よろしいならば戦争だ
翌朝、目が覚めると美しい顔がどアップに目の前に飛び込んで来て、恋愛もろくにしていない七海は慣れない高揚感にドキドキする。
「……んう」
色気を含んだ声で起きたのは、隣に寝ていた乙葉だった。
「おや、七海さんは早起きなのですね。おはようございます」
「お、おはようございます」
さわやかに朝の挨拶をしたと思ったら、急に顔を赤くしてそっぽを向く乙葉に疑問に思った七海は「どうかしましたか?」と尋ねる。
乙葉は視線を下に下ろしながら、「胸元と足元が乱れていますよ」と言った。
七海は下を見ると、見事にはだけている胸元を掻き合わせて整えた。
「その、教えてくれてありがとうございます」
「いいえ……」
新婚のふたりは昨日出会ったばかりで、乙葉に関しては女性を見たのも七海が初めてということもあり、免疫が全くないところがちょっと可愛いなと思う七海だった。
それから程なくしてから七海付きの女官小梅がやってきた。
乙葉が「小梅に部屋の案内を頼んだから見てみて。朝食はともに食べましょう」と言って、乙葉は私室に戻って行った。
七海は小梅の後を追うと、寝室の隣にある部屋が七海の私室らしい。
彼女に朝の支度をしてもらいながら、七海はされるがまま身を委ねた。小梅は信頼できるし、何より女官という役職就きなので、それだけ乙葉から信頼を得ているのだと分かる。
「朝食は乙葉様とご一緒ですが、乙葉様はあの通りとてもお優しい人柄をされています。なので、緊張せず七海様のご家族と食卓を囲うと考えて差し上げてください。乙葉様もそちらの方が喜ばれるでしょう」
「分かりました」
「では、支度ができましたので向かいましょう」
小梅に案内されたのは昨日とはまた違った部屋で、ここは元々乙葉がひとりで食事をしていた部屋らしい。
乙葉は竜宮城の主なので、いくら家臣を大切にしているからといって、おいそれと同じ席で食事をするのはタブーのようだ。
これは、海の世界の独自のルールなのだろうと察した七海は、小梅の言っていた言葉の意味が理解できた。
竜宮城の主はたったひとりで食事をしていたのだと──。
七海の方が先に部屋に着いたようで、広い部屋にひとりになった。小梅は七海を食事の間に連れてくると、そのまま女官が待機する部屋へ行ってしまった。
窓を開けると海がよく見える。ただの人間だったらこんな海底近く(?)では呼吸が続かないし、何より水圧でぺちゃんこになっているだろう。七海は自分が本当に海人になったのだと実感した。
「お待たせしてすみません」
凛とした声に振り向けば、着替えて身なりを整えた乙葉が立っていた。長い髪は後ろでひとつに束ねられ、乙葉の動きに倣って揺れる様が美しい。
「綺麗ですね」
「ええ、私もこの景色は気に入っておりますよ」
七海が窓から景色を眺めていたからか、乙葉は勘違いしているようだった。
「違います、乙葉さんが綺麗だなって思ったんですよ」
七海の言った言葉を理解したのか、乙葉は赤面して顔をふいと背けた。
そして、小さな言葉で「七海さんも綺麗ですよ」と言った。
「お世辞でも嬉しいです」
「お世辞などではありません」
乙葉は顔を背けていたくせに、赤面しながら七海の目を見て真っ直ぐ「あなたは綺麗だ」と言った。
真正面から綺麗と言われたのは初めての七海は、乙葉以上に顔を赤くさせながら「ありがとうございます」と言った。
