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恋焦がれた花嫁来たる

 竜宮城に来てから一か月、七海はすっかり味の薄いご飯に慣れてきた。

 料理番は主にイルカが担当しているので、周りに気づかれず嫌がらせを続けることができているらしい。

 七海はひとに裏切られてばかりの人生だったので、たかがご飯の味が薄い程度では揺らがなかった。

 しかし、あの逢引きから嫌がらせのレベルが少しずつ上がってきたのだ。

 たとえば、城内ですれ違い様に「消えろ」だの「不細工」だの悪口をささやかれるようになった。小賢しいことに、七海がひとりの時を狙って、である。


 今日は小梅が女官会議に出るとのことで、家庭教師の夢子が来る前にイルカ軍団はやってきた。


「ちょっとアンタ、いつになったら乙葉様から離れるの!?」

「だから、私も海人になったんだから海でしか生きていけないんだって何回言ったら分かるの? アンタ達、馬鹿なの?」


 七海が鼻で笑ってやると、イルカ軍団は怒りを顕わにした。

 そして、リーダーの雪子が七海の頬を叩いたのである。一応手加減はされたのだろうが、たらりと垂れる鼻の感覚に鼻血が出たのだと理解した七海は「いったあ」と睨みつけてやった。


「これ、絶対頬が腫れるやつじゃん。なんてことしてくれるのよ」


 七海は冷静にティッシュで鼻血を拭った。


「アンタが私達を馬鹿にするのが悪いのでしょう!?」

「今度はヒステリックかー」

「雪子、やりすぎじゃない?」


 他のイルカに窘められて、雪子はそれ以上してこなかった。


「そろそろ家庭教師の夢子がくるよ、さっさと帰りな」


 その言葉を聞いて、血相を変えたイルカ軍団はそそくさと出て行った。

 どうにか鼻血は止まったが、ビンタされたところがじんじんと痛む。

 これは冷やさないと駄目だなと思っていると、家庭教師の夢子がやってきた。


「さて、今日も頑張りましょうね、七海様。 ……その頬どうされたのですか、真っ赤に腫れていますよ!」

「これね、さっき顔から派手に転んだの」


 なんてことはないように七海は取り繕うが、夢子は真剣な表情のまま七海を見つめた。


「……嘘でございましょう? 顔から転んだのなら、顔に畳の傷がつくはずです。先程イルカの雪子達とすれ違いました、彼女達は私を見るなり早足でどこかへと去って行きました。本来ならこの時間は厨房にいるはずです。 ……七海様、本当のことを仰ってください」


 短時間でそこまで見抜くとは、さすが家庭教師をしているだけのことはある。


「夢子は鋭いね」

「私も家庭教師をやらせてもらっている身ですからね、周りのことは嫌でも目に入ってくるものでございます」

「実は……」


 七海は竜宮城に来てからずっとされてきた嫌がらせを話した。

 食事、悪口、さっきのビンタなど、洗いざらい話すと、夢子はぽろぽろと涙をこぼしたのである。


「そんな、泣かないで、私なら大丈夫だから。それに、昔からこれよりもっとひどいことをされてきたから慣れてるしさ」

「そのようなことに慣れてはいけませんよ」


 そこに居たのは女官会議に出ているはずの小梅だった。


「小梅、聞いていたの? 女官会議は?」

「会議はいつもより早く終わりました。お話は途中からお聞きしました。 ……どうしてわたくし共にお話してくださらないのですか? わたくし達魚人では信頼に足らないということでしょうか?」


 小梅は悲し気にそう言った。勘違いをさせてしまったことが心苦しい七海はすぐに反論した。


「違う、そんなことないよ! ただ、私はひとを頼るということを知らないし、乙葉やみんなに迷惑かけたくなかっただけで」

「何も迷惑なことなどございません。わたくし達魚人は、乙葉様がずっと待ち望んでいた花嫁様が来られて嬉しいのです。海人はその数が少ないこともあり、異性同士で出会ったら即結婚するのがルールです。乙葉様は、お生まれになられた時から異性の方と出会ったことすらありまません。 ……わたくしから申し上げることができるのはここまででございます。後は乙葉様ご本人からどれだけあなた様のことをお待ちになっていらっしゃったか、お尋ねになられた方がよろしいかと」


