1.7. 王宮の庭園とはじまり
アストラリス大学大学病院を退院してから数日が過ぎたが、シェリーの心は晴れないままだった。学生寮の自室で目覚めるたび、あの銀行での出来事が悪夢のように蘇り、胸の奥には、時折、ズキリとした痛みに似た、あるいは何かがそこにあるかのような鈍い違和感が消えずに残っていた。日中、エディと共にアストラリスの街を散策し、これから始まる大学生活への期待に胸を膨らませることで一時的に気は紛れるものの、一人になると言いようのない不安と焦燥感に襲われるのだった。
(やっぱり、何かおかしいんだわ…私の身体も、あの事件のことも…)
時折、ふとした瞬間に感じる自分の身体能力の異常さ――以前よりも格段に鋭敏になった五感や、無意識のうちに発揮してしまう人並外れた力――は、彼女の疑念をますます深めていた。エディは何も言わないが、彼の心配そうな視線が、かえってシェリーを追い詰める。アキヅキ医師の言葉も、両親の態度も、全てが何か大きな秘密を隠しているようにしか思えなかった。
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そんなある晩、シェリーは自室のベッドの上で、母から渡された灰色のクリスタルのネックレスをぼんやりと眺めていた。事件以来、それは時折、まるで呼吸をするかのように微かに熱を帯び、淡い光を放つことがあった。それはまるで、シェリーに何かを訴えかけ、どこかへ導こうとしているかのようだった。
(このネックレス…どこかで…ううん、ううん、そうじゃない。どこかへ行けば、このネックレスが何か教えてくれるような気がするんだ…例えば……)
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シェリーは、アストラリスという広大な都市のどこかに、その答えがあるような、そんな漠然とした予感に胸を騒がせていた。
いても立ってもいられなくなり、シェリーは翌日、その答えを求めて、ただひたすらに心の赴くままアストラリスの街を歩き始めた。エディには「ちょっと一人で考え事したいから」とだけ告げ、彼女はアストラリスの喧騒の中を、まるで何かに導かれるように進んでいった。
そして、彼女の足は自然と、この国の象徴とも言える壮麗なアストラルパレス――王宮へと向かっていた。その一般公開されている庭園は、美しく手入れされた花々が咲き誇り、荘厳な建物群を背景に、まるで絵画のような風景を作り出していた。しかし、今のシェリーの心は、その美しさを楽しむ余裕などなかった。
(この辺りで、何か…感じるような気がするんだけど…)
シェリーは庭園の奥深く、人の少ない場所へと進んでいった。そして、古い礼拝堂の傍らにある、ひときわ大きなクスノキの下にたどり着いた時、胸元のネックレスが確かな熱を帯び、これまでで最も強い、温かく、そしてどこか切ない光を放ち始めた。
シェリーの心に、普段夢で見る風景や人物の断片が、いつもより鮮明に、そして強く呼び起こされるような感覚があった。それは懐かしさとも、愛しさともつかない、ただ胸が締め付けられるように熱くなり、自然と瞳が潤んでくるような、不思議な感情の昂ぶりだった。
「あら…」
不意に、すぐ近くから柔らかな声がした。シェリーがはっとして顔を上げると、そこには質素な侍女の服装をした女性が、庭の手入れ道具を手に佇んでいた。年の頃は三十代半ばだろうか、落ち着いた物腰だが、どこか気品を感じさせる女性だった。彼女は、シェリーの胸元で光るネックレスと、涙を浮かべたシェリーの顔を交互に見つめ、少し驚いたような、それでいて何かを理解したような複雑な表情を浮かべていた。
「…何か、お探しものでもございましたか? それとも、どこかお加減でも…?」
侍女は、心配そうにシェリーに歩み寄ってきた。その声には、シェリーの心を不思議と落ち着かせるような、優しい響きがあった。
シェリーは、慌てて目元をこすり、首を横に振った。
「う、ううん、大丈夫です、なんでもないの!ただ…このネックレスが、急に光りだしたもんで、ちょっとびっくりして…」
言いながら、シェリーは自分の胸元でまだ温かい光を放ち続けるネックレスをそっと押さえた。目の前の侍女は、そのネックレスから目を逸らさず、何かを深く見つめるような、それでいて言葉にはできない想いを湛えたような、不思議な表情を浮かべていた。
「…そのネックレス、とても綺麗ですね。何か、特別なものなのでしょうか?」
侍女の声は、どこまでも穏やかだった。
