亀を助けただけなのに
社会人の七海は、夏休みを利用して海へ遊びに来ていた。
傷心に浸りながら、昔家族四人で遊んだ海のことを思い出す。
そんな七海には家族がいない。三年前の家族旅行で、七海以外みんな死んでしまったからだ。
家族の四回忌の帰り道、七海は珍しく人気のない海に来ていた。夏なので海に入りたいと思った七海は、サンダルを脱いでちゃぷちゃぷと浜辺で波と戯れる。
七海が波を蹴ったりしながら楽しんでいると、近くから子供の声が聞こえた。この町の子どもなのか、小さい亀に石を投げたり木の棒でつついたりと悪さをしていたのが目に映る。七海は正義感が強いので、ワルガキ三人を怒った。
「こら! 三人で寄ってたかって小さい亀をいじめるなんてだめだよ!」
「うわー! オバサンが怒りやがったー!」
「な、オバ……!? 私はまだ二十歳のピチピチの女の子です! とにかくいたずらするのをやめなさい!」
大人に叱られてバツが悪そうな顔をしながら、子ども達は七海に砂をかけながら走り去って行った。
「全く、なんてクソガキなの? あなたも怖かったでしょう、もう大丈夫だからね」
小さい亀はまるで言葉を話そうとしているかのように、口をパクパクと動かしているようだった。
「さあ、海にお帰り」
こんな熱い時期に亀が海辺にいるのはおかしいと思ったが、まあそういうこともあるかと深く考えず、亀を手ですくって海へと返した。
「気をつけてね」
すると、下の方から声が聞こえた。周りを見渡すが、人っ子一人いない。
気のせいかと踵を返すと「待ってください!」と少年の声がはっきり耳に届いた。後ろを振り返るが、やはり誰もいない。
不気味に思った七海はそそくさとその場を離れようとしたが、それは叶わなかった。
なぜなら、七海の回りを大量の亀が囲っていたからである。
「なにこれ!?」
亀はみな一様に口をパクパクと動かすが、何をしているのか分からない七海は、亀にサンダルを持って行かれたので急いで追いかけた。
しかし、サンダルを持った亀は海に入ってしまったので、七海はざぷんと海に入った。Tシャツに短パンだったので服が濡れることはなかったが、足はびっしょりと濡れてしまった。
亀はどんどん進み、七海はひたすら後を追った。
「ちょっと待ってよー!」
七海が待ったの声をかけると、下から「恩返しと我が主様の元へご案内させてください」とはっきりと聞こえたのだ。
夏の暑さのせいでおかしくなったのかと思った七海は、なんだかくらくらしてきた。
やはり、夏の暑さにやられたらしい。
七海は意識がぼんやりとしてきて、ぐらりと身体が傾ぐ。
やばい、倒れると思った時には意識が途切れていた。
なんだかひんやりとしていて気持ちいい。そよ風に吹かれながら、人肌のように温かい枕のような何かに身を委ねているようだった。
七海はこの天国のような夢心地にから目が覚めたくないと思ったが、いつの間にか目が覚めてしまう。
「うーん、なんだかいい夢を見られた気がする」
「それはよろしかったです」
「え?」
顔を上げると、そこにはまるで海の化身と言われても信じてしまいそうなくらい美しい男(?)がいた。
七海はその人の膝で眠っていたようで、美しい顔がすぐそばにありどぎまぎした。美しいひとが七海のことを覗きこんできたので、七海は慌てて美しい人から距離を取った。
「私の大切な家臣を救ってくださったのはあなたなのでしょう? 陸の姫」
「陸の姫!? 私はただの社会人で……」
「なんと、姫でありながら働いていらっしゃるのですね」
「話がかみ合わない!」
七海は確かに亀を助けたが、陸の姫などではないことと、普通の社会人であることを伝え、最後に名前を名乗った。
「では、七海様と呼ばせていただきますね」
「七海でお願いします」
「ですが……」
「七海でお願いします」
七海が強めに言ったことで美しいひとは不承不承といったふうに「それでは『七海さん』とお呼びしますね」と言った。
「さて、七海さん、喉が渇いたでしょう。こちらをお飲みください」
透明な色の液体が入ったグラスを渡された七海は、見知らぬひとから渡された飲み物を飲むほど馬鹿ではない。
「……失礼ですが、あなたが先に飲んでくれますか?」
毒味させようとしたのが分かったのか、美しいひとは七海からグラスを受け取ると、ぐいと煽った。喉が動いたことを確認した七海は再びグラスを受け取る。これでは間接キスになってしまうが、それが気にならないほどに喉が渇いていた。
「これで納得いただけましたか?」
目の前で毒見をしてくれた美しいひとは淡く微笑んだ。
何もなさそうなので、喉が渇いていた七海はグラスの飲み物を口に含んだ。
それは何の変哲もないただの水だったので、疑って申し訳なく思った七海は小さく「すみません」と言葉にした。
「いいえ、気にしておりませんから。申し遅れました、私はこの竜宮城の主、乙葉と申します」
竜宮城に乙姫? ここは浦島太郎の世界なのだろうか?
