1.6. 主治医:アキヅキ
救急ポッドの中は、外界の喧騒が嘘のように静かだった。様々な医療モニターがシェリーの状態を表示し、自動化されたアームが応急処置を施しようとしている。しかし、シェリーのバイタルサインは依然として不安定な数値を繰り返し、モニターからは警告音が断続的に鳴り響いていた。
エディは、青白い顔で苦しげに息をするシェリーの手を固く握りしめることしかできない。先ほど目の当たりにした、信じられないほどの速さでの傷の治癒。そして今の、見るからに危険な状態。何がどうなっているのか、彼には全く理解できなかった。
(シェリー…頼む、死なんでくれ…!)
ただ、心の内でそう叫ぶことしかできなかった。
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ポッドはアストラリスの空を高速で移動し、やがて、市の中心部から少し離れた、厳重な警備体制が敷かれたアストラリス大学大学病院の一角――通常の患者とは隔離された特別医療棟――へと到着した。そこでは、まるでシェリーの到着を予期していたかのように、白衣をまとった数名の医療スタッフが慌ただしく準備を整えて待ち構えていた。彼らは皆、落ち着き払ってはいるものの、その立ち居振る舞いや目つきからは、並の医師や看護師ではない、特別な訓練を受けた専門家チームであることが窺えた。
ポッドのハッチが開くと同時に、シェリーの身体はストレッチャーに乗せられ、医療スタッフたちによって施設内部の奥深くへと運び込まれていく。エディも後に続しようとしたが、リアナにそっと肩を抑えられた。
「君はここで待機だ。彼女の治療は、我々専門のチームが行う」
その言葉は静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。エディは反論しようとしたが、リアナの真剣な眼差しと、シェリーを救いたいという彼女の強い意志を感じ取り、悔しそうに唇を噛み締めながらも、その場に立ち尽くすしかなかった。
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シェリーが次に意識を取り戻した時、最初に感じたのは奇妙な浮遊感と、全身を包む絹のように滑らかな寝具の感触だった。重いまぶたを押し上げると、そこはまるで王族の居室の一室かと見紛うほど、調度品の一つ一つに気品が漂う広々とした個室だった。天井は高く、壁には落ち着いた色調のタペストリーが掛けられ、部屋全体が間接照明の柔らかな光で満たされている。空気は薬草の優しい香りと、清浄なエーテルが循環しているような、心地よい清涼感があった。ベッドの傍らには、最新鋭でありながらも威圧感のない、洗練されたデザインの医療装置が数台、静かに稼働音を立てている。大きな窓からはアストラリスの街並みが見下ろせるが、その窓ガラスには何重もの魔法的な防御術式が施されているのが微かに見て取れた。
(私…どうなったんだっけ…?)
朦朧とする頭で記憶を辿ろうとする。銀行での騒ぎ、悲鳴、そして胸を貫いた灼熱の痛み――。そこまで思い出したところで、シェリーははっとして自分の胸元に手をやった。上質な寝間着の上から触れると、確かに治療を施された痕跡はあるものの、あの激しい痛みは嘘のように消えている。それどころか、大きな傷跡が残っているような感覚もない。
(やっぱり…夢じゃなかったんだ…私、撃たれたのに…なんで…?)
