無能と嗤われた宮廷地図師の私、婚約破棄されたので敵国へ渡す最後の地図を描き上げます ~前世の測量知識で、私を捨てた祖国の運命が決まりました~
「無能な地図師よ、お前との婚約を破棄する」
王太子アルヴィスの声が、大理石の広間に冷たく響き渡りました。
居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私――ヴィオラ・アシュフィールドに突き刺さります。
「魔力すら満足に扱えぬお前に、国の地図を任せる価値などない」
ああ、やはりこの日が来ましたか。
私は青ざめることも、震えることもなく、ただ静かにその言葉を受け止めました。魔力測定器に何度かざしても針一つ動かない、この『無魔力』の身。宮廷では長らく『無能の落書き描き』と嗤われてきたのですから。
(魔力がないと地図が描けない、ですって? 足で歩けば描けるでしょうに)
内心でそっとツッコミを入れながら、私はインクの染みた指先を握りしめました。
アルヴィスの隣で、豊かな銀髪の女がくすりと笑います。宮廷魔術師にして、彼の新たな寵姫――セレナ・ミストラル。
「まあ、殿下。そんなに責めてはお可哀想ですわ。この方はきっと、魔法測量というものをご存じないのですから」
彼女は掲げた一枚の地図を、まるで宝物のように広げてみせました。
「ご覧くださいませ、皆様。これが最新式の魔法測量図。一瞬にして、これほど美しく正確な地図が描けるのです」
光を帯びた線が、絹地の上を流麗に走っています。確かに――美しい。
うっとりと見惚れる貴族たちを尻目に、私は静かにその地図を見つめました。そして、気づいてしまうのです。
(……標高がズレている。等高線が嘘をついている。北の稜線は、実際には五百歩ほど東のはず)
谷筋の描き方も雑で、枯れ谷を水源地と取り違えている。
美しい。けれど――致命的に、間違っている。
「ヴィオラの手描き地図など、時代遅れの落書きにすぎませんわ」
セレナの言葉に、広間がどっと沸きました。
私は、静かに口を開きました。
「反論はいたしません。ただ一つ――その地図、北の谷筋をお歩きになったことは?」
セレナは、優雅に首を傾げました。
「歩く? あら、魔術師は歩きませんのよ。魔力で一瞬にして真実が見えるのですから」
「……そうですか。では、どうぞそのまま。美しい嘘を、大切になさってくださいませ」
(言ったところで、分からないのですから。この美しい嘘が、いずれ何を招くのかも)
アルヴィスが、苛立たしげに顎をしゃくりました。
「なんだ、その目は。最後まで生意気な女だ。とっとと消えるがいい」
私は、深く一礼しました。
「ええ。では、失礼いたします。……どうか、道にお迷いになりませんように」
*
断罪の翌日、私は国境防衛地図の全権を剥奪されました。
それだけではありません。
「ヴィオラ。お前のような役立たずを、我が家門は認めん」
実家であるアシュフィールド辺境伯家からも、あっさりと縁を切られました。父の目には、もはや娘への情の欠片もありません。
(数年前、私が国境を測量して回っていた頃は、便利に使っていたくせに)
そう思っても、口には出しません。
国外追放同然の身。手にしたのは、わずかな路銀と――擦り切れた測量靴、そして一巻きの地図だけ。
でも、私はこの地図こそが、何よりの財産だと知っています。
数年をかけ、身分を隠し、私はこの足で国境地帯を歩き回りました。三角測量で位置を定め、等高線で標高を刻み、水源、崖、雪崩地帯、隠れ谷まで――魔法では決して描けない、完全に正確な一枚。
前世の記憶が、私に教えてくれたのです。
現代日本、国土地理院の測量技師。三角測量、縮尺、地形判読。魔力になど頼らずとも、正確さにおいて私の地図は世界の誰より優れている、と。
王都の門を出るとき、私は一度だけ振り返りました。
城壁の向こう、王宮の尖塔。
「エルデニアは、リューグナーへの侵攻を計画している」
私は密かに、その情報を掴んでいました。そして、セレナの欠陥地図を頼りに進軍すれば――軍は存在しない橋を渡ろうとして崩落し、雪崩地帯で立ち往生し、戦わずして全滅する。
(このまま黙って見ていれば、祖国は勝手に自滅する。それは……ざまぁ、なのかもしれません)
でも。