だが、美しいひとは乙葉と名乗った。七海の聞き間違いだろうか。
「乙姫?」
「いいえ、乙葉です」
どうやら本当に乙葉というらしい。
「その、男性で合ってますか……?」
「はい、私は男です。占い師の言った通りでした、私の家臣を助けてくれた者が妻になるべく陸からやってくると……」
「妻!?」
「はい、妻です」
「ちょっと待ってください。私は元の世界に帰るので、あなたの妻にはなれません! そもそも初対面のひとと結婚もできません!」
「ああ、それなら問題ありません」
「なにが問題ないんですか」
「だって、七海さんは陸にはもう上がれませんから」
乙葉はにっこりと微笑んで七海を見つめた。海のように青い瞳は嘘をついているようには思えない。
「ええ!? なんで……」
「七海さんは、こちらの世界のものをご自身で口にしたでしょう? それが示すのは、もう元の世界には戻れないということです。七海さん、水を飲むまでは少し息苦しかったでしょう? あれは私が口移しで水を飲ませ、こちら海の世界に順応するようにしたからです。しかし、それだけでは身体が馴染まなかったので、呼吸が苦しかったということです」
色々とおかしいことだらけだ、これは夢に違いない。そう思った七海は乙葉の目の前で横になり目を瞑った。
「七海さん、何をされているのですか?」
「これは夢なので、夢から覚めるようにしているんです」
「おやおや、かわいらしいことをする。七海さん、これは夢などではなくて現実ですよ」
「夢です」
「現実です。夢ならとうに覚めていることでしょう。でも、七海さんの意識も身体もここにある。諦めて私の妻におなりなさい」
乙葉は確かに美しい。海を彷彿とさせる長い水色の髪と髪よりも濃い青い瞳は、普通の人間ではありえないことである。中には極々僅かに紫色の瞳を持つ人もいるらしいが、それでも水色はありえない。
そう、ありえないことだらけなのだ。
七海はまだここにいることが夢だと疑ってない。
そんな七海を感じ取ったのだろう、乙葉はこちらにおいでともはやふて寝状態の七海を起こして手を握った。
「温かいでしょう? 私の手の感覚は? 心臓の鼓動だって脈を通して感じるでしょう?ねえ、七海さん。ご理解いただけましたか?」
七海は何も言葉を紡げなかった。確かに乙葉というひとの体温や息遣い、脈から感じる心臓が動く感覚がリアルに伝わってくるからだ。
そして、七海は悟った。ここは海の奥深いところで、もう二度と陸には帰れないのだと・
「どうして私なんですか?」
「それは私には分かり兼ねます。ですが、ここにきたのが七海さんでよかったと私は思いますよ」
「……どうして?」
「分け隔てなく平等に生き物を見るのは簡単にできることではありません。そういう優しさを持つ者は竜宮の妻に相応しいと思うのです」
「その、乙葉さんは人間ですか?」
「そうともいえますし、いえませんね。私達海の生き物は陸の人間と違い独自の進化を遂げたので、寿命が長いのですよ」
「乙葉さんはいくつですか? 私は二十歳です」
「私は百二十歳です。百年違いますが、それも些末なこと」
「いや、全然些末なことじゃないですよ! 乙葉さんおじいちゃんじゃないですか!」
「それは語弊がありますよ、正確には不老長寿ですから老いぼれてはいません」
笑ってはいるが怒っているように見えなくもない乙葉に七海は「すみませんでした」と謝罪する。
そして乙葉は「分かればよろしい」と言った。
「私達海人は、母なる海の生命力のおかげで千年以上は生きます。私のように位が高い者は、悠久の時を過ごすのです」
悠久とは果てしなく永い時のことをいう。
「私のようにたったの百年ちょっとで妻を見つけられるのは奇跡に近いのですよ」
そういう乙葉はどこか遠いところを見ていた。それ以上は何だか踏み込んではいけない気がした七海は質問することをやめた。
「さあ、七海さん、我が城を案内しますよ」
お城は海の中だというのに立派な建物だった。七海は日本人なので、日本式に近い形で建立された竜宮城に親近感が湧く。竜宮城は白鷺城で有名な姫路城のように、白で統一された美しい外観をしていた。
城の中に入ると、たくさんの魚が忙しなく動いていた。