 七海は乙葉のことを分かった気でいたが、彼の七海への想いの丈は計り知れないものなのかもしれない。


「乙葉、そんなに私のことを待ってくれていたの……?」

「ええ、それはもう。それと、このことはわたくしから乙葉様に告発させていただきます。主の奥方に嫌がらせするなど言語道断です」

「わ、分かった」

「さあ、夢子、引き続き七海様のご指導を頼みましたよ」

「もちろんでございます。ですが、その前に腫れた頬を冷やしましょうね」

「うん……」


 夢子は水に濡らしたタオルで頬を冷やし、その後に湿布を貼ってくれた。

 適切な処置を受けたおかげで午後には腫れが引いたのが救いだった。


 小梅の告発を受けて、乙葉は大変ショックを受けたらしい。

 信頼していた家臣が己の妻に嫌がらせするとは思っていなかったからだ。

 イルカ軍団の十人は、厨房から外されることになった。

 そして、彼女達の仕事は城磨きという女性では大変な力仕事に変わったという。



 その晩、ドキドキの食事の時間がやってきたのだ。もちろん胸がときめく方のドキドキではない。乙葉は七海に何も言わないし、それが却って七海の不安を煽いだ。

 乙葉と七海の前には、いつも通り見た目だけは美味しそうな食事が運ばれてくる。

 雪子率いる一部のイルカ軍団は厨房を外されたらしいので、薄味料理から解放されたはずである。


「いただきます」

「いただきます」


 七海はおそるおそる味噌汁を口にした。

 ……おいしい。きちんと味のする味噌汁は出汁が効いていて香りもよい。白米だって炊き立てのふっくらとしたご飯だ。漬物はほどよく酸味があって歯ごたえもいい。こんなにおいしい食事を食べたのは結婚式で出された食事以来である。

 七海はあまりのおいしさにすぐ完食した。

 今までもきちんと完食していたが、こんなに満たされた食事は久しぶりだった。

 そして、いつもなら楽しく談笑しながら食事をするのに、今日はそれがなかった。乙葉は無表情で七海ではないどこかを見ていたのだ。

 静かな食事に身を縮める七海が見えているのかいないのか、乙葉は「ごちそうさま」と言って、七海には目もくれず食事の間から出て行ったのだ。


「待って、乙葉」

「忙しいから、またあとで」


 後ろを振り返ることなく、乙葉は執務室へと行ってしまった。

 今までこんな風にされたことがなかった七海はどうしようもないほど悲しくなった。乙葉の気持ちを考えず、自分だけの感情だけで突っ走ってしまったことを深く後悔したが、それも遅い。

 落ち込んでいる七海を慰めてくれたのは小梅だった。


「乙葉様は、愛する七海様を守れなかったことが悔しいとおっしゃっておりました。ですから、七海様、どうか元気を出してくださいませ」

「……ありがとう、小梅。後できちんと話すよ」

「それがよろしいでしょう」



 無駄に広い浴室をひとりで使わせてもらっていることが今日ほど虚しく思ったことはない。

 贅を尽くした竜宮城の主の妻にだけ許されたこの浴室は、七海しか入浴が許されていない。

 長い髪をまとめて湯に浸かり、今までのことを考える。


 七海の人生は、家族が生きている時は平凡ながらも幸せな日々を過ごしていた。

 それが急に失われることの恐ろしさを知っている七海は、乙葉に見限られたらどうしようと不安になり、ぽろぽろとなみだがあふれてきた。

 今までどれだけひどいことをされても泣かなかったのに、大好きな乙葉に嫌われることの方がよほと辛い。

 浴室には七海の嗚咽と鼻を啜る音が響いた。


 浴室から出てきた七海はタオルで身体を拭いて、長襦袢を着る。

 これだけなら自分で着られるようになった七海は、するすると着つけていく。

 冷やしたタオルで目を冷やしたはいいが、泣いてしまったせいでまぶたは腫れてしまった。

 頬よりもひどくなってしまったと苦笑しながら、七海は脱衣所から出て夫婦の寝室へと向かった。  


 いつもなら寝る前に楽しくお話をするのだが、今日は乙葉の圧がすごくてどうにも話しにくい。

 どうしたものかと悩んでいると、乙葉は切なそうに柳眉を下げながら七海に迫る。


「七海、私はそんなに頼りなく見えるかい」


 似たようなやり取りを朝したなと思い出すが、今はそれどころではない。自分でどうにかしようとこっそり戦っていたというのに、雪子とかいうバカ女のせいで作戦はめちゃくちゃになってしまったのだ。