私は歩き出しました。北へ。かつて『敵国』と呼ばれた、リューグナー辺境へ向かって。
私の目的は、復讐ではありません。
この地図を――正しく使われるべき場所へ、渡すためです。
*
リューグナー辺境の砦は、噂に聞くよりずっと質素でした。
「――貴様が、エルデニアから来た地図師か」
低く、腹に響く声。振り返れば、二メートル近い巨躯の男が私を見下ろしていました。褐色の肌、鋭い金の瞳。感情が昂ぶるたび、頬にわずかに鱗が浮かびます。
竜人将軍ガイウス・ドラクヴァルト。『冷酷無比の戦鬼』と恐れられた男。
その背後で、栗色の髪の若い斥候兵が慌てて口を挟みます。
「しょ、将軍、いきなり睨まないでくださいよ。せっかくのお客人が怯えちゃうでしょ……って、あれ、この人全然怯えてない」
副官のレオ、と名乗ったその少年に、私は小さく会釈しました。そして、机の上に一巻きの地図を広げます。
「ガイウス将軍。まずは、これをご覧ください」
巨躯の将軍が、無言で地図を覗き込みました。
次の瞬間――彼の呼吸が、止まりました。
「……これは」
節くれだった指が、震えながら地図の一点をなぞります。北の谷筋。雪崩地帯。隠れた枯れ谷。
「この谷は……三年前、俺が部下を三十人失った場所だ。地図には平地と記されていた。だが実際は――」
「崖でした。雪崩の常襲地帯です」私は静かに続けました。「魔法測量図では、決して見えない」
ガイウスの喉が、ぐっと鳴りました。
「これがあれば……これがあれば、俺の部下は、死ななかった」
強面の戦鬼の唇が、震えていました。
レオが目を見開いて地図に顔を近づけ、そして叫びます。
「これ……魔法より正確じゃないか……!? 将軍、この人ヤバいですよ、めちゃくちゃヤバい!」
(ヤバい、という語彙で片づけられるのは、少々複雑ですが)
私は姿勢を正し、ガイウスの金の瞳を真っ直ぐに見つめました。
「私は祖国に捨てられました。ですが、この手にある『最後の地図』――これだけは、正しく使われるべき場所へ渡します」
*
「取引がしたいのだな」
ガイウスが低く言いました。地図を敵国に売る――そう解釈したのでしょう。当然です。
ですが、私は首を横に振りました。
「いいえ、将軍。私は戦争を売りに来たのではありません。戦争を、止めに来たのです」
「……何?」
砦の空気が張りつめました。
私は地図の上に指を置き、ゆっくりと辿りました。
「エルデニア王国は、リューグナーへの侵攻を計画しています。頼りにしているのは、セレナ・ミストラルが描いた魔法測量図――美しいが、致命的に不正確な地図」
指先が、北の谷を示します。
「彼らの地図では、ここに渡れる谷があることになっている。ですが実際は、深い枯れ谷。橋をかけようとすれば崩落する」
次に、雪崩地帯へ。
「そしてこの一帯を『安全な進軍路』と記している。冬のこの時季、大軍が踏み込めば――雪崩が起きます」
ガイウスの金瞳が、静かに見開かれました。
「つまり」
「はい。侵攻軍は、地図の嘘のせいで勝手に自滅します」
私は顔を上げ、はっきりと告げました。
「あなたは、一兵も損なう必要がありません。剣を交える必要も、部下を谷底に沈める必要もない。ただ、正しい地形を知り、待っていればいい」
「血を流さず……戦を、終わらせる」
ガイウスが、噛みしめるように呟きました。
「そのために、貴様は敵国の俺のもとへ来たのか。祖国が自滅すると分かっていながら、それでも――」
「祖国は私を捨てました。ですが、私は祖国の兵士たちを憎んではおりません」
私は静かに微笑みました。
「谷底で死んでいくのは、地図を捨てた王太子ではなく、命令に従っただけの若い兵たちです。彼らを見殺しにするのは……測量技師の矜持が、許しません」
長い沈黙のあと。
ガイウスは、深く頷きました。
「――分かった。貴様の地図に、俺の判断を賭けよう」
レオが、そっと涙をぬぐいながら呟きました。
「将軍……この人、味方にして本当によかったですね」
*
雪の季節。エルデニア軍は、動きました。
セレナの魔法測量図を絶対の指針として。
三千の兵が、国境の谷へと進軍します。
先鋒が、地図に記された『渡れる谷』へ到達しました。
そこにあったのは――底の見えぬ、深い枯れ谷。
「地図が違うぞ! ここには谷があるはずが――」
