君を守る理由を、ようやく見つけた【大学生×妊婦】 完結済み
裁判所で偶然目にした青年の姿が、綿矢の心に深く焼き付いて離れない。
――男でありながら妊娠し、恋人から「別れたい」と訴えられ、400万もの損害賠償を背負わされた青年。
涙で声を震わせ、「別れたくない」と必死に懇願する姿を、綿矢は忘れられなかった。
あのとき勝訴したのは自分の兄。だが誇りなど微塵もなかった。
ただ一人、理不尽に追い詰められた“森 蛍”だけが胸に残る。
そしてある日――階段で、ふぅふぅとお腹を押さえながら必死に買い物袋を抱える蛍と再会する。
ひとりで産むつもりなのか? あの苦しそうな体で、誰にも頼らずに。
放っておけるはずがない。
救えなかったあの日の答えを、今度こそ自分が取り戻すために。
細身の青年が階段を登っている。
夕方の柔らかな日差しの中、薄い影が段差に重なり、ゆっくりと揺れながら上へと伸びていく。その姿に、綿矢は思わず足を止めた。
見覚えのある顔だった。眉を寄せ、青年を注意深く目で追う。
暖かい風がふっと吹き抜け、彼の少し長めの前髪が柔らかくなびいた。額に落ちる影が一瞬だけ晴れ、表情がはっきりと見えたその瞬間、綿矢は小さく息を呑む。胸がわずかに跳ねた。
ふぅ、ふぅと苦しげに呼吸をしながら、膨らんだお腹を片手で押さえている。もう片方の腕には、ぎゅっと握られたスーパーの袋とカバン。足取りは重たく、階段を上がるたびに身体が揺れていた。
どう見ても妊娠中の――……。
そこで、ようやく思い出す。
綿矢 謙介は、先月の出来事をまざまざと思い返した。
親に「一度くらい裁判を見ておけ」と無理やり連れていかれ、暇をつぶすつもりで向かったあの法廷。そこで見た光景を、綿矢はいまだ鮮明に覚えている。
――いやでも思い出してしまう。
『でも……好き、なんです……。お金なら……今は持っていませんが、慰謝料として……これから働いて、いくらでも……お支払いいたします……ひっく……別れたく、ない……です……お願い、佐木川さん……お願い……』
震える声。潤んだ目。腹を押さえながら、崩れ落ちるように訴える青年。
あれがどれほど切実で、どれほど必死な言葉だったか。綿矢は、思い出すだけで胸が痛んだ。
内容はあまりにもひどかった。
妊娠した側の青年が一方的に責任を負わされ、損害賠償を求められる審判。
なぜ妊娠しただけで、人生を追い詰められなければならないのか。
法とは何なのか。人を救うためのものではないのか。
綿矢は傍聴席に座り、裁判が始まって数分で胃がねじ切れそうになっていた。
忘れろ、と何度も自分に言い聞かせた。
けれど、忘れられるものではなかった。
あの裁判は、「二度と自分と関わらないでほしい」「精神的苦痛を受けた」と訴えた側の佐木川による要求で、彼の代理人を務めたのは、よりにもよって綿矢の兄、綿矢良一だった。
父は言った。
「兄の仕事ぶりを見れば、おまえも弁護士になりたいと思うだろう」
その一言に気のない返事をし、暇つぶしくらいの気持ちでノコノコと傍聴に行った。
その結果……見なければよかったと、心の底から後悔することになった。
裁判が終わったあと、綿矢は、あの法廷に足を踏み入れた自分を心の底から呪った。
勝ったのに、嬉しくない。むしろ胸の奥がずっと冷たく痛んだ。
「見なければよかった」
何度もその言葉が頭の中でこだました。
結果は散々だった。
兄は原告側の代理人として見事に勝訴を勝ち取った。
だが、それと引き換えに青年、森蛍は、妊娠したばかりという脆い身体のまま、これから一人で四百万円という大金を返済しながら、誰の支えもなく子供を育てていく未来を押し付けられたのだ。
佐木川が「認知も拒否する」と言い放った瞬間、傍聴席にいた数名が露骨に眉をひそめた。小さく舌打ちをする者さえいた。
あれは当然の反応だろう、と綿矢は思った。人としての情があまりにも欠けすぎていた。
兄が勝ったのに、少しも喜べない。
むしろ、二人ともクズにしか見えなかった。
