もない。今は眠ってしまっている“裏の自分”ほどじゃないにせよ、もう十分に飛んだり跳ねたりはできるくらいの体調だった。
「あるいは、お前の異能が回復の手伝いをしているのかもしれん」とは素早い回復に驚いたギレルモの言葉だ。軽く感じられるようになってきた体に気分をよくしながら携帯電話を開く。昼下がり。シスカは“仕事”が入っていると言った時間帯だ。
本当ならあまり出歩かない方が望ましいのだろうが、自分のことを狙っている人間がいるわけでもない中、シスカと連絡がとれない時間帯はずっと部屋に隠れている、というのも窮屈な話だろう。
――そういえば、なぜ“裏の自分”はシスカを護衛につけようとしたのだろうか。仕事がら、人の恨みを買うことは多くあるだろうが、それでも表の自分が普段の生活で、誰かの襲撃を気にかけるということは今までなかった。いざ襲われたとしても、すぐに裏の自分に交代すれば何とかなる、ということで“裏の自分”も警戒していなかったのかもしれないが、ともかく、今まで誰かに恨まれ、攻撃をうけるなんてことはなかったはずだ。
そう考えると気にかかるのは、あの夜の仕事だ。あの夜に、“裏の自分”は誰かの特別の恨みを買ってしまったということだろうか?
規則正しく植えられたネムの木が、吹く風に揺られる街路を、考え事をしながら歩いていくアイトールに声がかかった。思考を中断して声の方向を振り返ると、ワイシャツにサスペンダーという格好の男が眼を細めながら手をかざしていた。フラービオだ。
「アイトール、偶然だね。コーヒーでも飲んでいかないかい?」
近くのコーヒースタンドを指差しながら言うフラービオの顔つきは、常に細かく周囲に視線をめぐらせているようで、落ち着かない印象を与える。いつも通りのフラービオの顔だ。曖昧な笑みを浮かべているのも。
了承して買い物袋を片手にコーヒースタンドに向かい、アイスコーヒーの小さな紙コップを受け取ると、すぐそばのテラス席に二人で腰をおろした。フラービオの笑みにアイトールも自然と曖昧な笑顔で応じる。
フラービオはもともと、“裏の”アイトールの仕事中に知り合った仲で、能力は持っていないものの、車の手配や物品の運搬などの雑務を組織の中で請け負っている。そして、ギレルモのように、表裏の両方のアイトールが共有している数少ない知り合いでもあった。
「おごってもらって悪いな。機嫌がよさそうじゃないか」
そうアイトールが言うと、フラービオはフ、フ、と数回息を漏らしたように笑い、小さい眼を更に細めた。仕事の調子がいいか、それとも友達でも増えたか、なにか嬉しいことがあったに違いない、とアイトールは思う。
「君は?君の仕事は順調なのかい?我らが――我らが組織の二重の血は?」
フラービオの問いに、今度はアイトールが曖昧な答えをする番だった。能力が傷つけられたことはギレルモとあの呪い持ちの少女――シスカにしか漏らしていない。
「まあ――それなり、かな」
そんな返答にもフラービオは満足そうに何度かうなずき、ハンカチでカプチーノのついた口元を素早くぬぐってまたフフ、と漏らした。
その後も他愛もない話を少しの間続けていたが、やがてアイスコーヒーを飲み干してしまったアイトールは、空になった紙コップを捨てに行き、そのまま短く別れを交わすと陽光の当たるテラスを後にする。その後ろ姿を見送ると、フラービオはまだコップに半分程度残っているカプチーノを再びゆっくりと味わい始め、今日の仕事について思いをめぐらせていた。
フラービオに最近“小金”をもたらしているその仕事は、アイトール達の組織の仕事ではなく、別の“業者”からおろされたいくらかのクスリをさばく仕事で、そこでもフラービオは下っ端だった。大量にクスリを買い付けたグループから別のグループにキロ単位でおろされる“商品”を、乳糖を混ぜて増やし、その混ぜ物入りの粉をおろされたグループが、小分けした量を更に下っ端の売人におろす、という構造だ。
フラービオは直接の上司についてさえ顔以外ほとんど何も知らないし、その上の製造者や買い付けグループについてはまったく想像もつかない。ただ、町の片隅をあちこち回ってクスリをさばき、売上を納めればいいという単調な仕事は、それはそれで気楽ではあった。クスリを買いに来るのは大抵が見た目もそれとわかるようなジャンキーで、このままクスリを続ければ死んでしまうのがわかるような奴もいる。
――暗殺や殲滅だなんてことは俺には出来ないけど、俺もヒトを殺してるんだぜ――
アイトールの去って行った方向を見やって、フラービオはフ、フ、と笑った。
ラフィータを討ったという知らせをシスカから受け取って、“重要任務”の成功にギレルモはひとまず安堵した。やすらいだ気持ちのままにビールのグラスを空け、もう一杯を店員に注文する。証拠として添付されてきたラフィータの死体の画像を開き、あまりの無残さにそれをすぐに閉じた。「裏切り者と臆病者は殺す」というのが組織の掟だ。すぐに運ばれてきたビールをすすり、アイトールのことを考える。
もしもこのままアイトールの能力がもどらなかったら、組織は彼のこと――仕事が出来なくなった役立たずのこと、組織の中身を知ってしまっている役立たずのこと、を殺すかもしれない。もしそうした決定が下されたら、アイトールをかばうことは自分には出来ない。