料理を運んできた女官達は七海と乙葉のやり取りが終わるのも待っていたらしく、襖越しに「朝食をお持ちしました」と声をかけてきたので、乙葉は「いいよ」と言って入室の許可を出した。
女官達は「失礼します」と言って、ずらりと朝食を並べた。
美味しそうな日本食に近い料理を並べられて、七海は文化の違いがそこまで大きくずれているわけではないことに安心した。
「いただきます」
「いただきます」
まずは味噌汁を飲もうと口に含むと、やけに薄い味で具が何も入ってなかった。まあそういうこともあるかと漬物を食べると、そのままの野菜の味がする。海人は薄味と素材をそのまま活かした食べ物を食べるのかと思ったが、昨日の宴会の席ではとても美味しい料理を食べさせてもらったことを思い出す。
ちらりと乙葉の味噌汁の器を覗くと、野菜がたっぷりと入っていた。七海はそこで気づいた。陸の人間である七海が歓迎されているわけではないのだと。
これを指示したのが乙葉とは思いたくない七海は、ひとつ芝居を打つことにした。
「海の世界のご飯、とても美味しいです」
にこりと微笑んで乙葉に言うと、彼は美しい笑みを浮かべて「七海さんに喜んでもらえて嬉しいです」と、心から思っていると分かる言葉をくれたので、これは七海のことが気に入らない海の生き物の誰かの仕業だなと中りをつけた。
まさか新天地に来ても嫌がらせをされるとは思っていなかった七海は、わざとまずい食事を出されたものを食べながら元の世界での出来事を思い出した。
──七海は高校二年生の時、家族を失った。家族のお葬式の時、まだ未成年の七海を誰が引き取るかで話し合われるのが嫌だった七海は「高校卒業したら働きますから大丈夫です」と、親戚の前で宣言した。
結局七海を引き取ったのは母方の祖母で、高校の学費は両親が貯めていた貯金を切り崩して通っていた。
唯一の救いはその貯金が五百万円ほどあったことと、公立の学校に通っていたことだった。「お金の管理はおばあちゃんにまかせてね」という言葉を信じたのがいけなかったのだ。
七海は元々成績がよく、有名な国立大学の受験を目指していたが、両親の貯金が思った以上にあったので大学進学を決めたのだ。毎日必死に勉強して、アルバイトもする。
転校してきた才女が気に入らない女子から意地悪をされたが、帰る度に祖母が朗らかな笑顔で出迎えてくれたのが七海の支えになっていたのだ。
そして、高校三年生になり、祖母に大学受験することを話した。
すると、祖母は大変驚いた顔をしながら「七海ちゃんならできるわよ」と言って、次の日たったの三十万だけ置いて姿を眩ませたのだ。七海は大金を失い途方に暮れていた。
ひとを信じた過ぎたら痛い目を見る、それを十八歳にして学んだ。
奨学金を借りるという手段もあったが、どうせ誰も証人になってはくれないだろうと諦めた七海は、高校を中退して働くことにしたのだ。
新入社員としてわずか十八で入社した会社は、とんでもなくブラック企業だった。毎日の残業は当たり前、しかも残業手当はなし。どうにかある土日の休みだけで身体が休まるわけがないのだが、仕事を辞めたら生きていけない。
若くて可愛らしい女性社員というものは、よくも悪くもひとを引き寄せる。
男性社員からは飲み会に誘われるし、女性社員からは「若いからと調子に乗るな」と程度の低い嫌がらせが続いていた。
私がなにをしたっていうの?