混乱は深まるばかりだった。撃たれた瞬間の恐怖と、血の気が引いていく感覚は鮮明に覚えている。しかし、同時に、絶望の中でなぜか「まだ生きている」という不思議な確信があったことも思い出していた。
「お目覚めになられましたか、シェリー様」
穏やかで、どこか懐かしい声がした。見ると、ベッドサイドに初老の紳士が、心配そうな、しかし温かい眼差しで立っていた。その顔には見覚えがあった。幼い頃、フェニクスの夜の教会で熱を出した時や、ちょっとした怪我をした時、いつも優しく診てくれたアキヅキという名の医師だった。こんな大都市アストラリスの、それもこれほど立派な施設で再会するとは思いもよらなかったが、その変わらない柔和な表情に、シェリーは張り詰めていた心の糸が少しだけ緩むのを感じた。彼の周りには、数人の医療スタッフが控えており、その誰もがシェリーに対して深い敬意を払っているような、真摯な態度で接してくる。
「アキヅキ先生…?どうして、先生がここに…?ここは…?」
「あなたの状態は、ひとまず安定なさいました。ですが、まだ決して油断はできません。しばらくはここで安静にしていただく必要があります」
アキヅキ医師は、シェリーの問いには直接答えず、そう言って穏やかに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。その口調は昔と変わらず優しいが、瞳の奥にはあの頃にはなかった、何か重いものを秘めているような翳りが感じられた。
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治療と称される日々が始まったが、それはシェリーにとって、安心感と同時に拭いきれない疑念を抱かせるものだった。アキヅキ医師をはじめとする医療チームの態度は常に献身的で、シェリーの身を心から案じているように見えた。少なくとも、そこに悪意や冷たさは感じられない。ただ、時折見せる真剣すぎる眼差しや、シェリーの些細な変化にも過敏に反応する様子からは、何か通常ではない、特別な任務を帯びているかのような緊張感が伝わってくるのだった。
シェリーが自身の身体に何が起こったのか、なぜこれほど厳重な医療施設にいるのかを尋ねても、彼らは「今は治療に専念してください」「全てはあなた様をお守りするためです」といった言葉を繰り返すばかりで、核心に触れる説明は一切なかった。
特に、胸の奥に微かに残る、時折ズキリと痛むような、あるいは何かが蠢いているような奇妙な違和感について尋ねても、アキヅキ医師は「弾丸は取り除きましたが、少々複雑な傷でしたので、その影響が残っているのでしょう。じきに良くなります」と、どこか歯切れの悪い説明をするだけだった。
(うそだ…何か隠してる。アキヅキ先生まで…昔は、もっと何でも話してくれたのに…)
シェリーは、彼らの態度に、直接的な恐怖ではなく、何か大きな、自分にはまだ知らされてはいけない秘密の存在を感じ取り、それが言いようのない不安と、真実を知りたいという強い渇望をかき立てるのだった。
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時折、治療中に意識が混濁すると、彼女は断片的な悪夢を見た。光と闇が激しくせめぎ合う眩いイメージ。あるいは、嵐の夜、傷ついた猫獣人の女性が何かを必死に守ろうとしている姿。それらが何を意味するのか、シェリーにはまだ知る由もなかった。
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数日が経過し、シェリーの身体は驚異的な速さで回復を見せたが、アキヅキ医師が退院の許可を出すまでにはさらに数日を要した。その間、エディは毎日欠かさずシェリーの病室を見舞いに訪れたが、その表情はどこか硬く、以前のような気安さは薄れていた。
シェリーが事件のことや、自分の身体に何が起こったのかを尋ねても、エディは「医者から、あんまりお前に色々話さんようにって言われとるけん…大丈夫、お前は助かった。それだけでよかろうもん」と、何かを隠すように言葉を濁すばかりだった。彼の態度には、シェリーを心から心配する気持ちとは裏腹に、何かを語りたくても語れないような、見えない枷を感じさせるものがあった。あの日の出来事と、その後のあまりにも手際の良い収拾劇は、彼の心にも言葉にできぬ重い影を落としていたに違いない。
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リアナ・ストーム自身は、シェリーが目覚めてから一度も病室に姿を見せることはなかった。しかし、彼女の部下と思われる、感情を表に出さない黒服の者たちが常に病室の周辺を警護しており、シェリーやエディの行動を監視しているのは明らかだった。彼らの存在は、アキヅキ医師や医療スタッフたちにとっても無言の圧力となっているかのようで、シェリーの治療に関する情報は、鉄壁の守秘義務のもとに置かれていることを暗に示していた。実際に、新聞や情報端末のニュースで報じられた銀行強盗事件の顛末は、シェリーが被弾したことや、その異常な回復については一切触れられておらず、まるで最初からそんな事実は存在しなかったかのように処理されていた。あれほど多くの人々が目撃したはずの事件の核心部分は、まるで最初から存在しなかったかのように、誰の口の端にも上らなくなっていた。アストラリスの喧騒は、時としてあまりにも早く、そして都合よく物事を忘れさせる力を持っているかのようだった。