混乱する兵たち。だが命令は絶対。無理やり橋をかけようとした工兵隊が、崩れゆく橋もろとも谷底へと消えていきました。
「進め! 迂回路を取れ!」
将校の号令で、軍は雪崩地帯へと押し入ります。地図が『安全な進軍路』と記した、あの一帯へ。
山が、唸りました。
轟音。
数千の兵が、一戦も交えぬまま、雪の中に呑まれていったのです。
――砦の物見櫓から、その一部始終を見つめていました。
私の隣で、ガイウスが静かに言いました。
「……本当に、剣を抜くこともなかったな」
「地図が、嘘をついた結果です」
私は目を伏せました。カタルシスなど、ありません。ただ――防げたはずの悲劇が、防がれなかったことへの、静かな痛みだけ。
そして王都では。
王太子アルヴィスが、敗報を受けて喚いていたそうです。
「なぜだ! 地図は完璧だったはず! 地図が間違っていたのだ!」
(その地図を作らせたのは、あなたです。私の地図を捨てたのも、あなたです)
レオが伝令から報告を聞き、呆れ顔で肩をすくめました。
「王太子サマ、ぜんぶ地図のせいにしてるらしいですよ。いやあの、地図を選んだのアンタでしょって話ですよねえ」
生還したわずかな将兵たちは、口々に証言し始めました。
『魔法測量図は美しかった。だが、でたらめだった』
『あの追放された地図師の手描き地図があれば、こんなことには……』
速いが不正確な魔法測量。地道で正確な手描き地図。
どちらが本当に国を守っていたのか――今さらながら、人々は気づき始めていました。
*
ですが、私が渡した『最後の地図』には――もう一つの仕掛けがありました。
「ヴィオラ。この地図の余白の、この模様は何だ?」
ガイウスが、地図の隅を指さしました。一見、装飾めいた細かな記号の連なり。
「暗号です」
私は答えました。
「私が国境を歩いていた数年間で、掴んでいた真実。それを、地図の余白に刻んでおきました」
レオが身を乗り出します。
「暗号!? な、なんて書いてあるんです?」
私は静かに、その記号を読み解いてみせました。
「――セレナ・ミストラルは、リューグナーの敵対勢力と通じた、敵国のスパイである」
砦が、しんと静まり返りました。
「彼女は、わざと欠陥のある魔法測量図をエルデニア王国に採用させていました。目的は――エルデニア軍を、自滅へと導くこと」
ガイウスの眉が、険しく寄りました。
「では、あの侵攻の失敗は……最初から、仕組まれていたのか」
「はい。セレナは、美しさに慢心していました。まさか私のような『無能の落書き描き』が、地図の余白に自分の内通証拠を刻んでいるとは、夢にも思わなかったでしょう」
私は微笑みました。
「この証拠を、中立の商業ギルドへお渡しください。ギルドは金と情報で動く。真実は――国境を越えて、広がります」
そして、数週間後。
商業ギルドを通じて、セレナの正体が大陸中に暴露されました。
宮廷の花形魔術師。王太子の寵姫。その仮面が、音を立てて剥がれ落ちたのです。
伝え聞いたところによれば――正体を暴かれたその瞬間、彼女は初めて、あの余裕の笑みを崩したそうです。
「なぜ……なぜ、あんな無能な女が……!」
(無能ではありません。ただ、あなたが見ようとしなかっただけ)
アルヴィスは、崩れ落ちました。
寵姫はスパイ。侵攻軍は壊滅。そして――唯一自国を守れたはずの女を、彼は自らの手で追放していた。
「失ってから気づく、というのは……」
ガイウスがぽつりと言いました。
「愚か者の特権だな」
*
エルデニア王国は、地図師を失いました。
それが何を意味するのか――王太子アルヴィスは、ようやく理解し始めていました。
地図は、一朝一夕には描けない。
魔法測量は速い。けれど不正確。そして、正確な地図を描ける唯一の人間を、彼は自らの手で追放してしまった。
数年をかけて国境を歩き、水源を確かめ、崖を測り、標高を刻む――その地道な作業を、代われる者は、もう国内に一人もいなかったのです。
伝え聞いた話では。
アルヴィスは新たな地図師を探させたそうです。ですが、集まったのは魔力自慢の魔術師ばかり。誰一人、正確な地形図を描けませんでした。
「なぜだ……なぜ、あの女でなければ描けないのだ……!」
王宮に響く、彼の空しい叫び。
(だから、言ったでしょう。標高もズレてるし、素人でも足で歩けば分かること、と。……でも、足で歩く者が、誰もいなくなったのですね)