七海はもはや怒りという感情だけで生きていたのだ
そして、またしても嫌がらせが始まった。
ならばと七海は決意した。徹底的に戦ってやると──
薄味の朝食を見事に平らげた七海は、これはこれで健康的でいいと思うことにした。乙葉も完食し、満足気にしている。
乙葉は食事中ひとことも話さなかった。それもそうだろう、今まで話す相手がいなかったのだから。
「ねえ、乙葉さん」
「なんでしょう?」
「お互い敬語を使うのはやめませんか? 昨日言ってたじゃないですか、少しずつ仲良くなりましょうって。だから、私のことはどうか七海と呼んでください」
「ですが……」
「私達は夫婦なんでしょう? だったら、私は乙葉さんのことを好きになりたい。乙葉さんも恋愛したいって言ってたじゃないですか」
七海の言い分は尤もだと理解したのだろう、乙葉は戸惑いの表情から笑顔に変わった。
「分かりました。……いや、分かったよ、七海。七海の言う通り私達は夫婦だ、ともに寄り添ってよい夫婦になろう」
「そうだね」
「では、私のことも乙葉と呼んでくれるかな?」
「ええ? 乙葉さんって私より百歳も年上なんだよね? さすがに呼び捨てはできないよ」
「それなら私は、このまま丁寧な話し方を続けますよ」
「あ、ずるい!」
乙葉はくすくすと笑いながら七海の反応を楽しんでいるようだった。
「乙葉」
「え?」
「七海の口から乙葉と呼んで」
「……乙葉」
「ふふ、なんだか気恥ずかしいけれど、心地いいね。これからもよろしく頼むよ、七海」
「こちらこそよろしくね、乙葉」
新婚夫婦の朝食は和やかなものに終わった。
乙葉はこれから仕事があるからと、執務室へと行ってしまった。
七海は乙葉の後ろ姿に目がけて「乙葉!」と大きな声を出した。その場にいた者が一斉に七海を見やった。竜宮城の主である乙葉のことを、七海が呼び捨てにしたからだ。
「今度、デートしようね!」
声に応えるように、七海の前までやって来た乙葉は不思議そうな顔をしていた。
「『でえと』とはなにかな?」
七海はデートを日本語に例えるのならと考えを巡らす。
そして、ひとつの言葉が浮かんだ。
「デートは逢引きのことだよ」
「あ、逢引き……」
乙葉は赤面しつつ、「近いうちに時間を作るよ」と言って、早歩きでその場を去った。
静かに見守っていた家臣達は、「乙葉様の笑顔久しぶりに見た」と口々に言った。
「そうなの? 乙葉は私の前だとよく笑うよ」
七海はにこりと微笑みながら、周りをざっと見まわした。みんな嬉しそうにしている中で極一部の女達が悔しそうな顔をしていたのを七海は見逃さなかった。
小梅とともに私室に戻った七海は「乙葉って綺麗だよね」と口にした。
しかし、小梅はそれについては一切触れず、「そちらについては、わたくしからは何も申し上げられません」と目を伏せて言った。
何か言ってはいけないことだったのだろうかと思ったが、実際に乙葉が綺麗なことには変わりないので言葉を続けた。
「だから、私言ったんだ。乙葉は綺麗だねって」
それを聞いた小梅は「まあ!」と少女のようにはしゃいだ。
「それで、乙葉様はどうされたのですか?」
「乙葉も私のこと綺麗だよって言ってくれたの。恥ずかしかったけれど、嬉しさの方が上だったよ」
「まああ! なんてことでしょう!」
伏目で会話していたのに、七海と乙葉が互いのことを『綺麗』と言ったことを伝えたら、小梅は少女のようにはしゃいでいるのが意外だった。
「小梅、さっきからどうしたの?」
「七海様、よく聞いてくださいね。海人にとって『綺麗』と言うのは特別な意味が込められているのです」
「特別って?」
「あなただけしか見えない、そういう意味がございます」
「そうなの!? 私、二回も言っちゃったよ」
「それはそれは、熱烈でございますねえ」
「……待って、逆を返せば乙葉は私しか見えないっていう意味だと分かってて言ったってことになるの?」
七海は真っ赤になり、身体が熱くなる。自分の知らない海の文化でのやり取りをしていたことにときめきと戸惑いを覚える。
「愛されていますね、七海様」
七海としては、乙葉があまりにも美しいものだから、つい口から出てしまっただけの言葉である。
それなりに永く生きている乙葉も、七海が海人の文化を理解していると思っていないだろう。