「なんか、お魚さん達忙しそうですね」
「ああ、私達の結婚式が決まったからですね。彼らには急で悪いのですが、私の結婚に喜んでくれたので彼らも一生懸命動いてくれていとのですよ」
「本当に結婚するんですか!?」
「はい。お嫌ですか?」
「嫌も何も、出会ってまだ三十分も経ってないですよ!?」
「それの何が問題なのですか?」
「何が問題って、それは、お互いのことよく知らないですし……」
「でも、七海さんは私の顔がお好きでしょう?」
しっかりとバレている。こんなに美しいひとに出会えるのは奇跡でしかない。
「うっ、それは……」
「海人は恋愛結婚をしません」
そこから乙葉による海人同士の結婚観について教えてもらった。
海人が海人に出会えるのは、生涯に数えるくらいしかないのだそうだ。
そういうこともあって、海人は男女で巡り合ったら子孫を残すためにすぐ結婚するのだという。
海の世界のルールはわかったが、そんなに海人とは少ないのかと七海は驚いた。
「海の生き物といっても、大きな部類に分かれています。私のようなヒト型を海人、魚の姿でありながら言葉を話す魚人、ただの魚で分かれているのです」
魚人がいるのなら、もしかして人魚もいるのかもしれない。
「人魚っているんですか?」
「はて、ニンギョとは何のことでしょう?」
首を傾げる乙葉は本当に知らないようだ。
「人魚とは、陸のおとぎ話に出てくる架空の生き物です。そっか、人魚いないんだ……」
竜宮城と乙姫(男)はあるのに人魚はいないと知り、夢が壊れた七海はほんの少しだけ落ち込む。
七海が落ち込んでいるのが目に見えて分かるので、乙葉はどうにか慰めようとおろおろしていた。
そこへ、「乙葉様のお妃様だー!」という声が聞こえた。
それは、まだ砂浜にいた時に聞いたものと同じ声だった。
「ぼくです、ぼく! お妃様、このたびはたすけていただきありがとうございました!」
そう言って七海の目の前まで泳いで来たのは小さな亀だった。
「あなた、もしかして浜辺で意地悪されてた子……?」
「はい、そのせつはたすけていただきありがとうございました!」
「あなた魚人なの!?」
「海の生き物は海で、陸の生き物は陸でしか話すことがでないのと同じですよ」
「……あれ? 私、乙葉さんと話すことができましたよね?」
「ああ、先ほども申し上げましたが、私が口移しで海の世界の飲みものを飲ませたからですよ」
それはもう美しい笑みでとんでもないことを聞かされた七海は「乙葉さんのスケベ!」と叫んだ。
すると、子亀こと隼人は「乙葉様をせめないでくださいー!」と泣きながら訴えた。小さい子に泣かれると弱い七海は「大きな声を出してごめんね」と謝った。
隼人はぐすんと泣きながら、なぜ自分があそこにいたのか説明した。
それは、七十年前のこと。
竜宮城にふらりと立ち寄った男の海人がいた。
その男は占い師と名乗り、一泊させてくれたお礼に乙葉の未来を占うと言った。その占い内容とは、今から五十年以内の間に己の家臣を救った陸の女人と結ばれるといったものだった。
しかし、占いから六十九年経っても陸から女人が現れない。
段々焦りの色を見せ始めた乙葉のために、亀達は協力して海から陸に上がり探し始めたのである。
そして、隼人がとある海岸に上がったところでワルガキに遭遇し、七海と出会ったのだという──。
「陸からきた女人はお妃様ただひとりなのです! ですから、うらないしが言っていたうんめいのひとはお妃様だけなんです!」
隼人の必死の説得に七海は頷くことしかできなかった。
七海が頷いたことで納得してくれたのだと解釈した隼人は「しつれいしました」と言って作業に戻った。
「乙葉さんの予言? って有名なんですね」
「そうですね、我が竜宮城に住まう者はみな知っていることです。私は海人なので、陸に上がることはできません。ですから、亀達を止めることはできなかった……。実は、女性の方にお会いするのは七海さんが初めてなのですよ」
照れたように話す乙葉は微笑みながらも耳が赤くなっていた。
「女性とは、かように儚くて美しいのですね……」
