3.4.3 最後の闘い
意識が、急速に現実へと引き戻される。
シェリーがはっと目を開けた時、彼女の耳に飛び込んできたのは、エディの切羽詰まった声だった。
「シェリー、先に行け! ここは俺たちが食い止める!」
目の前で、エディが光の斬撃を剣で受け止め、その衝撃に腕を軋ませている。
(……え? ウチは今……? エディは死んだはず……)
混乱する思考。しかし、脳裏にはっきりと焼き付いている。フジシロの根に貫かれ、エディが絶命した、あの絶望的な光景が。
(時間が戻っとる……パラドクスとの契約は、本物だったんだわ)
シェリーは唇を噛み、エディの背中を見つめた。二度と、あの光景を繰り返させてはならない。彼女は頷き、祭壇へと続く暗い廊下へと駆け出した。
しかし、一度目のやり直しは無惨な結果に終わった。
記憶した攻撃パターンを躱した直後、予測不能な死角から迫った第四の根が、シェリーの胸を貫いたのだ。
――ぷつり。
再び訪れる、純白の静寂。
激しい嘔吐感と頭痛に膝をつくシェリーの前に、少年の姿をしたパラドクスが音もなく降り立った。彼はひざまずき、汚れたシェリーの頬をハンカチで拭う。その手つきは驚くほど優しく、しかし瞳はどこまでも空虚だった。
「……酷い顔ですよ、シェキナ様。……ああ、失礼。シェリー、でしたね」
彼は寂しげに微笑むと、指先で虚空をなぞった。
黄金の光が走り、幾何学的な美しさを湛えた巨大な樹形図が、二人の周囲に広がる。
「いいでしょう。次の情報を提示します。……これが未来です。あの方が夢見た、そして絶望した、因果の可能性の結実――『デンドログラム』」
パラドクスは、複雑に枝分かれした光の枝の一本を、愛おしげに指差した。
「シェキナ様。貴方はこの中から一つ、可能性の枝を選ぶだけでいい。そうすれば、フジシロを倒せます。……例えば、次はこの未来を試してみるのはどうですか? ちょうど、招かれざる『客』が乱入してくるようですから」
「……わかった。やってみる」
シェリーがその枝に触れた瞬間、パラドクスの表情が一瞬だけ、歪んだ。
『……健気ですね。……だからこそ、壊したくなる』
少年の囁きが消える前に、世界は再び反転した。
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三度目の現実。シェリーはフジシロと対峙していた。
デンドログラムが示した通り、そこには思わぬ助っ人が現れる。
キィン! と、甲高い金属音と共に、紫黒の魔剣がフジシロの根を弾き飛ばした。
祭壇の横の闇から、不敵な笑みを浮かべたダミエン・ブラッドオーデンが姿を現す。
《フン……面白い。その動き、未来が見えているかのようだ》
直接脳内に響くダミエンの思念。シェリーは彼を巻き込むための賭けに出る。
《ダミエン君……協力して! この戦いを終わらせるのに力を貸してくれるなら、その暁には貴方と私の一対一の『決闘』を、私の名と力にかけて約束するわ!》
ダミエンは心底愉快そうに、不遜な笑みを深めた。
《いいだろう、その茶番を終わらせるのに手を貸してやる。そして、その決闘で全てを奪い取ってやる》
しかし、フジシロの怒りは頂点に達していた。背後から津波のように押し寄せる「生命の樹」の根。
《連携も何もない、ただの烏合の衆だな。……次があるなら、もう少しマシな策を考えろ》
ダミエンの皮肉な言葉を最後に、二人の身体は圧倒的な情報の奔流に飲み込まれ、意識が闇に沈んだ。
世界が白く染まっていく。
だが、シェリーの心は、もはや折れてはいなかった。
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再び、意識はエディの叫び声と共に現実へと引き戻された。
「シェリー、先に行け! ここは俺たちが食い止める!」
何度目の光景だろうか。十度目か、それとも二十度目か。
シェリーの精神は、繰り返される絶望の熱に焼かれ、少しずつその形を失い始めていた。一言一句違わずに繰り返されるエディのセリフも、色褪せた記録映像のように感じられ、彼女の心を摩耗させていく。
(……え? この人は……誰だっけ?)
エディの横を通り過ぎようとした瞬間、シェリーの足が止まった。
いつも自分を守ってくれた、この温かい背中の持ち主の名前が、どうしても思い出せない。
脳裏に走るデジタルの砂嵐。激しい耳鳴りが頭蓋を揺らす。
『……集中してください、シェキナ様』
脳内に、パラドクスの冷徹で、どこか悲痛な囁きが響く。
『主の記録から、君の古い思い出が一つ、今、失われました。……代償として、一つ未来を確定させましたよ。……フジシロはもうじき、丸裸になります。……安い買い物でしょう?』
(……エディ。そう、エディだわ。私の……幼馴染……)
心核が激しく脈打ち、消失しかけた記憶を強引に引き戻す。シェリーは鼻から流れた血を袖で拭うと、朦朧とする意識を叱咤して走り出した。
(無駄にはせん。私の全部が消える前に……絶対に……!)