自分の兄と、相手を孕ませておきながら、責任どころか賠償金を要求し突き放した佐木川。
金と体裁のために、そこまで人を追い詰めるのか。
あの瞬間、綿矢は喉元まで込み上げてきた怒りを、どうにか飲み下していた。
あれ以上あの場に居たら、本当に何かを吐き捨てていただろう。
忘れたくても、忘れられない。
裁判の日を境に、綿矢の頭の片隅にはいつもあの青年、森蛍の姿が張りついて離れなかった。
涙でくしゃくしゃになった顔。
必死で腹をかばいながらも、愛した人に縋ろうとしていた弱々しい声。
あんなにも壊れそうな生き物が、ひとりであの先の人生を歩かされるのかと考えるたび、胸の奥がざわついた。
今は男性でも妊娠できる時代。
だが、それは決して「当たり前」にはなっていない。
偏見も、差別も、好奇の視線も、依然として根強く残っている。
妊娠した森 蛍。
彼は「妊娠したらみんなも婚約を認めてくれる」という佐木川の甘言を、ベッドの上での戯言だと気づけないほど、まっすぐに信じてしまったらしい。
サプライズだと思って、妊娠薬をこっそり服用した。
嬉しいニュースを持っていけば、真っ先に笑って抱きしめてもらえると信じていたのだろう。
だが、現実はあまりにも残酷だった。
蛍が通院していた病院には、佐木川の親族が勤めていた。
そのせいで、妊娠の事実だけではなく「男と交際していた」という情報まで、親や友人、職場にまで瞬く間に広まってしまった。
隠しておきたかったはずの私生活が無造作に暴かれ、佐木川は社会的にも精神的にも追い詰められていった。
「男と付き合っていたことがバレて社会的に大きな損害を受けた」
「望んでもいないのに妊娠薬を勝手に飲まれて精神的苦痛を受けた」
そんな理由で佐木川は蛍を訴えた。
だが誰が見ても、苦しんでいたのは一方的に蛍のほうだった。
相手が自分の子を身ごもっていると知っていながら、佐木川は四百万円もの賠償を要求した。
愛情の欠片もない、数字だけの要求。
あれほど冷たい目をする人間を、綿矢は見たことがなかった。
そして今。
あの時負けてしまった青年……自分と同い年か、あるいは年下に見えた森蛍が、目の前の階段を上がっている。
片手でお腹を支え、ぎこちない足取り。
小さな息が苦しげに漏れ、手に持つ袋がかすかに揺れる。
見るのが辛いほど、弱々しくて痛々しい姿だった。
一度、綿矢は逡巡した。
声をかけるべきか。それとも知らないふりをすべきか。
関わってはいけない、そう言われてもおかしくない相手だ。
兄の仕事、家の事情、面倒事を考えれば、ここで立ち去るのが正しい選択かもしれない。
――だが。
気づけば綿矢は、胸の奥のざわつきに背中を押されるようにして、自然と口を開いていた。
「あの」
短く声をかけると、青年がはっと顔を上げた。
汗で額にかかった前髪がゆるく揺れ、その下の瞳が綿矢を捉える。
「あ…あなたは」
驚きと、少しの安堵が混ざった声だった。
どうやら森の方も、綿矢のことを覚えていてくれたらしい。
「あの時、ハンカチをありがとうございました。ずっとお礼を言いたいと思っていて…あ、でも今、あの時のハンカチは持っていないんです。申し訳ありません」
森はぎこちないながらも丁寧にペコリと頭を下げた。
買い物袋がその拍子にゆらりと揺れ、彼が想像以上に疲れていることがわかる。
綿矢は片手を軽く上げ、急いで制した。
「いえ、ハンカチは差し上げましたから。それより…あのあと、大丈夫…でしたか?」
「はい、なんとか」
にっこりと笑う森の口元は柔らかいのに、目の下には薄い影……くっきりとしたクマが見える。
頬の肉もすっかり落ち、服の上からでも痩せたことがはっきりわかった。
――どう見ても、“なんとか”の状態ではない。
裁判が終わったあと。
人がいなくなった廊下の端で、森はひとり、肩を震わせて泣いていた。
静かに押し殺した啜り泣きが耳に刺さって、綿矢は気づけば足を止めていた。