「これは…母様にもらった、お守りなんです。でも、最近なんだか変で…。それに、私自身も…なんだかよく分からないことが多くて…」
シェリーは、自分でも何を言っているのか分からなくなりながらも、目の前の侍女の不思議な雰囲気に引かれるように、胸の内にある不安や疑問を少しずつ吐露し始めた。
「私、時々、自分が自分でないような気がするんです。他の人とは違うような…そんな気がして…。それに、たまに不思議な夢を見るんです。いつも同じ場所で、綺麗な女の人と、威厳のある男の人が出てくる夢を…」
シェリーの声は、誰にも打ち明けられなかった悩みを初めて口にできた安堵感と、それでも消えない不安とで、少し震えていた。
侍女は、シェリーの言葉を一言一句、大切に受け止めるように、じっと耳を傾けていた。その瞳には、シェリーの純粋な悩みに触れたことに対する深い共感と、彼女がこれから進むであろう道への静かな眼差しが、複雑に揺らめいているように見えた。その佇まいは、シェリーの言葉の全てを優しく受け止め、包み込もうとしているかのようだった。
「…そうでしたか。お辛い胸の内を、よくお話しくださいましたね」
侍女は、まずシェリーの言葉を受け止めるように、穏やかに言った。
「他の人と違うと感じること…それは、決してあなた様がおかしいということではございませんよ。誰しもが、自分だけの特別な何かを、多かれ少なかれ抱えて生きているものですわ。大切なのは、その『違い』を恐れるのではなく、それとどう向き合い、どう受け入れていくか、ということなのではないでしょうか」
その言葉は、まるでシェリーの心の奥底を見透かしているかのように、温かく、そして力強かった。
「夢のことも…きっと、あなた様にとって何か大切な意味を持つものなのでしょう。今はまだ霞の向こうにあるように感じられても、いつか必ず、その霧が晴れる日が参ります。焦らず、ご自身が見聞きし、感じたことを、一つ一つ大切になさってくださいませ」
侍女は、シェリーの瞳をまっすぐに見つめ、慈愛に満ちた表情で続ける。その眼差しは、シェリーの不安を和らげ、心の奥深くに小さな希望の灯をともすかのようだった。
「そして…決して諦めてはなりません。たとえ、その先に待ち受ける真実が、時に厳しい姿をしていたとしても…それは必ず、あなたをより強く、そして優しくしてくださるはずですから」
侍女はそう言うと、シェリーの肩にそっと手を置き、励ますように優しく微笑んだ。その瞬間、シェリーは彼女の手に触れた箇所から、微かに、しかし確かに、温かく、そしてどこか懐かしいような、言葉では言い表せない不思議な感触が伝わってくるのを感じた。
「…はいっ!」
シェリーが力強く頷くと、侍女は満足そうに微笑み、「それでは、私はこれで失礼いたします」と、静かに一礼してその場を立ち去ろうとした。
その時、彼女が身に着けていた質素なエプロンのポケットから、小さな白い羽根のようなものが、はらりと地面に落ちたのにシェリーは気づいた。それは、普通の鳥の羽根というよりは、何か特別な鳥のものなのか、あるいは精巧な細工物なのか、陽光を浴びて清らかな光沢を放っているように見えた。
「あの、すみません!落とされましたよ!」
シェリーが慌ててそれを拾い上げようとしたが、侍女は振り返ることなく、「いいえ、それはあなたに。きっと、良き道しるべとなりましょう」とだけ言い残し、庭園の木立の奥へと静かに姿を消していった。
シェリーの手のひらには、温もりを残すネックレスと、その小さな白い羽根が握られていた。ネックレスの光はいつの間にか収まっていたが、シェリーの胸の高鳴りはまだ止まらない。
(あの人…一体誰なんだろう…でも、なんだか、すごく大切なことを教えてもらった気がする…)
侍女の言葉と、手の中の羽根。それらが何を意味するのか、今のシェリーにはまだはっきりと分からない。しかし、それはもしかしたら、彼女が自身の謎を解き明かすための、小さな、けれど確かな導きとなるのかもしれない、そんな予感がした。
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その日の夜、シェリーは自室に戻ると、いても立ってもいられず、フェニクスにいる両親にスマートデバイスで連絡を取った。画面の向こうに、心配そうなパパとママの顔が映し出される。
「シェリー、どうしたんだい、こんな時間に。何かあったのか?」
ナサニエルの穏やかな声に、シェリーは意を決して切り出した。
「パパ、ママ…お願い、本当のことを教えてほしいんだ」
