プロローグ
薄闇の中、薄汚れた壁にかかった時計は日付が変わる数十分前を指していた。取引の時間はもうすぐだった。
バーの二階の奥、窓の無い小部屋に三人の男が座っている。一人はダークグレーのスーツに身をつつみ、じっとグラスを見つめている中年の男。その隣では図体の大きい若者がリボルバーの弾倉をカラカラと回している。残りの一人の男は名前をエンリコと言った。派手なシャツを着て黒い肌をしたその男は、もう何十分も前からカラカラという耳触りな音と、淀んだ空気に耐えていた。が、時がたつにつれて沈殿していくような雰囲気に「やってられない」と思い、机の上の銃をひっ掴むと唐突に立ちあがって呟いた。
「ダンナが来るまで見張りを手伝ってくる。ダンナが来たらここまで連れてこよう」
中年の男がわかった、と言ったのを聞いたか、聞いていないのか、エンリコはさっさとドアを開けて出て行ってしまった。
ネズミかゴキブリでもいそうな通路を抜けて、軋む階段を降りる。裏口で、それまで見張りをしていた友人に声をかけてその隣に立った。エンリコは思う。取引の前の緊張もわかるが、それでもあの部屋はひどすぎる。ネズミ色のスーツのオヤジが内心で死ぬほどビクついているのが嫌でも伝わってくるし、拳銃をいじる若者はとにかくソイツを撃ってみたくて仕方が無いといった様子だ。
この町――パロマノルテの夜が深くなっていくのを見ながら、エンリコは涼しい夜気の中、やっと一息つけたような心地で友人と雑談を交わしていた。照明も消してあるので頼り無い星明かりの下で周囲を見張ることになる。バーの裏口から見えるのは汚れた路地裏だけで、犬がゴミをあさっていること以外は何も見るものが無い。ものの動きがわからなくなり、時間の流れも曖昧になっていく。退屈な夜の風景を眺めながら、友人がエンリコに聞く。
「今日のは特別なモンなのかい?アポリナールのオヤジ、落ち着かない様子だったが」
「そんなにビビるようなモンでもねえさ。いつもよりちょっとお高いクスリってだけの話だ。なんでああもビクつくのかもわかんねえし、いまさら新しいヤクに手を広げようとした意味もわかんねえさ」
友人は「そうかい」と少し笑い、黙った。犬の動く音だけがカサカサと聞こえている。退屈な見張りを続けていると、友人は不意に「時間を過ぎたぞ」と呟いた。言われて、エンリコは薄闇の中で友人の腕の時計を覗き込み、目をこらしてなんとか文字盤を読もうとする。長針が12を過ぎていることをエンリコが確認したのと、友人が「まさか」と呟いたのは同時だった。
――ド素人が!