声をかける勇気もないまま、ただ見ているしかなかった自分が情けなくて、
ポケットに入っていたハンカチをそっと差し出した。
それだけでは足りなくて、気づけば抱きしめていた……あの温度と細い身体の感触が、今も腕に残っている。
「他人なのに、抱きしめてしまったの、気持ち悪かったですよね」
綿矢は申し訳なさそうに視線を落とした。
「いえ、そんな…! あの時、本当につらくて……」
その声の弱さが、胸に触れて痛い。
「見ず知らずの人でも、ああやって優しいことができる人がいるんだなって……違う意味でも僕、泣いてました。嬉しかったです」
「そうですか…」
嬉しかった、と言われ、綿矢は安堵した。森には綿矢が笑ったように見えたようで、つられた森がふにゃりと笑う。
ほんの一瞬だけ、張りつめていた空気が緩む。
そのとき、頬を撫でるようにそよそよと風が吹き抜け、森の前髪が揺れた。
ふたりは数秒だけ無言で視線を交わし、その沈黙は不思議と居心地が悪くなかった。
やがて、森が小さく口を開いた。
「あそこのアパートの一階に住んでるんです。……よかったら、お茶でも」
おずおずと差し出された誘い。
断られると思っているのか、森の肩は少し強張っている。
綿矢は迷わず頷いた。
「じゃあ…少しだけ、お邪魔します」
森に案内され、古いアパートの一階へ向かう。
外観は年季が入り、壁の色もややくすんでいた。
それでも玄関先には小さな鉢植えが置かれていて、森がささやかな生活を大切にしていることがわかる。
「すみません、狭くて」
「いえ…」
本当に狭かった。
六畳ほどの部屋には小さなテーブルと折り畳みの布団、壁際に簡易キッチン。
生活の手触りがそのまま残っていて、綿矢が育ってきた環境とはあまりに違った世界だった。
だがなぜか、嫌な感じはなかった。
むしろ、どこか守りたくなるような、小動物の巣のような温かさがあった。
「お茶を入れるので、どうぞ」
森はケトルに水を入れ、火をつけた。
その背中が細く、頼りなくて、綿矢は胸の奥がまたざわつく。
敷いてもらった座布団に腰を下ろし、ぐるりと部屋を見渡した。
収入のほとんどをお腹の子の通院費と生活費に回しているのだろう。
装飾も余計な家具もなく、それがかえって森の暮らしの厳しさを静かに伝えてくる。
――ここで一人で生きているのか。
そう思った瞬間、綿矢の喉が小さく鳴った。
「どうぞ」
とん、と小さな音を立てて置かれた湯呑みから、ほわりと湯気が立ちのぼる。麦の香ばしい香りが、狭い部屋にゆっくり広がっていく。
「ありがとうございます」
綿矢は両手で湯呑みを包み、少し息を吸い込んだ。温度と匂いが、なぜだか胸の奥の強ばりをほどくようだった。
座布団に座った森は、膝の上で手を重ねながら、ぽつぽつと語りはじめた。あの裁判のあと、どんなふうに日々を過ごしていたのか……。
「国から……それは補助金ですか?」
綿矢が遠慮がちに尋ねると、森は小さく首を横に振った。
「いえ、借りる形です。利子なしで。ただ、返さないといけないお金には変わりませんけどね」
その笑顔は、冗談めかしているようでいて、どこか影が差していた。
妊娠がわかってから、これまで続けていた調理師の仕事は続けられなくなった。立ち仕事で長時間動くと、急にめまいがしたり、息が苦しくなったりするという。
「だから今は、小学生に国語とか算数を教えるパートだけで……。何とか食いつないでる感じです。病院代は、国から借りたお金で」
そう言った森の指先は、ぎゅ、と膝の上の布をつまんだ。無理をして明るく話そうとしているのが、綿矢にもわかった。
少し沈黙が落ちたあと、綿矢は迷いながらも、口を開いた。
「その……失礼なことを聞くと思うんですが……中絶、とかは考えなかったんですか?」
森は瞬きもせず、息を飲むでもなく、ただ少し視線を落とした。それだけで、綿矢は自分の質問の軽率さに気づいた。
思わず深々と頭を下げる。
「すみません。本当に、軽率でした」
「いいんです。よく聞かれることですから。……慣れてます」
