3.2 シェリーの決意
意識が浮上する。最初に感じたのは、鼻をつく薬品の匂いと、肌に触れる金属の冷たさ。
重い瞼をこじ開けると、そこは、眩しすぎる照明に照らされた、真っ白な研究施設の一室だった。シェリーは冷たい金属製のテーブルに拘束され、自身の意思とは無関係に手足がだらしなく開かれている。腕や首筋には、無数の細いチューブが接続され、脈打つように液体が流れ込んでいるのが見て取れた。
彼女の額には、びっしりと冷や汗が滲み、呼吸は浅く速い。
「目覚めましたか、シェリー君。ようこそ、我がサンクチュアリへ」
「そして初めまして、ヴァレン・フジシロと申します。」
声のした方を見ると、ガラスの向こう側、清潔なコントロールルームに白衣をまとった男が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。しかし、その瞳はシェリーを「少女」としてではなく、興味深い「研究素材」として、値踏みするように観察していた。
「少し薬を投与させてもらいました。恐怖心や不安を増幅させ、あなたのその特異な魂の反応を観測しやすくするためのものです」
フジシロの言葉と同時に、シェリーの体内で得体の知れない恐怖が湧き上がってくる。拘束されている事実、未知の場所にいる不安、それらが薬によって強制的に引き出され、正常な思考を麻痺させていく。
「恐れることはない。君のその力は、停滞したこの世界と、愚かなる人類を『新たなる次元』へと到達させるための聖なる触媒なのだから。君は、そのための栄誉ある生贄となるのだよ」
フジシロは、シェリーの心の弱さー自身の異質さへの恐怖、孤独感ーを巧みに突いて言った。
「君は天族にも魔族にもなれなかった出来損ないではない。双方を超えるための『礎』なのだ」
その歪んだ肯定は、シェリーのアイデンティティを揺さぶる。
彼は手元のコンソールを操作する。すると、シェリーの身体に繋がれたチューブから、彼女自身の魔力が逆流し、目の前のホログラムディスプレイに光と闇の粒子となって表示された。自分の魂が、丸裸にされて解析されていく屈辱感を感じる。
「素晴らしい……!この不安定さ、この奔放さ!これこそが混沌の、そして進化の可能性だ!」
フジシロは恍惚とした表情で、さらに計器のダイヤルを上げた。シェリーの体内に、今度は異質な魔力が注入される。全身の血管が内側から焼かれるような激痛が走り、内臓を直接掴まれるような感覚に、思わず彼女の背筋が戦慄した。身体が意思に反して弓なりに反り、引き攣った悲鳴が漏れた。その度にチューブの接続部からは、僅かに赤い血が滲む。フジシロは、そんな彼女の姿を、まるで美しい数式を眺めるかのように、ただ冷ややかに観察しているだけだった。
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薬と精神攻撃、そして肉体的苦痛により、シェリーの意識は強制的に内側へと沈んでいった。
心の拠り所として、仲間たちの姿を思い浮かべる。エディ、マリア、ラゼル、サキ……。しかし、フジシロの声が、それを次々とかき消していく。
「シェリー、諦めんな!」
エディの声が響く。
「あの少年がお前を守れるとでも?」
フジシロの声が嘲笑う。エディの幻影が、闇に溶けるように消えた。
「あなたの光を信じて...」
マリアの声が届く。
「光だと?お前の存在そのものが穢れだというのに」
フジシロの声が断じる。マリアの幻影が、脆くも崩れ去った。
「...死ぬな」
ラゼルの声。
「お前の死は、世界の進化のための礎となるのだ」
フジシロの声が追い打ちをかける。ラゼルの幻影が、影に飲まれて消えた。
「可能性はゼロじゃない!」
サキの声が、微かな希望を灯す。
「データは示している。お前はただの材料に過ぎん」
フジシロの声が否定する。サキの幻影も、無力に消滅した。
全ての支えを失い、絶望に沈むシェリーの前に、最後に養父母の幻影が現れる。しかし、彼らは何も言わず、その姿が二つの「シェリー自身の写し身」へと変わった。
一人は、真っ白な肌で瞳が透明に近い「光のシェリー」。もう一人は、灰色の肌で瞳が黒色に近い「闇のシェリー」。
二人の写し身は、シェリーを肯定も否定も、鼓舞もせず、ただ静かに、しかし鋭く問いかける。
「前を見るの。今の私を縛っているものは、本当に私を留めておけるほどのものなの?」
「目の前のあの醜物は、私が人生を賭して向き合うべき『敵』にすら値するの?」
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写し身の言葉が、絶望の底にいたシェリーの魂とプライドに火をつけた。
彼女は目を見開き、ガラスの向こうのフジシロを真っ直ぐに見据える。その瞳には、もはや恐怖も絶望もない。あるのは、燃え盛るような強い意志だけだった。
「...ふざけないで。私の運命は、私の力は、あなたのオモチャじゃない!」
シェリーは、これまでにない冷たく強い意志を込めて宣言した。彼女の決意に「調和の心臓」が激しく共鳴する。光と闇の力が彼女の内で奔流となり、フジシロの魔術的な拘束を内側から焼き切り始める。彼女の身体から、迸る光と闇のオーラが、計器を破壊し、アラームが鳴り響いた。
フジシロはシェリーの予想外の抵抗に、初めて眉をひそめた。舌打ちし、聖遺物を使った最終手段を行使しようとしたまさにその瞬間。
研究施設の厳重な扉が、まるで最初から存在しなかったかのように静かに開いた。そこには、リリス教授とレヴィアが、さも「自分の研究室に入室するかのごとく」平然と立っていた。フジシロの秘密の拠点は、既に二人に掌握されていたのだ。
「街でセルフィア様から、シェリーさんがあなたに誘拐されたと伺いましてね。あなたのこの素晴らしい研究所を押さえられれば、私の知的欲求もさらに潤せるかと思い、シェリーさんの救出(ついでにこの研究所の物色)を打診したのです」
リリスは優雅に歩み寄り、フジシロの目の前で、彼が恍惚と眺めていたホログラムディスプレイの主電源を、指先一つで断ち切った。
「待たせたな、小娘。少々、手間取った」
レヴィアが半歩遅れて入ってきた。
自身の秘密拠点が、気づかぬうちに完全に掌握されていたという事実に、フジシロは初めて驚愕と屈辱の表情を浮かべた。二人の介入は彼の計算を完全に超えていた。
フジシロは、この状況では勝ち目がないと瞬時に判断した。予測不能なイレギュラーの連続に、苛立ちが募る。
「面白い...実に面白い余興だ!だが、覚えておけ。この盤面、私が必ず覆す!本当の舞台はこれからだ!」
そう捨て台詞を残すと、奥歯を噛み締め、予め用意していた転移魔法を発動させ、その場から一時的に撤退した。
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フジシロが去り、シェリーは二人に救出された。しかし、心身ともに深く傷つき、混乱している。助けられたことへの安堵よりも、自らの無力さ、そしてフジシロの底知れない悪意を改めて痛感する。
「……悔しい」
彼女は、小さく呟いた。仲間たちを思い、一度は立ち上がろうとしたものの、結局は謎の協力者に助けられたという事実に、唇を噛み締める。写し身の言葉が、彼女の心に深く刻まれていた。
(私の本当の敵は、フジシロなんかじゃない……。自分自身の弱さや、この世界の歪みそのものなのかもしれない)