心の中で毒づき、エンリコは一人でバーの正面入り口に走っていく。案の定、サングラスをかけた男がちょうど来たところだった。その男を客と勘違いした別の見張り役が、追い返そうとしているのを止めながら、エンリコはさっさと正面入り口を開け、ひきつった笑顔で言い放った。
「ようこそエル・ロソだな」
男があわててエル・ロホと言い直したのを見て、エンリコは合言葉どおりだとうなずき、男も安心したように微笑んでバーに入ってきた。こっちだ、と道を示しながらエンリコは気付かれないように舌打ちをした。
――“ビビり”の上司に狂ったボディーガード、その上、取引相手はズブの素人の田舎者、まったくもって糞ったれ、だ。
上司をビビらせないようにゆっくりとノックをして、エンリコは返事を待つ。間。返事無し。
イラつきながら再度、やや大きめにするもまた返事は無い。そうこうしていると後ろで男が不安そうにそわそわとしだす。
とうとうエンリコはノックをやめて、不機嫌にまかせて扉を大きく開けた。暗い部屋の中、鼻を突く匂いがする。アルコールの匂いではない。
と、エンリコの手がノブを握ったまま硬直した。エンリコの脇を通って部屋に入ろうとした赤色野郎が、部屋の中の様子に気がついて悲鳴を上げる。
部屋の中では、二人が首筋から血を流して倒れていて――要するに、いつのまにだか殺されていた。
赤色がパニックにまかせて逃げ出そうとするのを見て、エンリコは正気に返った。ともかく、奴が持ってきた“品物”は貰っておかなければいけない。それと、階下の見張りへの連絡、犯人の追跡など、様々なことがエンリコの頭をかけめぐる。
赤色野郎を追って階下、正面入り口に向かうと、そこでも見張りが殺されていた。首元をバッサリ切られていて、それでいて悲鳴一つ聞こえなかった。犯人の狙いを考えようとした瞬間、裏口の友人のことを思い出して、腰を抜かしている赤色を尻目にエンリコは走りだす。すぐさま友人の悲鳴が聞こえた。
角を曲がり、裏口に向かうと――
友人が黒いシルエットに襲われて拳銃を取り落とすのが見えた。いや、取り落とすというよりかは、トリガーにかけた指ごと切り払われてしまったらしい。エンリコは叫び、反射的に銃を影に向かって何発か撃ちっ放した。しかし命中したかどうかが夜闇の中で確認できない。
苦痛に顔をゆがめ、体を折り曲げる友人に駆け寄ろうとしたエンリコの顔に、友人の首から吹き出す暖かい液体がかかった。その背後で影が素早く路地裏に消えていくのがちらりと見える。
「クソッ!」
この惨劇を通じてエンリコに分かっていることは、どこぞの馬鹿者が襲撃してきて、またたくまに仲間は全て殺されてしまった、ということだけだ。正面入り口に引き返すと、赤色野郎までサングラスからナイフをはやして殺されている。直感が最後は自分の番だと告げる。
「誰だ!どこに隠れている!!」
物陰から距離を取ろうとしてフロアの真ん中に立つと、エンリコは銃を構えて何度も周囲を見回した。カウンターの裏か、机の下か、それとも裏口の方に身を隠したか?
影が何者かはわからないが、相当なやり手であることは確かだった。どこからかこのバーに忍び込んで、銃を持つ男たち相手に音もなく次々と暗殺を決めていったのだ。
「そんな包丁で俺が殺れると思うな!」
しかし、どんな使い手でも見つかる前に見つけて殺せば問題ない。相手の武器はナイフのような刃物だ。近づかれる前に弾を撃ち込んでしまえばこっちのものだ。たとえ防弾チョッキを着ていたとして、着弾の衝撃でひるむはずだ。そう考えて、何度もエンリコは周囲を見回した。思いこみか緊張か、あらゆる死角で影がうごめいている気がする。何処だ。何処だ。何処だ。
「――そこか!?」
一瞬、カウンターの裏で影が動いた気がして、エンリコはトリガーに力をこめ――
銃声。
静寂。
分厚い木の床に、温かな水がしたたる音がした。
人間が倒れる音。
エンリコが狙っていたカウンターには穴一つ開いていない。
銃弾が破壊したのは一階の天井と――エンリコの胸だった。それは二階から一階にむけて放たれたものだった。
乱れる息に血の泡が混じり、意識が急速に薄れていく。死を確信しながら、エンリコは、自分の馬鹿さに気がついて笑えない気分だった。
――糞。俺が最後の一人だったんだ。もう銃で派手な音を経てたって、誰に気がつかれることもない……。
天井に開いた穴から死にゆくエンリコの姿を見つめる眼が、不気味に赤く輝いているのがはっきりと見えた。この輝きは噂に聞いていた、「あの」輝きだった。人外の力を刻まれたものの光。知らず、血に混ざった言葉が口から漏れる。
「異能……」
“赤い目”はエンリコの死を確認すると二階通路の窓から、音もなく路地裏に消えていった。
そして、完全な静寂がバーをつつんだ。