彼女の声は、緊張で少し震えていた。
「まず…パパとママは、本当に私のパパとママなの?」
唐突な、しかしシェリーにとっては最も根源的な問いだった。ナサニエルとクロノエルは一瞬息をのみ、互いの顔を見合わせる。
ナサニエルが、努めて落ち着いた声で答える。「もちろんだとも、シェリー。私たちは、お前を我が子として、心から愛している。それは疑いようのない事実だよ」
「うん…それは、私も信じとる。でも…」シェリーは言葉を続ける。「じゃあ、私は本当に…パパとママの子供なの?吸血鬼とエルフのハーフだって言われてきたけど…それも、本当なの?」
ナサニエルは少し困ったように眉を寄せた。「急にどうしたんだい、シェリー?何か…アストラリスで、お前の出自について何か言われたのか?」
「そおじゃにゃあ。そうじゃなくて…この前の銀行での事件…私、銀の弾で撃たれたんだて、胸を。なのに…なのに、すぐに傷が治っちゃったんだわ。それに、あの時、私、普通じゃありえない動きをした気がするんだ。アキヅキ先生も、エディも、みんな何か隠しとる!普通の吸血鬼なら、銀の弾で撃たれたらもっと大変なことになるって、昔パパが教えてくれたじゃん!私…私、本当にただのハーフなの?私は…私はいったい、何者なんだて!?」
シェリーの言葉は次第に熱を帯び、最後は叫びに近くなっていた。銀行強盗事件での恐怖、身体の異常な回復、そして周囲の不可解な対応。それらが積み重なり、彼女の中で巨大な疑問となって渦巻いていたのだ。
画面の向こうで、ナサニエルは深くため息をつき、悲痛な面持ちで目を伏せた。シェリーには、彼が何かを隠している、それも自分にとって非常に重要なことを隠しているようにしか見えなかった。
「シェリー…混乱するのも無理はないよ。確かに、シェリーの身体には…他の者とは異なる、特別な力があるのかもしれないねぇ。でもそれは、シェリーが劣っているとか、ましてや何かの間違いで生まれたということでは決してないんだ。それは…」
ナサニエルは言葉を選びながら、慎重に、しかしどこか核心を避けるように話し始めた。彼の声色からは、シェリーを心から慈しみ、守ろうとしている気持ちは痛いほど伝わってくるのだが、本当に知りたいことについては、巧みに言葉を濁されてしまう。
クロノエルが、静かにナサニエルの言葉を引き継いだ。その声は、いつものように穏やかだが、シェリーの心の奥深くに響くような、不思議な力強さがあった。
「シェリー。あなたの持つ力や、あなたがこれから知るであろうことは、もしかしたら、今のあなたには受け止めきれないほど大きなものかもしれへん。せやけどね、どんな真実も、あなたがあなた自身であることの価値を損なうもんやないのよ」
彼女の瞳は、シェリーの持つネックレスと、侍女から託されたという白い羽根飾りを、画面越しにじっと見つめているようにシェリーには感じられた。その眼差しには、何か深い意味が込められているように思えたが、今のシェリーにはそれが何かまでは分からない。
「そのネックレスも、その羽根も、きっとあなたを正しい道へと導いてくれるはずや。今はまだ、私たちにも話せないことがたくさんある。それは、あなたを信用してへんからやない。あなたを守りたいから…そして、あなたが真実と向き合うべき『時』が、まだ来てへんからなんよ」
クロノエルの言葉は優しかったが、そこには決して譲れない何かがあることも、シェリーは感じ取っていた。
「いつか、必ず全てをお話しする日が来ます。でも、今はまだ…。どうか、私たちを信じて…そして何よりも、ご自分を信じて、大学での新しい生活を大切になさいな」
その言葉には、母としての深い愛情と、それと同時に、何か大きな、シェリーには計り知れないほどの事情を抱えている者の、苦渋に満ちた響きがあった。
両親の言葉に、シェリーは唇を噛み締めた。彼らが自分を深く愛してくれていること、そして何か途方もない事情を抱え、自分を守ろうとしてくれていることは痛いほど理解できる。しかし、もう「待つ」だけではいられないのだ。彼らは何かを知っている。でも、それを教えてはくれない。
(パパもママも、きっと私のことを思ってくれてる。でも…でも、これ以上は何も聞き出せない…)
シェリーは、心の奥でそう悟った。
「…分かった。じゃあもう、聞かない」
連絡を終えたシェリーは、込み上げてくる涙をぐっとこらえ、まっすぐに窓の外を見上げた。(でも、私は諦めんよ)その決意は、声には出さずとも、彼女の強い眼差しに宿っていた。