森は無理に笑ったが、その口元の震えは隠しきれていなかった。
これ以上踏み込むべきではない。綿矢が言葉を探していると、森が話題を切り替えるように顔を上げた。
「それより……もしよかったらなんですけど。夕飯、いっしょにどうでしょうか」
「えっ?僕なんかが?」
「僕、今日……誕生日なんです。誰かと一緒にご飯が食べられたら、すごく嬉しいなって」
照れくさそうに笑う森の頬は少し赤い。誕生日なのに一人で過ごすつもりだったのかと思うと、胸の奥がじんとした。
「……いいんですか?」
「はい。ぜひ。こんな部屋ですけど……。お嫌じゃなければ」
森の遠慮がちな笑顔は、細く弱く、それでも確かな光を帯びていた。
「喜んで」
綿矢がそう答えると、森は安堵したように、花がひらくように笑った。
その一瞬、ささやかな温もりが、薄暗かった部屋の隅々にまで広がっていくのを感じた。
――――――――――
プレゼントも何もないのは味気ない──そんな理由で、森が「本当にお気遣いなく!」と焦るのを、綿矢はやんわりと制して近くの店へ買い出しに出かけていった。
買い物から戻ってきた綿矢は、テーブルの上を見た瞬間、素直に目を見張った。
「……すごい。貴族の料理だ。宝石がちりばめられた食卓って感じ」
思わずもれた言葉に、森の表情がふわっとゆるんだ。嬉しさを隠しきれない笑みで、耳の先まで赤くなっている。
「言い過ぎです。ただ、パンの上にいろいろ乗せただけですよ。本当に簡単なものばかりで」
そう言いつつ、森の指先は少し誇らしげに皿を整える。
どの皿もきちんと向きがそろえられ、美しく見えるよう計算されている。
「このスパゲティはなんていうやつですか?」
「マグロとナスのシチリア風スパゲッティです。もう完成してるので、冷めないうちにどうぞ」
「うまそう! いただきます」
綿矢は買ってきた誕生日プレゼントの袋をそっと脇へ置き、一番気になっていたスパゲティからフォークを巻いた。
一口食べた瞬間、眉がふっと緩む。
「……うまっ」
口に運ぶたび、柔らかな旨みが広がり、軽い酸味が後を引く。頬が落ちそうとは、こんな味をいうのだろう。
ふと視線の端に入ったスープを手に取る。
「これは?」
「ゴボウのポタージュです。香りが強いので苦手な方もいますけど、よかったら」
口に含むと、驚くほどまろやかだった。
その後も見慣れないソースのかかったサラダや、前菜の小皿に並べられた色鮮やかな品々を次々に口へ運ぶたび、森の腕前に驚かされた。
やがてデザートの皿が運ばれてくる。
薔薇の形をした淡いピンクのムースと、透き通るようなライチのソルベ。光の角度で宝石のようにきらめき、思わず見とれてしまった。
「……そうだ」
ムースを口に運び、ふと思い出した。そういえば、まだ一度も伝えていなかった。
「お誕生日、おめでとうございます」
「わ。嬉しい……。あの、すみません、急にお誘いしたのに。こんな……大きいのまで」
森はプレゼントの包みを抱えながら、遠慮がちに笑った。
その包みは両腕いっぱいで、森の身体が半分隠れてしまうほど大きい。
「いえ、俺こそ。こんなに満喫できるなんて思ってなかったです。どれも本当においしくて……今日、一緒に過ごせてよかった」
綿矢がそう言うと、森の頬がかすかに朱色を帯びた。
「よ、良かった……。ほんとうに……良かったですっ」
照れているのか、何かを堪えているのか。
森は赤くなった顔を隠すように、視線をそらしながら包装紙へと手を伸ばした。
「えっと……開けても、いいですか?」
「もちろん」
森は丁寧にビリ、と音を立てないように包装をはがし、そっと箱を開けた。
「……抱っこひも……!」
驚きに目を大きく見開いた。その瞳が、瞬きを忘れたように揺れる。
「ちょっと早いかもしれませんけど。役には立つかなと思って」
「うわ……ほかにもたくさん……!」
箱のなかには、白で統一された小さな肌着やロンパースが整然と並んでいた。