 何も言わない七海にしびれを切らしたのか、乙葉は七海を押し倒した。結っていない髪の毛がさらりと垂れ、七海は乙葉の腕と髪に捉われる。


「七海」

「ごめんなさい、乙葉。私、ひとを頼るということが怖くて……。乙葉のことはもちろん誰よりも信頼してる。だから、迷惑かけたくなかったの」

「迷惑など思うわけないだろう。私を信頼しているのならどうか頼ってくれ。約束だ」

「……分かった。もう隠し事はしないよ。だからね、乙葉も私を頼ってくれる?」

「もちろんだ」


 乙葉はそのまま額に唇を落とし、七海を解放した。


「……私のことが怖くなったかい?」

「え? どうして?」

「七海を力のまま押し倒しただろう?」

「びっくりしたけれど、怖いとか嫌だとか思わなかったよ」

「そうか、よかった。七海に嫌われたら私は一生立ち直れないからね」


 乙葉の言っている言葉は大いに理解できる。七海も同じ悩みを抱えていたからこそ、泣いてしまったのだから。


「その気持ち、分かるかも。私も乙葉に嫌われたらどうしようって泣いちゃったもん」

「だからまぶたが腫れているんだね。私のために流した涙はさぞ美しかったことだろう」

「そんな、大げさだよ」


 七海のまぶたに優しく触れる手は風呂上がりだからかいつもより体温が高く心地よい。

 流した涙が美しいなんて言うひとは、きっと世界中どこを探しても乙葉しかいないだろう。


「大げさなどではない、事実を言ったまでだよ」

「うーん、大げさだと思うけどな。でも、私が乙葉を嫌うことなんてないから安心して?」


 七海は寝ころびながら両手を伸ばせば、乙葉も同じように腕を伸ばし抱きしめてくれた。


「それを言うなら私も七海を嫌うことなんてないよ」

「ありがとう。私、一日でこの時間が一番好き」

「私もだよ、七海」


 うつらうつらとしながら、そういえば小梅が言っていた「乙葉様がずっと待ち望んでいた花嫁様」のことについて聞くことを忘れてたなと思いながら、七海はいつの間にか眠ってしまった。



 翌日、早朝に目が覚めた七海は時間を確認すると五時になったばかりだった。

 起きるには早すぎるのでもごもごと布団の中に潜ると、寝ぼけた乙葉が七海のことを抱き寄せたのだ。


「七海……」


 七海は名前を呼ばれて起きているのかと思ったが、どうやら乙葉は眠っているらしい。

 寝言で名前を呼ばれるということは、乙葉の夢の中で七海が出ているということ。寝ても覚めても七海のことを考えているらしい乙葉は、まだ七海のことが好きではないらしい。

 なんだか悔しくなった七海はそのままふて寝した。


 それから約二時間ほどして小梅が起こしにやって来た。挨拶をして着替えをして、身なりを整える。

 海の生活は現代日本を生きてきた七海からすれば、時代劇のような世界だった。

 着物だって竜宮城で着たのが初めてだ。ちなみに、七五三はドレスを着て写真を撮ったのだ。信心深い家系ではなかったので、神社に参拝することはなかったのである。


 朝食は昨日食べたものと同じくらいおいしかったので、七海は「腹が減っては戦はできぬ」ということわざを思い出し、人間も海人も基本は食事であることを身をもって体験したのだった。



