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シスカ

 ――目覚めると、いつも通り見知らぬ我が家だった。


 固いベッドの上、眼だけを動かしてあたりの様子を見る。汚れたコートが無造作に床に丸まっていて、そのポケットの中からは銃弾がいくつか飛び出している。

 ベッド脇のサイドボードの上には拳銃が銃口をこちらに向けて投げ出されていた。そして、フローリングの床には赤黒いシミが入り口からベッドまで続いている。

 昨晩の自分はずいぶん余裕がなかったようだが、ともかく後で事情を整理しなければなるまい。仕事の夜は“表の自分”の記憶が途切れ、次には記憶が始まるのはいきなり、朝に目が覚めたところから、ということになる。何度も繰り返してきたものだが、そうそう慣れるものではない。

 のろのろとベッドの上から体を起こして、アイトールは気がついた。

 今朝がいつも通り、ではない点。起きてみると体中が痛く、その上頭は朦朧としている。そして、自分の体から染み出す血で、ベッドには生乾きの池が出来ていた。

 今までに無いほど自分の体が消耗しているのをアイトールは悟り、少し驚いた。意識が覚醒するにつれて再びうずいてくる痛みを抑えつけながら、サイドボードの引き出しを開けて救急箱を取り出そうとする。万一に備えて応急処置の方法くらいは“他の自分”から聞いていた。と、サイドボードの上のメモ書きに気がついて、取っ手に伸ばした手がとまる。


「シスカから離れるな」

「気をつけろ 片腕の男」


 ベッドに倒れこむ前になんとか書きとめたといったような走り書きで、ひどく乱れた筆跡だったが、どうやらそれは自分が書いたものらしかった。

 シスカ――とは誰のことだろう。そして片腕の男とは?この部屋の荒れ様も、この傷も。

「昨晩、何があった?」

 アイトールの口から思わず独り言が出た。もう一人の自分――昨夜を知る自分と話をしようとして、アイトールは眼を閉じ、精神を自分の内に沈めていった。

 二重の血(サングレ・ドゥプラ)がアイトールの持つ(マレフィシオ)の名前である。その内容は殺人人格であり、主人格のアイトールは好きなタイミングでもう一人の自分――機敏で破壊的で――仲介屋のギレルモが言うには美しい(エレガンテ)自分に変わることが出来る。

 ただ、人格が交代しているときの記憶は、後からアイトールが自分の内面でもう一人の自分と対話しない限り主人格のアイトールにはわからないのだ。だから、当のアイトールは自分の能力がどういうものか、自分の持つ殺人人格がどんなに有能なのかはあまり知らないのであった。

 そして水のように静まった精神とともに、もう一人の自分を呼ぶ――

 が、いつも通りにはいかなかった。もう一人の自分は応答しなかったのである。いや、それどころか更に精神を深めようとした瞬間、頭に激痛が走り、咄嗟に後頭部を手で押さえると、傷が開いてしまったらしく、その手のひらにはりついた血の模様を見て小さな叫びをあげてしまった。


 一時間後、アイトールはなんとか体の傷口の手当を終え、冷蔵庫のコンビーフを無理やり胃に詰め込んでいた。あれから何度か二重の血(サングレ・ドゥプラ)を発動させようとしたが、全て失敗に終わり、頭がその度に強く痛み、少し血が流れるだけだった。何者がここまでの痛手を自分に与えたのか――ふと、片腕の男という言葉が脳裏をよぎる。自分の知らない自分、異能(マレフィシオ)の自分が「気をつけろ」と警告した存在。

 裏の自分に話が聞けない以上、どうするかという不安がよぎった頭に、自分以上に裏の自分を知る男の名前が思い出される。しかも、仕事上がりの朝はいつもその男――裏の自分への仕事の仲介役の男とは会う約束であった。少しでも話を聞く必要がある、そう考えてアイトールは痛む体をなんとか立て直すと、ドアを空けて外へ出て行った。

 

 いつもの安酒場(ボデゴン)の奥の奥、壁際のひと際暗い席に太った初老の男が、ビールを片手に雑誌を何冊も広げて座っていた。ギレルモだ。

 傷ついた体で歩きにくそうに近づいてくるアイトールに気がつくと、ギレルモは雑誌を外して老眼鏡を置いた。そしてバッグを引き寄せて高額紙幣の薄い束を取り出す。

「アイトール、どうしたね。ドジを踏みでもしたかい。お前らしくもない」

「さあ……そうなんだと思うが、多分」

「まあ“裏の”お前さんが油断したのは今のお前さんのせいじゃないわな。ともかく、依頼は成功だ。アポリナールの一派は無事に粛清されたってもんさね」

「無事に成功したって?」

 ギレルモの言葉にアイトールは驚いて、席に座ろうとしていた腰を止める。アイトールがギレルモにも意外だったという様子で、札束を渡す手が止まった。

「アポリナールの一派の死体は確認され、足がつく心配もないだろうとのことだが……もう一人のお前が何か言ったかね?」

 どう言うべきか、アイトールが答えかねていると若い女のウエイターが席にやってきてアイトールに注文を聞いた。適当にジンジャーエールと答えてアイトールはギレルモに向き直る。何か言おうとしてするアイトールの思考を、ウエイターの「他には?」が遮った。

