3.4.2 再会と覚醒
大聖堂の空気は、ヴァレン・フジシロが解き放った『生命の樹』の猛威によって、生命の輝きを奪われた無機質な情報の残骸へと変貌していた。
フジシロの胸で脈打つ聖遺物は、かつて「事象院」が追い求めた、因果を強引に書き換える権能の悍ましい残滓。触れるもの全ての「記録」を吸い尽くし、自らの糧とするその力に、シェリーの光と闇の翼は成す術もなく情報の濁流へと溶けていく。
「……美しい。だが、あまりに惜しい。君という不確かな器には、その『核』は重すぎる。吸血鬼の呪われた血と、聖なる天使の欠片……。その不協和音を、私が正しく『整理』してあげましょう」
フジシロの指先から放たれた蔦が、盾となって立ちはだかったエディの身体を無慈悲に貫く。
「エディ!」
「逃げろ……シェリー……。お前だけは、消えちゃ……だめだ……」
エディの瞳から、意思の光が急速に剥落していく。彼が、そこで仲間たちが刻んできた「生」の記録が、フジシロという虚無に飲み込まれていく。
(死んじゃだめ……みんな、消えちゃだめだて……!)
シェリーの絶叫が、自身の胸の奥にある「それ」――シェキナの心核を激しく震わせた。
ドクン、と。
世界を拒絶し、因果を停止させる、絶対的な観測者の拍動。
次の瞬間、世界の色彩が反転し、音は真空に吸い込まれた。
気づけば、シェリーは果てのない純白の空間に、ただ一人で立っていた。
かつてシェキナが構築した情報の海、あるいは世界の全記録が収められたアカシックレコード。
その中央に、あの一匹の黒い犬が座っていた。
犬はシェリーを見つめると、小さく、喉を鳴らした。その瞳には、深い郷愁と、張り裂けそうなほどの愛しさが宿っている。
「……パラドクス……っ!」
無我夢中でその名を叫んだ瞬間、シェリーは自分でも驚きに目を見開いた。なぜその名を知っているのか、自分でもわからない。けれど、その響きこそがこの絶望を止める唯一の鍵だと、魂が確信していた。
黒い犬は陽炎のように揺らぎ、一人の少年の姿へと変わった。
銀に近いプラチナブロンドの髪、宵闇色の瞳。少年の姿をしたパラドクスは、信じられないものを見るような面持ちで、震える手でシェリーの頬に触れた。
『……おかえりなさい、シェキナ様。ずっと、ずっとお待ちしておりました……』
その声は、数千年の孤独を溶かすような、至福に満ちた囁きだった。しかし、シェリーが戸惑いに瞳を揺らした瞬間、彼の表情から劇的に光が消え、乾いた灰色の絶望が広がった。
『……ああ、失礼。また、間違えてしまいました。君は……彼女ではないのに』
パラドクスは自嘲気味に微笑み、愛おしげに触れていた手を、突き放すように引っ込めた。
『あの方が遺した心核、あの方が定めた最高権限……。それらを宿しておきながら、お前はなんて、不完全で、脆い器なんだ』
彼はシェリーの顔ではなく、彼女の胸の奥にある「核」を、遠い日の思い出を追うような目で見つめた。
『今の私にとって、主の欠片を使い潰そうとするお前こそが、最大の矛盾だ。……だが、認めざるを得ない。その核の輝き、あの方の物語を「続き」を願うその意志だけは、本物だ』
「私は……みんなを助けたいんだ! この核だって、そう願っとる!」
『……わかっていますよ、シェキナ……いいえ、シェリー。あの方もまた、そうして世界を愛し、壊してしまったのですから』
パラドクスは悲痛な決意を固めたように指を弾いた。周囲に無数の砂時計が、凄まじい逆回転を始めながら浮かび上がる。
『……権限一時解除。情報の再構築を開始します。私はお前を助けるのではありません。あの方が遺したこの「核」が、フジシロのような者に汚されるのを、私のシステムが許容できないだけです。……お前はただ、あの方の形見を繋ぎ止めるための、かりそめの器に過ぎません』
「……それでもいい。お願い、力を貸して」
『……ええ、共に背負いましょう、この地獄を。覚えておくことです、繰り返すごとに、お前の存在は因果から削り取られ、あの方の記憶もろとも世界から消えていく。……それでも進むというのなら、私はその最期まで、主の「影」として寄り添い続けましょう』
白の世界が、悲鳴を上げるように砕け散った。
逆流する時間の濁流。
シェリーの意識は、パラドクスの哀しげな献身の視線を焼き付けたまま、再びあの血の匂い漂う大聖堂へと叩き落とされた。