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シェリーが入院している間、エディだけでなく、マリアとルナもまた、心配そうに何度も見舞いに訪れていた。彼女たちは、事件の衝撃とシェリーの負った傷の深さを目の当たりにし、心を痛めていた。特にマリアは、シェリーの身体から感じた尋常ではないマナの揺らぎや、その不可思議な回復の様子に、治癒師としての知識では到底説明のつかない何かを感じ取っていた。
マリアは、セレスティア諸島の聖域「月の泉」で生まれ育ち、一族に伝わる古い伝承や、天界の理に触れる機会も僅かながらあった。 その朧げな知識の片隅に、シェリーのような特異なマナの揺らぎを持つ存在を示唆する記述がなかったか記憶を辿ろうとしたが、今の彼女にはまだ、明確な答えは見つけられなかった。ただ、シェリーという存在が、この世界のありように何か大きな影響を及ぼす、測り知れない可能性と、それ故の危うさを秘めていることだけは、マリアの鋭敏な感受性がかすかに捉えていた。
ルナもまた、あの衝撃的な事件を間近で目撃した恐怖と、シェリーの身に起きた不可解な出来事への戸惑いで、まだ心が落ち着かない様子だった。それでも、マリアから伝え聞くシェリーの容態を心から案じ、毎日シェリーのために故郷のセレスティア諸島に咲くという小さな癒しの花を摘んできては、病室の花瓶にそっと活けていた。その行為は、言葉以上に彼女の温かい心をシェリーに伝えていた。
マリアは、シェリーの特異な状態について、医学部の教授や信頼できる昼の教会の関係者に相談することも考えたが、王室警備庁の厳重な警戒態勢と、事件そのものの不可解な隠蔽工作を前に、下手に動けばシェリーの身にさらなる危険が及ぶかもしれないと思いとどまった。今はただ、シェリーが無事に回復し、一日も早く元気な笑顔を見せてくれることを祈るしかなかった。
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そして、ようやく退院の日がやってきた。アキヅキ医師は、シェリーに数種類の薬(主に精神安定や疲労回復を助けるものだと説明された)を手渡し、最後にこう告げた。
「シェリー様、ご退院おめでとうございます。しかし、決して無理はなさらないように。そして…今回の事件については、あまり深く詮索なさらない方が、あなたご自身のためかと存じます。世の中には、知らぬ方が幸せなこともあるのです」
その言葉は、シェリーの身を案じているようでもあり、同時に、何かを諦めさせるような、冷たい響きも帯びていた。
医療施設を一歩出ると、そこには数日前と変わらないアストラリスの喧騒があった。しかし、シェリーの目に映る世界は、以前とはどこか違って見えた。自分の身体に起きた不可解な現象、エディのぎこちない態度、アキヅキ医師の謎めいた言葉、そして何よりも、全てが隠蔽され、何もなかったかのように日常が続いているという事実。それら全てが、シェリーの心に大きな「しこり」となって残った。
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学生寮の自室に戻っても、その「しこり」は消えることはなかった。鏡に映る自分の姿は、以前と何も変わらないように見える。しかし、シェリーは知っていた。あの事件を境に、自分の中で何かが決定的に変わってしまったことを。胸の奥には、時折、あの銀の弾丸がまだそこにあるかのような、鈍い疼きと奇妙な力の脈動を感じる。目を閉じれば、あの瞬間の犯人の歪んだ笑顔や、自分の身体から立ち上ったという光と闇のオーラの残像が、不意に蘇っては消えた。
エディは心配して毎日部屋を訪ねてくれるが、事件のことになると、何かを言いかけては口をつぐんでしまう。その気遣いが、かえってシェリーを孤独にさせた。マリアやルナも気にかけてくれているのは分かるが、彼女たちにこの言いようのない不安をどこまで話していいものか、シェリー自身も測りかねていた。
(やっぱり、何かあるんだ…私にしか分からない、何か大きな秘密が…)
恐怖はまだあった。しかし、それ以上に、真実を知りたいという強い想いが、彼女の中で確かな輪郭を持ち始めていた。このアストラリスという街で、自分自身の手で、その謎を解き明かさなければならないのだと。
シェリーは、無意識のうちに、母から渡された灰色のクリスタルのネックレスをそっと握りしめた。それは、今の彼女にとって、唯一確かな手がかりのように感じられた。