 お勉強の休憩時間になると、七海と夢子、小梅の三人で女子会をするようになったのである。

 この時間だけはただの友達でいて欲しいと七海が言うと、小梅と夢子は最初こそ渋ったが七海の粘り強さに負けて承諾したのだった。


「七海様、昨日申し上げた『乙葉様がずっと待ち望んでいた花嫁様』の意味を乙葉様に聞かれましたか?」


 小梅と夢子は興味津々といった様子で七海に聞いてきた。


「ううん、仲直りするのにいっぱいいっぱいだったから聞くの忘れちゃったよ」

「ああ、もどかしいです!」

「ねえ、本当に!」

「そんなに?」

「ええ、とても素敵な言葉が返ってくるので、七海様は覚悟をされた方がよろしいかと」


 小梅はそれはそれは優しい瞳で七海を見つめた。


「楽しみだけれど、何か怖くなってきたかも……」

「そんなに身構えずとも問題ありませんよ」

「ふたりを信じるからね?」

「ええ、ええ。どうぞ素敵なお時間をお過ごしくださいませ」



 眠る時間だけは外に控えている者がいないので、完全にふたりの時間ができあがる。七海は今日の休憩時間に言われた素敵な言葉とやらが気になって仕方がなかった。

 そわそわして待っていると、乙葉が寝室にやってきた。


「おや、今日の七海はどうやら熱に浮かされているような顔をしているね」

「それは、乙葉のことを考えていたから……」


 赤面しながら七海が答えると、乙葉は面を食らったような顔をして七海同様真っ赤になった。


「……さて、布団に入ろうか」

「うん」


 向かい合うように身体を横たわらせた七海と乙葉は、いつもよりどぎまぎしている。

 少しの沈黙の後、先に話し出したのは七海だった。


「ねえ乙葉、ちょっといい?」

「うん? どうしたの?」

「『乙葉様がずっと待ち望んでいた花嫁様』って、どういう意味?」


 七海が問うと、乙葉は困ったような、それでいてどこか期待しているような眼差しを寄越した。


「……小梅かい? それとも夢子か?」

「ふたりだよ。きっと素敵な言葉が返ってくるって言われたから、私そわそわしちゃって……」

「女性はそういう話が好きなのだね」

「それで? どういう意味なの?」

「言葉通りの意味さ。私が七十年前に占い師から予言をもらったことは知っているだろう? 私はね、姿も声もどんなひとか分からない花嫁のことをずっと待っていたんだ。ずっとずっと、七海がやってくるまで」


 盛大な愛の告白を聞いて、七海は目を丸くした。胸が高鳴り鼓動が早くなる。


「私のことをずっと待っていたって本当?」

「そうだよ、七海。あなたのことをずっと待っていた。それこそ恋焦がれた花嫁だね」


 大好きな乙葉から恋焦がれた花嫁と言われ、七海はかつてないほど赤面し、涙で視界がぼやける。


「……それって、私のこと?」

「そうだよ」

「でも、乙葉は恋愛がしたいって言ってたよね?」

「ひとりよがりな恋では寂しいだろう?」

「それって、それって……。わ、私のことが好きってこと?」

「やっと気づいた? 陸の姫」

「ずるい! そんなこと言われたら、私……!」

「恋愛は相手がいてこそ成立するものだろう? 七海とする恋愛はとても心が躍って毎日が楽しいよ」

「私、乙葉は感情の機微に鈍いのかと思って色々悩んだのに!」

「ごめんね、私のことをちゃんと好きになってもらいたかったから……。でも、本当に私を好きになってくれてありがとう」


 乙葉はそっと七海に近づき唇を寄せた。初めて唇に口付けられた七海は「今の私、泣いていて可愛くないのに」とぼやく。


「嫌だった?」

「……嫌なわけないじゃない」

「そう、それならもう一度いい?」

「……うん」

「ありがとう」


 乙葉はもう一度七海に口づけをした。


「ふふ、互いを想い合いながらする口づけとはとても気持ちがいいね」


 七海は出会い頭に一度だけ口移しという名のキスをされたことを思い出した。


「そういえば、口移ししたって言ってたっけ」

「そうだよ。七海がどうしても欲しくて、私は欲望のまま七海の体内に海の世界の飲み物を飲ませたんだ。 ……軽蔑するかい?」


 自嘲気味に美しい顔をゆがませる乙葉は、それでも七海から視線を逸らさなかった。

 私から逃げないで。乙葉の強い意志を感じ、七海は「しょうがないなあ」と乙葉の手を取った。


「やってしまったことはしょうがないし、乙葉がそうしてくれなかったら私死んでたと思うから、結果的にはよかったんじゃないかな」

「七海に許しを請うことで、私のしたことはなかったことにはならない。だから、私はこの罪と向き合っていくよ」

「真面目だね。でも、そんな乙葉だから好きになったのかもね」


 七海が好きだと言うと、乙葉は七海を抱き寄せた。


「もう一度言ってくれるかい?私が好きだと……」

「好きだよ、乙葉」

「私も好きだ、私だけの七海。あの日の夜をもう一度やり直してもいい?」

「あの日の夜?」

「初夜のことだよ」


 初夜。夫婦になってから共寝はしているが、それこそ身体は交えていない。それを今夜、そのやり直しをするのだ。


「あ、そ、そうだね」

「嫌かい?」

「ううん、ただ、その、緊張しちゃって」

「私も緊張しているよ。胸の鼓動がいつもより早くなっているだろう?」


 海人はとても長生きなので普段の鼓動はとてもゆっくりなのだが、今夜の乙葉の心臓はいつもより早い。


「……鼓動が早いね」

「だから言っただろう?」


 乙葉の顔を見ると、熱を孕んだ瞳が七海を射抜く。

 乙葉は七海に近づくと、七海は何をされるのか理解したのでまぶたを閉じた。唇に触れる熱は少し冷たい。それでも人肌のぬくもりを感じた。何度か優しく食まれ、呼気が上がる。

 そっと押し倒された七海は、のしかかってくる乙葉を受け入れた。

 そして、夜が更けていく──。

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