シェリーはホールの柱の影に身を隠し、全神経をルシアンと仲間たちの戦いに集中させた。
今回のループの目的は、第一戦線の完全なパターン解析だ。
ラゼルの闇魔法によるフェイント。マリアの浄化魔法の詠唱。
間に合わない。あと少しだけ一瞬の猶予が必要だ。
シェリーはループの合間の白い空間で得た『デンドログラム』の座標を、通信機越しにサキへ叩きつける。
「サキちゃん! 右肩! 2秒! 弾頭D-7使って!今なら装填間に合う」
サキは、その非連続的で、未来を知っているとしか思えない指示に目を見開いたが、即座に理解した。
「……了解。……あなたの『バグ』、最大限に利用させてもらうわ!」
断片的な未来情報を基に、本来なら数時間かかる解析が、わずか数分で塗り替えられていく。
仲間たちの動き、技の特性、秒単位のクールタイム。その全てがシェリーの脳内に、耐え難い高熱を伴って蓄積されていった。
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そして、また次のループ。
シェリーは再び祭壇へと向かった。今度は、フジシロと、そしてダミエンの観察だ。
「よく来たな、シェリー君」
フジシロの言葉を合図に、死の舞踊が再開される。
シェリーは、記憶したパターン通りに最小限の動きで攻撃を躱し、同時にダミエンへ思念を飛ばす。
《ダミエン君! フジシロは、聖遺物の鼓動と同時に床の根の数が倍増する!ただ鼓動から攻撃発生まで、3.5秒の猶予があるから!》
《指図するな! ……だが、その読みだけは採用してやる!》
忌々しげに舌打ちしながらも、ダミエンはシェリーの示した「確定した未来」をなぞり、フジシロの懐へと肉薄する。
二人の間には、言葉とは裏腹の、神速の連携が生まれ始めていた。
このループも、最後にはフジシロの圧倒的な物量の前に終わりを告げた。
だが、視界が白光に包まれる間際、ダミエンの不敵な思念がシェリーに届いた。
《フン……面白い。この盤面、どうやらプレイヤーは俺とフジシロだけではなかったようだな。……次は、その首(核)を獲られないようにしろ》
再び、世界が白く染まっていく。
鼻を突く血の匂いと、削り取られていく自分。
けれど、シェリーの瞳に宿る意志は、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされていた。
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「シェリー、先に行け!ここは俺たちが食い止める!」
聞き慣れたエディの叫び声。二十回、いや、それ以上聞いたかもしれないその声を背に、シェリーは静かに振り返った。彼女の瞳には、もう絶望も焦りもない。
彼女の視界は、もはや正常ではなかった。世界は色彩を失い、その代わりに黄金の光で描かれた複雑怪奇な樹形図――『デンドログラム』が網目状に張り巡らされている。
「ううん。みんな、聞いて」
シェリーの声は、自身の存在の輪郭を削り取った代償として、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを湛えていた。鼻から流れる血も、鳴り止まない耳鳴りも、今の彼女にとっては勝利を確定させるためのノイズに過ぎない。
「説明はあと! 今から私の言う通りに動いて。……信じて!」
(……パラドクス、未来を確定して)
『……了解。お前の魂の記録から、今、一つの「季節」が失われた。……因果の収束まで、あと六十秒』
脳内で響くパラドクスの囁き。かつて誰かと過ごしたはずの、暖かい夏休みの記憶が、音もなく霧散していく。代わりに、目の前の情報の糸が、一本の太い「勝利の枝」へと集約された。
「マリアさん、今から、詠唱開始! ラゼル、私が合図したら彼の右肩に闇魔法を! サキちゃん、解析は不要。代わりに私の合図で、今からデータを送る周波数のシグナルをルシアンさんの鎧に照射して!」
その冷徹な指示に、仲間たちは息を呑みながらも、本能的に頷いた。
「……分かった。お前に賭けよう」
「了解。……シェリーの「外れ値」、信じさせてもらうよ」
仲間たちが動き出す。マリアの浄化魔法が完成した瞬間、シェリーの合図でラゼルの闇魔法がルシアンの体勢を崩し、サキのシグナルが鎧の機能を停止させた。
「今ですわ!」
マリアの光がルシアンを包み込み、呪縛を解き放つ。ルシアンが膝をつき、「すまない……」と呟いて意識を失うその光景すら、シェリーにとっては『予定通り』の記録だった。
シェリーはエディの手を引き、祭壇へと駆け出した。
「右へ二歩、エディ! 伏せて!」
「お、おう!」
デンドログラムの光が、フジシロの放つ攻撃の軌道を数秒先まで予見している。二人はダンスを踊るように、絶対的な死の合間を縫って進む。
祭壇にたどり着いたシェリーを、ダミエンの魔剣が援護した。
《フン……面白い。ついに正解の枝を掴み取ったか、グレイソン》
《ダミエン君! 座標固定完了! 心臓を、お願い!》
フジシロの焦燥が爆発する。「なぜだ! なぜ私の動きが読める!」
その叫びすら、確定した情報の断片に過ぎない。
『……シェリー』
ふと、パラドクスの声が、通信ではなく心に直接届いた。
『最後の一手です。あの方なら、ここで世界にとって安全な枝を選んだでしょう。……ですが、君なら、どうしますか?』
その問いかけに、シェリーは朦朧とする意識の中で笑った。
(決まっとるじゃん。……私だって誰も、消さない!)
シェリーは自分「そのもの」を燃焼させ、デンドログラムには存在しなかった、新たな「可能性の枝」を力ずくで生み出した。背中の光と闇の翼が、白銀の閃光へと融合する。
「エディ、今! 柱を壊して!」
「うおおおおおっ!」
崩落する瓦礫が、フジシロの魔力防御を完全に無効化する。その刹那、ダミエンの魔剣が空を裂いた。
「これで、終わりだ」
魔剣が聖遺物の核を寸分違わず貫いた瞬間、シェリーの放った因果の輝きがフジシロの存在そのものを情報の彼方へと押し流した。
勝利の瞬間にシェリーが感じたのは、歓喜ではなく、驚くほどの静寂だった。
そして、パラドクスの、今までで一番穏やかで、一番哀しげな独り言。
『……記録完了。あの方が書かなかった……君だけの、物語だ』
シェリーの意識は、そこで完全にホワイトアウトした。