国防の要たる地図を失った王国は、交易でも、防衛でも、じわじわと立ち行かなくなっていきました。
血に濡れた復讐は、一つもありませんでした。
ただ――正確な地図を、捨てた。
その一点の因果が、王国そのものの運命を、静かに決めてしまったのです。
これ以上の『ざまぁ』が、あるでしょうか。
レオが、王都からの噂話を集めては、嬉しそうに報告してきます。
「ヴィオラさん! 聞きましたよ、エルデニアの貴族連中、今さら『あの地図師を返してくれ』って言ってるらしいですよ! いやいや、追放したのそっちでしょって!」
私は静かに紅茶を口に運びました。
「戻る理由が、ありませんもの」
私の道は、もう、あちら側にはないのです。
*
リューグナー辺境の一角に、私は小さな『地図院』を創設しました。
魔力に頼らぬ測量術を、後進に伝えるための場所です。
最初の弟子は、片脚の不自由な老測量士――ダグ。齢六十の、頑固で実直な老人でした。
初めて私の三角測量を目にしたとき、彼は杖にすがりながら、ぼろぼろと涙をこぼしました。
「わしが……わしが若い頃に、この技があれば……」
震える声で、彼は語りました。
「若い頃、不正確な地図のせいで、隊を丸ごと失った。ずっと、悔いてきた。魔力至上のこの世で、わしのような地道な技術者は、ずっと軽んじられてきた」
私はそっと、彼の手を取りました。インクの染みた指と、皺だらけの手が、重なります。
「ダグさん。あなたの悔いは、これから救われる命に変わります。ここで学んだ者たちが、もう二度と、間違った地図で人を死なせないように」
「……ヴィオラ様」
地図院には、少しずつ人が集まってきました。魔力のない者。軽んじられてきた者。地道な仕事に誇りを取り戻したい者。
測量の心得を、私は一つひとつ伝えていきます。
三角測量。等高線。縮尺。地形の読み方。
前世で学び、この世で磨いた技術が――ようやく、正しく受け継がれていく。
レオが窓から顔を出して、笑いました。
「なんかここ、すっかり賑やかになりましたね。無能って追放された人が、今や大陸一の測量師の師匠ですもんね」
(無能、という言葉も、もう痛くありません)
夕暮れの光が、製図台に落ちた地図を、金色に染めていました。
*
その夜。
ガイウスが、地図院を訪ねてきました。
手には、ぎこちなく持った茶器の盆。
「あの……紅茶を、淹れてきた」
二メートルの巨躯の戦鬼が、慣れない手つきでカップに紅茶を注ぎます。そして――盛大に、こぼしました。
「っ……すまん、その、これは」
慌てて布巾を探して、テーブルにぶつかって、さらにこぼす。
(冷酷無比の戦鬼、と恐れられていた人が……)
私は思わず、くすりと笑ってしまいました。
「将軍。無理に淹れなくても、よろしいのですよ」
「いや……お前には、世話になった。感謝を、その、伝えたくて」
言葉を探すように、彼は視線を彷徨わせました。金の瞳が、落ち着かなげに揺れています。
そして、ようやく口を開いたかと思えば――
「……お前の地図がなければ、俺は道に迷う」
地図の話に、すり替えてしまうのです。
でも、その先を、彼は絞り出しました。頬に、わずかに鱗を浮かべながら。
「お前がいなければ……俺の人生も、道に迷う」
砦の外で盗み聞きしていたレオが、たまらず叫びました。
「将軍! それ、普通に『そばにいてほしい』でいいんですよ! なんで告白まで地形の話にするんですか!」
「う、うるさいぞレオ!」
真っ赤になって狼狽える戦鬼を見て、私は静かに立ち上がりました。
この人は、地形を読めずに部下を失い続けてきた。ずっと、道に迷ってきた。
そして今、不器用に――私という道標を、求めている。
私は、微笑みました。
「では――あなたの進む道は、私が生涯かけて描いて差し上げます」
ガイウスの金の瞳が、大きく見開かれ。
それから、ふっと、これまで見たことのないほど柔らかく、緩みました。
窓の外で、レオが「よっしゃあ!」と拳を突き上げ、老いたダグが目尻の涙をぬぐいながら、静かに笑っていました。
祖国に捨てられた、無能の地図師。
ですが今、私の手には――描くべき道が、確かにあるのです。
この先の人生という、まだ誰も測ったことのない、広大な地図が。