一般人の社会とは相容れない呪われた存在、呪い持ちの人間を受け入れていくことで大きくなってきた組織だが、その秩序を乱すのも呪い持ちの人間だ、とギレルモは思う。もしもラフィータのような能力持ちの裏切り者がもっと増えれば、組織はどうなるのだろうか。それとも、「上」にはそういうことを見越した考えがあるのだろうか?いずれにせよ、能力持ちの人間を統制するのは並大抵のことではない。
ラフィータ死亡の知らせを添付画像もつけてそのまま「上」に送ると、ギレルモは携帯電話を閉じた。時刻は夕闇どきである。
大通りの騒音から離れた細い路地で、二人の男がたたずんでいた。路地に差し込んでくる夕焼けの光で、二本の影が汚れたコンクリートの壁面に長く伸びている。その形状は奇形の人間を思わせた。
「ジジイが来っかね?それとも若い女かもな。それかいつも通りのジャンキーか?」
二人の男のうちの一人、唇と耳にピアスをいれたスキンヘッドの若者がもう一人の男に唐突に聞くと、もう一人は曖昧に首を振って応じた。どういう意味で首を振ったのか、そのくせ顔はひきつったように笑っている。スキンヘッドの若者は漠然と気持ちの悪い奴だともう一人の男のことを思っていた。
もう一人の男とは、フラービオのことだった。マスタードイエローのジャケットが汚れないように、ポスターの張ってある壁を選んでもたれかかっている。その視線は仕事仲間と大通りの方とを行ったり来たりしてせわしなく、足下のボストンバッグも何度も確認している。ここに“品物”が入っているのだ。
ほどなくして一人、二人とジャンキーがやってきて、二人から小さな袋を買い求めていく。袋の小ささに見合わないような金額の金を受け取り、また受け取り、フラービオは例の笑いを抑えるのに苦労した。こんな物に大金をはたくジャンキーどもが馬鹿に見えて仕方が無かったのである。
「この分なら十分にさばけるな。客が多くてありがてえ」
独り言のように呟く仕事仲間の言葉を、心の中で「馬鹿が多くて」に改めて、また笑いを抑えようとするフラービオの表情は、いつにもまして心中のうかがえないものになっていた。
袋一つか二つについて、馬鹿が一人来るのであり、今日の分を売るまでに何人の馬鹿と会えるのだろうか、とフラービオは考える。
そうしたことで笑っていたフラービオであったので、日が沈んでから来た大柄な黒人の言葉には瞬間的に激しく不快感を覚え、おさまらなかった。
「売人なんてのもケチな商売だぜ。こんなもん高値で売るくらいなあ」
と、自分の金の無さを八つ当たりするようにその客は呟いたのだ。スキンヘッドは「言ってくれらあ」程度にほほ笑んで金を受け取っていたが、フラービオはそうではなく、自分が馬鹿と思ってやまない客にコケにされた、と感じて怒気を抑えきれないでいた。
客は、呼吸を荒くして睨みつけるフラービオに気がつくと「なんだよ」とけげんな顔をして、意味がわからない、といったリアクションをスキンヘッドにしてみせ、スキンヘッドも「何でもねえさ」と笑って返す。気味の悪いものを見るような眼で去っていく客を、最後まで睨みつけているフラービオの頭が仕事仲間に軽く小突かれた。
「おい、面倒事をおこそうとするなよ。そういうのは仕事中じゃないときにやれ」
言われて、あわてて呼吸を深くしてフラービオは気持ちを落ち着かせようとするも、それはただ呼吸が荒くなっただけにも見えた。しばらくしてその呼吸もおさまり、表情にも曖昧な笑みが戻ってきたが、心の奥の不快感はおさまらない。フラービオは記憶に刻みつけた黒人が、クスリで死ぬ姿を想像した。
そんなフラービオの様子も知らず、仕事仲間は路地に入ってくるシルエットに向き直り「さあ、次の客だぜ」とフラービオの背中をたたいた。
――そうだ。この気持ちは次の馬鹿に癒してもらおう。
背中を叩かれた瞬間にそう考え、満面の笑みでフラービオは暗闇に浮かびあがるシルエットを凝視する、と、それが若い男であることがわかってきた。
赤い光沢のあるスタジアムジャケットと、地面をゴツゴツと踏みならすブーツ、そしてジャンキーらしからぬ健康的な体が、弱い明かりの下で徐々に浮かび上がってくる。そして、見事な金髪。
やってきた男の、クスリ漬けの“馬鹿”どもとは違う威圧感のある風貌に、少しフラービオはたじろぎ、思わず数歩下がって男と距離をとった。男にとっては、フラービオよりもスキンヘッドの方が近くなる。スキンヘッドは男が近づき切らない前に商談を切り出した。
「さあ、てきぱきやろうぜ。何袋いるんだ?」
フラービオを除いた二人の間で、早速ビジネスが始まろうとするのを、客の男は手で制した。その大きな手のひらの動きも、どこか堂々としていて、商談を当然のこととして始めようとしていたスキンヘッドが一瞬たじろぐ。
「金はねえよ。悪いな」
男の声が路地の壁面に反響して響く。暗くて顔はよく見えない。
「俺がほしいのはクスリじゃない。情報だ。お前らみたいなのだと色々、客見てそうだと思ってな」
男の言葉にある外国人のようななまりが、不思議とその若い声の印象を重たくしていて、実際以上にその声はやや大きく響いていた。「クスリはいらない」と言ったとき露骨に身構えた二人の売人の眼の前に、男は一枚の写真を差し出し、強い調子で問いかけた。
「この男について知ってることを全部だ。全部教えろ」
二人は写真に映された男を見る。飾り気のない服を来て、短い髭を生やした黒髪の男――
――フラービオの眼に映ったそれは、アイトールの写真で――
「言え。今すぐに」
写真の向こうで言う男の顔――影になったその顔の中で、二つの瞳が赤く輝いてこちらを見据えていた。