「無い。ジンジャーエールだけだ。行ってくれ」

「しけてるわね」

 短く言い捨てて、ウエイターは去って行った。思いもよらない言葉にアイトールは呆気にとられ、後姿を見送る。暗い明かりだからよく判別できないが、やっとアルコールが飲めるか飲めないかというような少女に見える。いつもここではウエイターなぞ見ていないが、あんな娘がいただろうか。

「で、何を言いかけたんだね?」

 ギレルモの問いに我に返ったアイトールは改めて向き直り、分かる限りで、なんとか舌足らずな説明を始めた。


「――ふむ。能力が使えなくなったと。初めてかね?」

「初めてだ。朝起きてここまで傷ついていたのも初めてで、正直、ここに来るのがやっとだった。今だって鎮痛剤を飲んでなんとか保ってる」

「それは、もう少しちゃんとした治療をした方がいいな。体が癒えれば能力も戻るかもしれん。手配しよう。後で奥の部屋を貸してやる」

 言いながらギレルモはアイトール側に置いた札束から数枚紙幣を抜き取る。黙ってその手を見ながら、アイトールは話を続けた。

「そうだ、ギレルモ、片腕の男というのに心当たりはないか?」

「片腕の男……?知り合いに腕が不自由な者が二人いるが……いや、パロマノルテにいるのは一人だな」

「誰だ?」

「アラス通りの煙草屋さ。ワシより年上のヨボヨボだ」

 警戒しろと書き置かれたのは、きっとそいつのことじゃない、と即座にアイトールは思う。ジンジャーエールを喉に流し込んで、ギレルモに書き置きのことを話した。

「片腕の男、とシスカか」

「そうだ。だけど俺にはなんのことだかわからないんだ。あっちの俺の人間関係だったらあんたの方が色々知っていると思って」

「仕事の中身についてはあまり話してないのかね。同じ体の兄弟なんだ。もっと仲良くした方がいいと思うがね。まあ、シスカから離れるなというのはたしかにその通りだな。今のお前はあまりに頼り無く、危なっかしい」

「シスカを知っているのか?」

「知っているもなにも――」

 そういってギレルモは手を挙げて少女のウエイターを呼んだ。

「彼女がシスカ――夜の弓(アルコ・ノクトルノ)のフランシスカじゃないか。お前とはよく組んで仕事をしたもんさ」

 骨ばったギレルモの手の先、酒場の中をこちらに歩いてくるその姿は、どう見てももう一人の自分やギレルモの住む世界の住人にか見えない。しかも、今ギレルモはこの少女が異能持ちであると言ったのだ。彼女が暗殺や血戦に関わっているということがアイトールには信じられない。

「せいぜい力が復活するまで守ってもらうといい。それじゃあ、お前は応急処置の続きだ」

 いつの間にかやってきていたギレルモの部下が、アイトールを掴んでバーの奥へ引っ張って行く。呆然とするアイトールの視界では、シスカと呼ばれた少女がギレルモから話をうけている最中だった。


 ――アイトールがギレルモの用意した治療を受けているのと同じころ、金髪の男がパロマノルテの市外を歩いていた。出店で買った水の瓶を片手に持ち、もう一方の手はレザーのジャケットのポケットにつっこんでいて、大股で雑踏をかき分けていく。

 すれ違う人、出店の前の人の顔を横眼でいちいち確認しながら歩く男は、水を一口飲むとポケットから写真のコピーを取り出し、写真の男の名前を思い出そうとした。

 ――ヴィクトル、アルベール……アナトール?どうもこちらの人間の名前は覚えにくい。

 写真を見ながら歩く金髪の男の肩が通行人にぶつかるも、そちらの方を見もせずに、少しなまった音で「失礼ぺルドン」と言い捨てただけ。男は写真――堅そうな黒髪をオールバックにした男の写真を裏返し、右肩上がりのアルファベットを確認する。いずれにせよ、この名前さえ覚えておけば問題ない。

 写真の裏に書かれた言葉――「サングレ・ドゥプラ」を小声で繰り返して、男は腰に下げた銃のグリップを握った。男は思う。そう、このユージン・フォレットにとって今大切な言葉は二つだけ、「サングレ・ドゥプラ」と、もう一つ、悪夢のような痛みに苛まれながらクレメンテがうめいた言葉。

「――復讐ベンガンサ、だな」

 金髪の男――ユージンは写真を再びポケットに入れると、次に取り出したタバコに手の中で火を着け、あてどなく夕闇の中を歩いていく。

 ――せいぜい俺のペースでやらせてもらうさ。俺の異能(スペシャル)光の手(ホワイトハンド)でな。

 男はほとんど吸っていないタバコを投げ捨てたが、そのタバコが地面につくことはなく、空中で一瞬白く輝いたかと思うと粉々になって消え去ってしまっていた。

 ささやかな力、その呪いの力に気がついた者は雑踏の中に誰もいなかった。

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