シェリーは窓の外に広がるアストラリスの夜景を見つめた。無数の光が煌めく大都市。そのどこかに、自分の謎を解く鍵が隠されているはずだ。
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数日後、アストラリス大学の入学式が、その壮麗さで帝国中に知られる大講堂で執り行われた。講堂内部は、まさに魔法と科学技術の融合の極致とも言える空間だった。何百年も昔に切り出されたであろう巨大な一枚岩の壁には、古代魔法のルーン文字が淡い光を放ちながら刻まれ、それが最新のマナコンダクター回路と複雑に絡み合い、講堂全体を包み込むような幻想的なエーテルフィールドを形成している。高いドーム型の天井には、現実の星空を模した無数の光点が魔法によって投影され、その間を小型の浮遊式情報ディスプレイが静かに滑り、式次第や祝辞を多言語で表示していた。演壇は、磨き上げられた黒曜石と、光を透過する特殊なクリスタルガラスで作られ、まるで宙に浮いているかのような錯覚を与える。壮大でありながら、どこか異質で、見る者を圧倒する空間だった。
新入生たちは、期待と緊張が入り混じった表情で、指定された区域の席に座っていた。シェリーとエディも、その喧騒の中にいた。周囲を見渡せば、フェニクスでは想像もつかないほど多様な種族の学生たちが集っている。優雅な白い翼を背中に畳んだ天族の学生たちは、どこか近寄りがたいオーラを放ち、同じ天族やエルフ系の学生と小声で言葉を交わしている。彼らの多くは会場の前方、来賓席に近い場所に集まっていた。一方、角や尾を持つ魔族系の学生たちは、やや後方や両翼の席に固まって座り、周囲を睥睨するような鋭い視線を送る者もいれば、仲間内だけで大きな声で談笑し、自由奔放な雰囲気を漂わせる者もいる。屈強なドワーフの学生たちは、工学部系の新入生が集まる一角で、何やら専門的な器具や設計図らしきものを広げて熱心に議論しており、その傍らでは、様々な肌の色をした獣人の学生たちが、好奇心旺盛に周囲を見回していた。人族の学生が最も数は多いが、その服装や持ち物、あるいは言葉の訛りなどから、首都アストラリス出身者、地方の貴族出身者、そしてシェリーたちのような一般家庭出身者といった具合に、目には見えないグループ分けがされているようにも感じられた。
シェリーは、その光景に圧倒されつつも、なぜか胸の奥に小さな棘が刺さったような、かすかな居心地の悪さを覚えていた。多様な種族が共存しているはずのこの国で、そしてその最高学府であるはずのこの場所で、それでもなお感じられる目に見えない隔たりとは何なのだろうか、と。エディもまた、猫獣人である自身に向けられる好奇と、時に警戒の色を帯びた視線を感じ取り、少しだけ身を硬くしていた。
やがて、荘厳な音楽と共に式典が始まった。学長が、浮遊する演壇にゆっくりと登壇した。その祝辞は、アストラリス大学の輝かしい歴史と、ミスティス帝国の未来を担う新入生への期待を語る、格調高いものだった。
「諸君、アストラリス大学へようこそ。この学び舎は、あらゆる種族、あらゆる思想を受け入れ、帝国の、いや、世界の未来を切り開くための知恵と力を育む場である。魔法の深淵を探求する者も、科学技術の限界に挑む者も、ここでは等しく尊重される。重要なのは、互いの違いを認め、手を取り合い、より良き未来のために貢献することだ」
その言葉は力強く、そして理想に満ちていた。しかし、シェリーには、その言葉の裏に、この国が抱える根深い対立――魔法伝統派と技術革新派、天族と魔族――への牽制と、それを何とか糊塗しようとする為政者の苦悩のようなものが、微かに感じ取れたような気がした。講堂内にいる学生たちの中にも、学長の言葉に熱心に耳を傾ける者もいれば、冷めた表情で聞き流す者、あるいは隣の者とひそひそと何かを囁き合う者もいる。その反応の違いが、この大学、そしてこの国の複雑な現実を如実に物語っていた。
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式典が終わり、いよいよアストラリス大学での新しい生活が始まる。シェリーは、胸にかけた灰色のクリスタルのネックレスと、ポケットにしまった白い羽根をそっと握りしめた。隣に立つエディもまた、決意を新たにしたような引き締まった表情で前を見据えている。
その瞳には、恐怖や不安を乗り越え、未知なる運命へと立ち向かう、強い意志の光が宿っていた。
これから始まる波乱に満ちた大学生活と、自身のルーツを巡る壮大な物語。その幕が、今、静かに上がろうとしていた。