男の子でも女の子でも使えるように――と考えて選んだものだ。
「白ならどっちでも着られると思って」
その瞬間、森の喉がひくりと動き、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう……ございます……」
声が震え、次の瞬間には涙が頬を伝い続けていた。
嬉しい、という感情があふれすぎて、こぼれ落ちるのを止められない。
「……どういたしまして」
綿矢は静かに腕を広げた。
ベビーグッズを胸に抱え、小さく丸まって泣いている森をそっと抱き寄せる。
「すいません、また……こんな、泣いてばっかりで……」
「わかってますよ。嫌で泣いてるわけじゃないって」
柔らかい声で囁かれ、森は胸元に顔を埋めながら、小さく頷いた。
裁判の日は、悲しさと孤独で涙が止まらなかった。
この先お腹の子を守れるのは自分しかいないと、ひどく心細くて、生きていく未来が真っ暗に見えた。
けれど、今は違う。
そばで寄り添う腕がある。
温度がある。
声がある。
一緒にいるだけで、胸の奥がじんわりと温まる人ができたのだ。
その事実だけで、森は満たされていた。ゆっくりと、静かに、これまでとは違う涙が頬を伝い続けていた。
――――――――――
その後も綿矢は、まるで習慣のように森のアパートへ通うようになった。
“友人として”。その肩書きが二人の間に置かれた唯一の境界だった。
買ってきた食材を冷蔵庫に並べながら、森は横目でそっと綿矢の横顔を盗み見た。
真剣にレシートを確認する綿矢の表情は美しく、整った目鼻立ちに思わず胸がふわりと浮き立つ。
(……かっこいいな)
自分でも気づかないほど長く見つめていたらしい。
ハッと我に返って、慌てて冷蔵庫のドアを閉めた。
「余ったお金、ここに置いておきますね」
そっとテーブルに封筒を置くと、綿矢は顔を上げた。
「使ってくれていいのに」
「そういうわけにもいきませんよ」
綿矢は、ノートパソコンに向かいながら手を止めない。
法律関係のサイトなのか、英文の資料なのか、難しそうな画面を次々と開いては打ち込んでいく。
気づけば、綿矢はほぼ毎日ここへ来ていた。
一緒に夕飯を食べ、体調を気遣い、足りない食材があれば買ってきてくれる。
そしていつの間にか、食費もほとんど綿矢が出すようになっていた。
はじめは固辞し続けた。だが綿矢は困ったような、けれど優しい顔で言った。
『できるだけ仕事を休んでください。赤ちゃんのためにも。無理して倒れでもしたら、意味がないでしょう』
その言葉に、森の胸は静かに揺れた。
最近、仕事中にめまいがすることも増えていたのだ。妊娠中期、体は思った以上に繊細だった。
そんな折には必ず、綿矢が冷たいタオルを持って額に当て、背中を支え、そっと湯呑みを差し出してくれる。
優しさに触れ続けるうちに、森の胸に宿る感情は思いがけない速さで大きくなっていった。
(……こんなこと、思っちゃいけないのに)
気づけば、綿矢の背中を目で追い、声に振り返り、ふとした笑顔に胸が跳ねる。
友人以上の感情が静かに育ってしまうのに、そう時間はかからなかった。
お腹の子を抱えながら、そっと想像してしまう。
――この人が父親になってくれたら、どんなに心強いだろう。
その瞬間、強い自己嫌悪が胸を締めつけた。
(だめだ。こんなの、良くない……)
自分は“子どもつきの男”。
綿矢にはもっとふさわしい相手がいるはずだ。
素敵な女性と並ぶ姿のほうが、ずっと自然で、きっと幸せに見える。
そんな考えが森の心に影を落とす。
「……あの、大学、大丈夫なんですか?」
沈黙が苦しくて、森は話題を変えるように問いかけた。
綿矢はパソコンから視線を動かさず、ひたすら高速でタイピングしている。
「こんなに毎日お昼にうろうろして……弁護士になるためのお勉強、サボると後から大変なんじゃ……」
不安と気遣いが入り混じった声に、綿矢は小さく笑った。
森が聞きたかったのは、一つだけ。
――こんなに来てくれる理由は、なんですか?