それでも、ずっと待っていた七海から『あなただけ』といわれたら、人口が少なすぎる海人である乙葉にとって、やはり特別な意味を持つのだろう。
「それなら間違ってないよ。だって、私達夫婦だもん」
七海が笑顔で答えると、小梅も優しい顔で頷いてくれたのが存外嬉しかった。
竜宮城の主の妻になったとはいえ、海の世界の知識がゼロの七海は勉強するところから始まった。
元々勉強が得意の七海は一度教えられたらすぐに覚えるので、家庭教師からの評判もよかった。
昨日から一緒に共寝をしている七海と乙葉は、それぞれ過ごした一日を話すのが習慣にすることにしたのだ。
「今日の朝の出来事覚えてる?」
「色々ありすぎて、何のことか分からないよ」
くすくす笑う乙葉は、湯上りということもあって色気がだだ洩れである。
目に毒だなと視線を逸らし「綺麗という言葉についてなんだけど」と言って、ごろんと寝返りをうちながら乙葉の方に身体ごと向き合った。
「小梅から聞いたよ。海人にとって綺麗という言葉は『あなたしか見えない』という意味なんだって」
「おや、知られてしまったね」
「でも、乙葉は意味を分かってて綺麗って言ってくれたんでしょう? 私は嬉しかったよ」
「本当に?」
「うん、だって、私には乙葉しかいないから」
「七海……!」
感極まった乙葉に七海はいつの間にか抱きしめられていた。
「七海のこと想うと胸が満たされる……。こんなに幸せだと思ったのは初めてだ」
乙葉の長い水色の髪が七海の黒髪と絡み合う。
いつかこんな風に乙葉と感情が結ばれるといいなと思い、七海は人間より少し体温の低い大きな身体に包まれて、気持ちはとても満たされていた。
こうして人肌を感じるのは、一体いつ以来だろうか。
温かなぬくもりが心地よくて、うとうとしてきた七海はそのまま眠りに就いた。
周りから見れば絶好調の七海を快く思わない者達は、小梅がお手洗いで七海のそばから離れる瞬間を見計らって、主の妻である七海の部屋に勝手に入ってきたのだ。
「七海サマ、少々よろしくて?」
物語に出てくる悪役令嬢みたいな話し方をするなと思った七海は、ついにきたかとあの時──乙葉とデートの約束をした時のことだ──にむっとしていたイルカ軍団が早々に姿を現したのだ。
「何の用?」
身分としては七海の方が上なので、七海は御託はいいから早く話せといった風に手でジェスチャーした。
それも気に入らないのだろう、イルカ達は悔しそうにしながらも七海に立てついてきた。
「七海サマは陸の人間なのでしょう? 住む世界が違うのだから早く身を引くことをお勧めいたしますわ」
「私、乙葉に海人にされちゃったから帰れないんだよね」
「乙葉様のせいにするのはおよしなさいよ、乙葉様にはちゃんとした海人の方がお似合いです」
「そうは言っても、私乙葉に『綺麗』って言ったし、乙葉からも『綺麗』って言われたんだよね」
『綺麗』というキーワードに食いついたイルカ達は、面白いほどに狼狽えていた。
「な、なんですって……!? 小梅さんがそう言えと教えたのでしょう!?」
噛み付くように金切り声を上げるイルカにうるさいなと思いつつ、七海は淡々と先日の出来事をあるがまま伝えた。
「ううん、本当に綺麗だと思ったからそう言っただけ。海の世界の文化って美しいね」
「陸の人間風情が……!」
「化けの皮はがれてるよ」
「うるさい、おだまり! いいこと、私達イルカはあんたのこと認めてないから!」
そう言って小梅が来る前にさっさといなくなった。
イルカの軍団は十人ほどいたので、おそらくその十人だけが七海のことをよく思っていないのは確かだった。
しかも、七海がひとりでいる時間を狙ってやって来たようなので、それだけでも小者だと分かる。
「そっちがその気ならやってやろうじゃないの」
七海は目標を三つ立てた。
一つ、乙葉と恋愛をして素敵な関係を築くこと。
二つ、乙葉の妻として恥ずかしくないひとであること。
三つ、敵は自分の力で一掃する。
敵しかいない人生だったが、乙葉のことは信頼できると思った七海は、彼のことを信じ恋をしたいという気持ちが生まれた。
そして、敵には立ち向かわずのらりくらりと躱すだけだった七海は、もう保身に走ることはやめた。
歯向かうやつは徹底的にこてんぱんにしてやると誓ったのである。




