星と剣の狭間
異界の門は、空に開いた漆黒の裂け目だった。まるでこの世界そのものに罅が入り、別の次元の怒りが漏れ出しているかのようだった。
空気が重く、呼吸がしにくい。リーナは魔力を循環させながら、戦場となった広場へと駆けつけた。騎士たちがすでに配置についていたが、状況は芳しくなかった。
門から溢れ出したのは、“冥咆”と呼ばれる異界獣──怨念と魔素が混じり合った、かつて人だったものの成れの果て。歯をむき出しにし、空中を這うように漂うその姿は、物理法則を無視した存在だった。
リーナが詠唱を始めるより早く、カイルが動いた。
「騎士団第一陣、左翼から迂回。第二陣は市民の避難を!」
的確な指示。鋭く、無駄のない動き。彼はまさに、戦場の核だった。
──なのに。
「カイル、下がって!」
門の中心から現れたのは、群れの主たる“冥咆王”。半透明の黒い体躯は巨大で、いくつもの眼を備え、中心に星の核のような紅い光が瞬いている。
その巨体が、カイルに向けて瘴気を放った。咄嗟にリーナは魔法障壁を張ったが、完全には防ぎきれなかった。
「くっ……!」
カイルが、よろめいた。腹部に瘴気の爪がかすり、装甲を貫通して血がにじむ。彼の足元が揺らぎ、剣が一瞬傾く。
リーナの中で、何かがはじけた。
「……あんた、勝手に一人で傷つかないで!」
叫びながら詠唱を高める。星霧を呼び、空気の中の魔素を集め、指先に光の環を生み出す。
「星環よ、われに力を──《エリオス・グラディア》!」
爆光が空を裂いた。光の刃が“冥咆王”を貫き、うめき声を残して異界へとその身を消し去る。門は震え、ゆっくりと閉じはじめた。星霧が静かに流れ込み、再びこの世界の法則が支配を取り戻していく。
だが、カイルは膝をついていた。血に濡れた手を押さえ、視線が霞んでいる。
「リーナ……立派になったな」
「……黙ってて。そんなこと言う資格、今のあんたにはない」
震える手で、彼女は治癒魔術を発動する。だが、傷は深かった。魔力の瘴気が混じっており、癒しの光に反発する。
それでも、彼は微笑んでいた。
「君はもう、俺が守る必要のない存在だ。きっと、俺といる理由も、なくなったんだろう?」
その言葉は、彼女の心に杭のように突き刺さった。
彼は、自分が切り捨てられる未来を理解していた。受け入れていた。それでも、最後まで彼女のために剣を振るった。
──本当に、ただそれだけだったのか?
彼女は自問する。
必要だから、彼といたんじゃない。命を繋ぐためでも、依存していたからでもない。彼が、自分の中で“かけがえのない存在”になっていたことに、ようやく気づいた。
「私は……」
言いかけて、言葉が喉につかえる。
「もう、あなたと一緒にいる理由がない、って思ってた。でも……それだけで、終わらせたくないって、今は思ってるの」
彼は目を細めた。
「それは、俺を哀れんでの情か?」
リーナは首を振った。
「違う。ただ……好きだから。たぶん、それだけなんだと思う」
沈黙が、星霧のように降り積もる。
だがその沈黙は、やさしいものだった。ふたりを隔てていた“必要性”という名の檻は、すでに消え去っていた。ただ、隣にいたいという想いだけが残っていた。