その問いの答えを知るのが怖くて、同時に知りたくてたまらなくて、胸がぎゅっと痛んだ。
綿矢はゆっくりと、指をキーボードから離した。
「もう卒業しましたよ。先月の三月に」
「えっ?! あ、じゃあ今は就職活動中ですか?」
「いえ。仕事はもうやってます」
さらりと言われた一言が、森の胸に小さく波紋を広げる。毎日こうして顔を合わせているのに、綿矢の生活について自分は何一つ知らなかったのだ、と今さら気づく。
「あ、もしかして、パソコンで出来るお仕事ですか? いつもカタカタ……何をしてるのかなって気になってました」
そんな森に向けて、綿矢はノートパソコンをくるりと回して見せた。
「ブログ。これが俺の仕事ですよ。月に100万くらい稼げてるので、わざわざ弁護士として就職する意味は無いかなと」
「ひゃ、ひゃく……?! そのお仕事、大丈夫なんですか……?」
森の瞳が“未知の世界に足を踏み込んだ”みたいにゆらりと揺れた。
ブログで生活できるなんて、聞いたことがない。詐欺とか怪しい儲け話とか、そういうのを連想してしまって慌ててしまう。
「ブログ収益なんて、普通にそこらへんの主婦でもお小遣い稼ぎでやってますよ。ぜんぜん怪しくないんで安心してください」
「そう、なんですか……」
ほっとした森が胸を撫でおろす。その仕草がなんだか可愛くて、綿矢は少し笑った。
「それより、今日のお昼はなんですか?」
「天ぷら定食です。今から準備しますね」
森が台所へ向きなおる。その背中に向けて、綿矢の視線がふと柔らかいものへ変わった。
毎日のように会って、話して、食事して。
気づけば、彼の生活の中心には森がいて——その姿を見るたびに胸が穏やかに満たされるようになっていた。
椅子を引く音がして、森が振り返るより早く、綿矢がそっと背後から抱きついてきた。
「っ……?!」
あたたかい体温が、背中越しにじんわり伝わる。
「も、もう……どうしたんですか?」
「お腹の子のさ……新しいお父さん候補、いますか?」
「えっ?」
耳元で落とされた低い声に、森の心臓が跳ねた。
ついさっきまで天ぷらのことを考えていたのに、今は自分の鼓動のほうがうるさくてたまらない。
「俺、立候補してもいいですか?」
綿矢の指が森の頬に触れて、そっと顔を自分の方へ向ける。
綿矢の瞳は真剣で、でもどこか甘い色をしていた。
思わず息を呑んだ森の頬が、みるみるうちに火照っていく。
「森さん、今すごく可愛い顔してますけど……脈アリですか?」
「……!」
返事なんてとてもできない。
でも胸の奥がぎゅっと締めつけられて、熱がこみ上げてくる。
否定なんて、もっとできない。
そっと近づいてくる綿矢の唇。
拒めるはずなんて、最初からなかった。
触れる寸前の距離で、森は静かに目を閉じたーー。
***
そして二人の距離は、ようやく“ひとつ”になる。
森の胸の奥に、ずっとほしかった未来が、そっと灯り始めた。
fin.