七海の長いポ二―テールの髪をそっと掬い、そこに唇を落とした。男性にキスをされたのが初めての七海は赤面し身体が火照るのを感じた。
「ふふ、どうやら七海さんも初めてのようですね、嬉しいです。初心者同士仲良くしましょうね」
有無を言わさぬ表情に、七海はこくこくと何度も頷くことしかできなかった。
そして、魚人はひとのように器用に手を動かして七海をめかし込んでいく。
「乙葉様以外の『ひと』は初めてだから緊張するわ」
「乙葉様と同じで髪が艶々しているわあ! お化粧のし甲斐があるわね」
魚人たちは七海を友好的に受け入れてくれたのが嬉しかったので、されるがまま花嫁衣裳を着ていく。
どうやら日本でいう神前式のようなもので、白い絹に身を包まれた七海は、鏡に映る自分の姿を見て驚いた。そこにいたのは着物が似合う美人の女性だったからだ。
「これ、私?」
「正真正銘七海様でございます」
「お化粧の技術が高い……」
「何を仰いますか、七海様のお顔立ちは乙葉様と同じように美しくいらっしゃいますよ」
はっきりと魚の姿で美醜を説かれて七海は苦笑した。どうやら竜宮城に住まう者は、ひとの美醜の感覚が分かるらしい。
それから大きな広間へと案内されると、既にたくさんの海の生き物達がいた。
上座には既に着替えた乙葉がおり、七海に気が付くと手招きして隣へ呼んだ。
興味津々といった様子で、七海は部屋中の視線を集めた。
日本の神前式とは違い、海の世界の結婚は簡易的なものらしく、盃を交わすだけで終わりなのだそうだ。同じ杯から酒を飲み、城に住まう者達に婚姻の証として行うのだと乙葉が耳打ちをした。あまりお酒が飲めない七海は、日本酒のような味のする酒に頭がくらくらしてきた。
これは、かなり度数が強い気がする。
七海はなんとか食事会が終わるまで意識を持とうとひたすら耐えた。
そして、お開きになり七海付きの女官となったサメこと小梅に最初こそ七海は至近距離で見るサメに食べられると本気で思ったのだが、役職就きの小梅は非常に礼儀正しくとても失礼な態度を取った七海を責めることなく柔和な笑顔を浮かべて自己紹介してくれたのであった。
七海が意識朦朧としていたので、小梅が着物を脱がし全身隅々まで洗ってくれた。七海はこの時ほほ寝ていたので、他人に身体を洗われた蓮かしさなどなかった。
風呂を上がり、丁寧にタオルで髪を乾かされ、椿油で髪を整える。
少しだけでも眠ることができた七海は何でもやってくれる小梅に感謝した。
そして、七海が通されたのは乙葉と過ごすであろう寝室で、お誂え向きの白い布団と枕がふたつあった。
部屋には香が焚かれているのか、いい香りが鼻を掠める。
「では、わたくしはここで失礼させていただきます」
小梅が去ってから、七海はこれから起こるであろうことに緊張した。いかにも初心そうな乙葉が無理強いをするとは思えなかったので、それに賭けるしかないと神にお祈りをした。
手持無沙汰でいつもより艶のある髪をいじっていると、襖が開いて入浴を済ませたと思われる乙葉がやってきた。
「あ、あの、乙葉さん……!」
「大丈夫ですよ、何もしませんから。陸の人間は恋愛をして絆を深めるのでしょう? 私は海人ですが、恋というものをしてみたい。ですから、お互いを知るところから始めませんか?」
「いいんですか……?」
「無理強いは趣味ではありません。それよりも、私は七海さんの心がほしい」
青い瞳で真っ直ぐにそんなことを言われたら、七海の心はいとも容易く揺れ動く。
「……私も、少しずつ乙葉さんのことを知りたいです」
どうせ陸には帰れないのだから、とは言えなかった。七海の言葉を受けて、本当に嬉しそうな顔をする目の前の可愛い男のひとを放って置けないと思ったからだ。
陸には思い出はあるが、未練はない。
だったら、この新しい世界で生きてみようじゃないか。
「乙葉さん、一緒に寝ましょうか」
「よいのですか?」
「はい、なんだかそうしたい気分なので。あ、お嫌でしたら……」
「そんなことありません! ……同衾を許してくれてありがとう」
たおやかに微笑む乙葉に、七海も笑みを返した。
出会ったその日に即結婚するとは思わなかったが、これからの毎日がよりよいものになるよう七海は心から願い目を閉じた。




